1話
ハア、ハア、ハア。
息を切らしながら、少女は狭い路地裏を駆けていた。
(どうしてこんな事になったんだろう)
振り返りたい。後ろを振り返って確認したい。そんな欲求と戦いながら、闇雲に路地を走る。
少し前までは市場を冷やかしながら歩いていたのに…。気がついたら大通りを離れ、路地裏に迷い込み、あまつさえ怪しげな男達に取り囲まれ、こうして逃げ回るはめになろうとは。
ひたすら走ることに夢中で、周囲に人影が居ないことにすら気付く事も出来ずに居た。
「…ここまでだ」
ふいに腕をつかまれ、勢い余って転びそうになるところを腰を襟足をつかまれ寸前で止まる。しかし、首の前が締まって一瞬息が止まる。急激な付加を与えられた腕が痛い。
「大事な商品だ。怪我をされたらたまらないからな」
咳き込む少女に、男はゆがんだ笑いを浮かべた。
「見れば見るほど珍しい色をしている。こりゃ高く売れるだろうよ」
思わず睨みつけると、男は笑いを一層下卑たものにした。
「気が強いな、嬢ちゃん。そういう女を調教したいっていうお方は結構多いんだぜ?」
楽しそうに笑う男に気づかれないように、少女――二藍は隠しポケットからそっと布陣の描かれた紙を取り出した。
「ブラン」
ゴウっという音を立てて火の手が舞う。男が怯んだ隙に逃げようとした少女は思わず足を止めた。
逆光で解りにくいが、腰に剣を指した男が彼女の前に立ちはだかる。仲間かと思い、ポケットに手を入れた彼女の頭をすれ違いざまに軽く撫でると、男はその横を通り過ぎ、人買いの男へと近づいていった。
瞬く間、とはこういう事をいうのかと彼女は後で思い返す。
そんな一瞬の速さで、男は剣を抜き、相手の首筋にその先を向けた。
すぐにばたばたとした音と共に、街の警吏がやってきて人買いを引っ立てていく。
呆気に取られて見ていると、男が膝をついて二藍の視線にあわせるように身をかがめてきた。思わず後退さる彼女に困ったような笑顔を向ける。
「怪我はないか?」
静かに響く低い声に二藍は首を縦に振る。静かに深呼吸を繰り返し、心を落ち着かせ顔を上る。
礼を言おうと口を開きかけた少女は一瞬固まった。
(この国の美形って、なんでこうレベルが高いの?)
視線の先に居たのは思った以上に若い男だった。黒髪に青い瞳の持ち主は、彼女と視線が合うとゆっくりと笑顔を見せる。
それにつられたように彼女も微かだが笑いを浮かべた。
ふと男の視線が腕輪にと注がれた。
「もしや、そなた…」
「二藍!」
男が呟くと同時に、その場に転移の陣が現れ、キースと紫炎がその中から出てきた。
「紫炎、キースさん」
ほっとした少女の声に、彼らも息を吐く。そして、その傍に立つ男に気付き、キースの瞳が大きく見開かれた。
「やはり、そなたの魔法具であったか、キース」
「閣下…」
信じられないような物を見るその表情に男は苦笑を見せると紫炎に向って二藍の背中をそっと押す。
その手が離れる瞬間、手を取られ、さらりとした感触と別の感触が彼女の手の甲へ落とされた。
え?と彼女の頭に中が真っ白になるのと、後ろに居たキースの慌てる気配は同時で、すぐに身を起こした男は二藍に笑顔を向けると、軽く手を挙げ去っていった。
通りの向こうには警吏とは明らかに違う人物達が、軽く頭を下げ青年を向え、その後に続く。
「茹蛸」
ぼそりと耳元で落とされる声にはっとして、二藍は今起こったできごとに一層顔を赤くする。
「こんなことする人本当にいるんだ」
少女の指先に微かに触れたのは青年の唇。
「…いえ、普段はおやりになりませんよ、あの方は」
ようやく我に返ったキースは少女に心配そうな視線を向けた。
「怪我はありませんか?布陣の発動がなかったら見つけられないところでした。閣下が張られた結界の中にいらしたんですね。ご無事でなによりでした」
青年の視線に気がついて、少女は頭を下げる。
「ごめんなさい、心配かけました」
いいえ、と首を振ると青年は何か言いたげな紫炎に気付き周囲を見渡すと、再び宙に魔方陣を描く。
「とりあえず屋敷に戻りましょう。すぐに閣下の結界も効力を失います。人が戻ってくる前に我々も行きましょう」
次の瞬間、彼らの姿も魔方陣もそこにはなく、やがてゆっくりと人の気配が路地に戻ってきた。
「お前、自分がいかに方向音痴か自覚しているか?」
ごつん、と頭の上に落とされた拳骨に半分なみだ目になりながら、二藍は小さく唸った。
「あとで、マーシャにもロデオにも謝っておけよ。二人とも真っ青になって…特にマーシャなんか半狂乱になってお前を探していたんだからな」
ロデオというのは、キースの家に仕える少年であった。マーシャの従弟である彼は、街に出たことが無い二藍を誘い市場に連れ出したのだが、そこではぐれてしまった。
話を聞いたマーシャがキースに知らせ、あちこち探し回り先程の騒ぎとなったのだ。
「ごめんなさい」
くしゃり、と彼女の髪をかき上げ柘榴はやれやれと肩をすくめる。
「しかし、お前の魔力を遮断するとは相当の力の持ち主らしいな」
「結界能力に関して閣下の右に出るものはいませんよ」
ソファに身を沈ませてキースは苦虫を噛み潰した表情をする。
「ここしばらく、宮殿に行っていませんでしたからね。情報が耳に入ってこなかったものですから。まさか警邏の真似事みたいなことをしていらっしゃるとは思いませんでした」
警邏は街の安全を司どる、警察のような組織だ。
「ひょっとして、キースさん。あの方が?」
二藍の言葉に、青年は表情を一層ゆがめた。
「そうです、あの方が王弟殿下…エンデルク・ルーデル・ウエリントン公ですよ」