その思い出、壊す!
某投稿サイト企画祭に出そうとして間に合わなかった作品。
「で、これは八雲の荷物な。ほらよ」
気の抜けた掛け声といっしょに、特大のダンボール箱が飛んできた。中身は恐らく僕の揃えた漫画および小説類数シリーズ。避ける訳にもいかず身を呈して受け止める。軽自動車にはねられたらこんな衝撃かな、とか思いながら後ろに転げる。
春の引っ越し一日目のこと。
共働きの両親は早速新しい職場に挨拶にいっていて不在。荷物整理はほとんど僕と、僕の兄貴こと日間 砂泥に押しつけられた。
そしてこの兄貴、腹の立つことにイケメンである。容姿だけでなく、中身もひっくるめて文句なしにイケてるメンズ、略してイケメン。力加減を知らないこと以外は。
「おい八雲、もうすぐバイトの面接だろ? 行かなくていいのか?」
兄貴が箱の下から這い出せない僕に気づいて、荷物をどける。
「何言ってんだよクソ兄貴、まだ一時間ある」
苛立ちを含んだ声で返事。
「さっさと行って来いよ。初めての土地なんだから余裕持った方がいいって。荷物整理はやっといてやるからよ」
確かに、道もよく知らないことだし早めに出るべきかもしれない。
兄貴のがんばれよ~、と言う声に適当に応じて家を出た。
「日間 八雲君ね。アルバイトの経験はある? ほう。 力仕事だけど大丈夫? そう、じゃあこの紙書いてくれる? あ、今日は働ける? ん、じゃあ書き終わったら仕事の説明するからね。あ、ちょっと作業服とってくるわ」
と言って面接官をつとめた作業服姿の青年が駆けていく。
三月二十四日。
引っ越したその日からアルバイトである。しかも時給千三百円という高給のバイトに挑戦してみようと思う。
僕が中学を卒業すると同時に親が転勤。新しい土地で高校生活をスタートし、ついでに念願のアルバイトをはじめようというわけだ。運送会社の下働きだというから、さっき面接をしたあの軽い青年の指示通り箱をトラックに運び込めばいいだけの仕事なのだろう。
という読みが甘かったことを思い知ったのが十分後。
箱の量は、予想の倍を優に超えていた。しかも米のブランドが刻印された箱一つ一つが恐ろしく重い。
一人でこれ全部って、無理じゃない?
何時間働けば漫画単行本を一シリーズ揃えられるかな、なんて頭の中で計算していた自分が恨めしい。
「絶対辞めてやる」
せめて他のところが終わって増援が来ないかなー、とか思って箱を抱えながら辺りを見渡すと、殺伐としたモノクロの倉庫の中で咲く一輪花のような色彩を発見した。淡い茶のエクステをなびかせたツナギ姿の作業員である。こちらに背を向けているので年や性別は分かりにくいが、髪からして女性だろうか。
そんな彼女? はこちらに気づいた様子もなく男顔負けの力でテキパキ仕事をこなしていく。いや、あれは空箱なのかもしれない。
「はい、日間君。これもよろしくね」
と、少しぼーっとしていたところをさっきの面接官に声をかけられた。おそるおそる振り返るとリフトに積まれたダンボールの壁があった。
「これも……ですか!?」
僕の口から出た言葉は悲鳴に近かった。
「そう、これも。僕あっちにいるからなんか困ったことあったら言ってよ」
そういって面接官はリフトに乗って行ってしまった。ダンボール製の城壁だけが取り残される。
……どうしようこれ。
どっから切り崩したらいいかさえ見当がつかない。
とりあえず無茶だけど一番手前の下の方にあるダンボールを一つ引き抜くことにしよう。ダルマ落としの要領で下から順に引き抜いていこう。あの兄貴の影響で腕力にはかなり自信がある。きっと行けるはずだ。手頃な箱の横に手を差し入れ、力を込める。
ぐらり。
積荷の壁全体が揺らいだ。
どうやらバランスが崩れたらしい。
一瞬時間が止まり、
次の瞬間立方体の雪崩が僕に襲いかかる。
近くに兄貴はいない。次の瞬間に埋もれ、潰される。
「僕の来世にこうご期待、かな」
「馬鹿言うなよ新入り」
急に腕の中が軽くなる。息がかかりそうなすぐ前に淡い茶の髪があった。
「こんなところでくたばる奴の次に期待できる訳無い」
憮然とした口調で言いながら、彼女は崩れてきた荷物に両手を当て押し返し、再び積み上げる。
「は!?」
さらに積み直せず落下してくる箱数個を空箱であるかのように軽く受け止めた。
「あ、ありがとうございました。スイマセン無茶やって」
「お前に非はないよ新入り。どう考えても荷物の積み方が悪い」
頭を下げる僕に彼女は振り向きもせず、相変わらずの憮然とした声で答える。
「ここは人が少ないのに仕事だけは大量に請け負うからな。あれぐらいの無茶はやらないと給料もらえないぞ」
「はぁ……」
受け止めた箱を積みながら男のような口調でそういう彼女。“彼女”と断定するのは少し危ういが、声色と体格そして髪からして恐らく間違いないだろう。
「まあ、無茶はしても無茶苦茶はするな」
そう言い捨ててまた自分の持ち場に帰ってしまった。
「僕が女だったら惚れてるよ……」
そんなたわごとを呟きながら、僕もまた自分の作業に戻る。
しかしなんと危ない職場だろう。久々に死ぬかと思った。引っ越しの件もあってダンボールがちょっとトラウマになりそうだ。しばらく肉まんが食べられそうにない。
「ほら朝飯当番は僕が代わってやるから、八雲はさっさと顔洗って飯食って学校行け」
「うっせえ兄貴。自分の朝飯ぐらい自分で作るっての」
四月七日、高校入学の日。ウインナーを炒めながらのやり取りである。
まあ、流石に入学式の日から遅刻する訳にもいかないのでウインナーは半生で妥協することに。
テレビから聞こえる朝のニュースが、今年は春らしくない寒さになるでしょうと告げる。ちなみに天気は曇りとのこと。どうせなら雨を降らせてお題を一つ消化させろと言いたいが、画面越しにお天気キャスターに言ってどうにかなる話ではない。とか寝ぼけ頭で思考するうちにウインナーが半生程度には焼けた。
顔を洗って戻ると完全に火が通ったウインナーが皿に盛られていた。座敷わらしでないなら兄貴の仕業だろう。
「ごちそうさま。んじゃいってきまーすと」
「おう、がんばって友達作れよー」
自転車をガレージからだしながら考えごとを始める。自己紹介の内容だ。
引っ越してきたばかりの僕には中学からの友達などいる訳もないので、クラスメイトにアピール出来る最大のチャンスである自己紹介を逃すわけにはいかないのだ。
しかしこれにも裏技と言うか定石と言うか、「これをやっておけば大丈夫」のような手はある。
「好きな漫画はドラゴンボールです」
これを言っておけば間違い無い。
自己紹介という一分足らずの時間で自分の本質など、アピールできるわけがない。したがって出来るだけメジャーな物が好きであるとだけ言っておけばいい。そうすれば周りのクラスメイトが話しかけてくる可能性もあるし、ソレの話題に違和感なく混ざることができる。つまり自己紹介とはクラスメイトと話すきっかけを生み出す場なのだ。
そしてメジャーな話題の最たるものが、ドラゴンボールだ。
下は小学生から上は二十代の若者まで。みんな大好きドラゴンボール。孫悟空はやはり偉大だ。そして漫画以外の項目もメジャーな物で埋めて、完璧な自己紹介文が完成。ペダルを漕ぎながら復唱して暗記。
ややトバし気味の自転車で二十分強。僕の新しい母校に着いた。
入試の日を思い出しながら校門をくぐり、案内図を片手に自分の教室を探す。あった。
教室のドアを開けると同時にチャイムがなった。クラスメイトの視線をうっすらと感じながら唯一空いている席に逃げ込むように座る。
「初めまして皆さん、私が今年一年担任を務める……」
やや痩せた中年先生の、ありきたりな挨拶を半分聞き流しながら辺りを見回すと、皆やっぱり退屈そうに前を向いている。こういうのは地域によらず日本全国共通なんだなあ、と引っ越してきたばかりの僕は一つ学ぶ。こうなると新しい土地で友達を作るのもとても簡単に思える。
「では、出席番号一番の浅田さんから自己紹介をして下さい。名前と出身中学だけは必ず言うように。他は自由に……」
「西用中学出身の浅田かなです。趣味は音楽鑑賞で好きなグループは何と言っても……」
「軟石中から来た、草薙哲といいます。テニス部に入ろうと……」
「……というわけで、よろしくお願いしまーす」
「……天体について語り合える人がいたら、是非声かけてください!」
「ワールドカップの熱がまだ抜けきらない七場すずです! でも部活は女バスにいこうかなー、なんて……」
次々と前の人の自己紹介が済んでいき、あっと言う間に僕のすぐ前にまで順番が回ってきた。前の席の綺麗な黒髪の女子が静かに立つ。
「西用中学校出身の羽吊春日です」
彼女は、およそ感情や抑揚と言う物が無い平坦な声で必要最低限のことだけを機械のように発音した。
さっき一瞬前から見たが、やはり何の表情も浮かんでおらず、精巧な人形のよう綺麗な顔をしていた。ような気がする。
一年間よろしくお願いします、と決まり言葉だけ付け足して彼女は座る。あ、もう僕の番か。
「一年間よろしくお願いします、螺県の掌片中学から引っ越してきた、ドラゴンボール好きの……」
ガタッ!
丁度そこで、前の席の羽吊さんの肩がビクンと跳ねる。驚きで頭の中が真っ白になった。
アレ? 僕何言おうとしてたっけ?
「……ええと、一年間よろしくお願いします」
無理やり終わらせて座る。やばい超気まずい。何で僕の番でアクシデント起こしてくれるかな羽吊さん? 僕何かしたっけ?
パニックに陥る僕の様子などまるで知らない羽吊さんは前の席でさっきと同じように身じろぎひとつせず座っている。
……本当に、何だったんだ?
出だしから波乱の高校生活だがしかし、自己紹介最大の衝撃はこのあと訪れた。
「西用中学出身の、万条目赤志」
聞きなれた、声がした。
真後ろを振り返ると、見慣れた茶のエクステを発見する。十中八九バイトで助けてくれた、あの人だ。
へえ、同い年だったのか。位しか思うことが無かった。
しかし次の瞬間、非常に整ったその顔からは想像もできないような言葉が吐き出される。
「オレは強い奴を求めている。人数も流派も問わない、我こそはと思う奴はいつでも遠慮無く殴りかかって来てくれ」
教室の空気が、完全に凍りつく。
強い奴募集とか現実世界で初めて見たよ! しかも女子。
「一年間よろしく」
いやどう考えてもよろしくって感じの自己紹介じゃなかったんだけど。
締めくくりだけは普通だった。
「突っ込み辞めてやろうかな……」
放課後。
そんなことを呟きながら、僕は自転車小屋へ歩く。登校初日だというのに既に突っ込み疲れてしまった。このペースで突っ込んでいたら体力とページが持たない。
もし仮にこの物語が大円団で終わり――いや何と戦うのかは知らないけれど――クライマックス後のほのぼのしたシーンを「字数の都合で省略します」なんて終わり方をしなければならなくなってしまったら、やりきれないというものだ。
「せめて小学生みたいな話題への食いつきを見せるドラゴンボール好きでも話かけてこないものかなぁ」
携帯にドラゴンボールのフィギュア七つぶら下げてるような奴とか。
突っ込み疲れてクラスメイトに話しかける気力さえ残っていない。
「無印派ですかZ派ですかそれともGT派でしょうか?」
「Z派だけど? ナメック星でのピッコロの健闘ぶりは何十回読んでも熱くなる」
反射的に答えてから、首を全力で百八十度回転させる。
そこには、
小学生のような食いつきのドラゴンボール大好きな女子高校生がいた。
「羽吊さん!?」
「はいいかにも羽吊春日ですが」
ちなみに携帯につけたフィギュアはギニュー特戦隊でした(後に知る)。
「……お前が食いつくのかよ……」
さっきの自己紹介の時の反応は、ドラゴンボールに対するものだったか。
「何か問題でも? 少年誌は少年だけのものとでも主張しますか?」
「いや、そうじゃないけどさ。意外な奴が食いついてきたなと思って」
自転車小屋に歩きながら、話を進める。
「ちなみに好きなキャラは?」
「やはりどこの誰が何と言おうともベジータです。何と言っても魔人ブウ編での……あ、少し待って下さい。赤とここで待ち合わせています」
そう言って自転車小屋の前の曲がり角で羽吊さんが足を止める。
「赤って? 兄弟とか中学の友達?」
なんとなく、聞いてみる。
「私に友達はいません。親友はいますが。あ、赤。こっちです」
「待たせたな春日。トイレに行っていた……ってお前。よりによってそいつを連れてきたのか?」
羽吊さんと待ち合わせをしていたのは、三次元に這い出てきた喧嘩好き女子こと万条目さんだった。
……マジ?
性格思いっきり正反対のこの二人が親友?
ああ、でも万条目さん性格がドラゴンボールぽいからな。その辺の繋がりかな。
さらりとめちゃくちゃな思考の僕。
「赤、連れてきた事に関して何か問題でもありますか?」
相も変わらず平坦な口調で羽吊さんが言う。
どうやら僕がいるのが邪魔らしい。機会を見ていつの間にか消えるべきか。
「い、いや別に問題じゃねえよ。あ、そうだオレもう“アレ”行ってくる」
万条目さんが僕等に背を向けてかけ出す
「今日は午後三時からじゃなかったんですか?」
「“始業式が思ったより早く終わりました”とか言えばいい。どうせ人手足りてねえんだ、入れてくれるだろ。じゃあなっ」
そう言って万条目さんはさっさと行ってしまった。
……一体なんだったのだろう。
「行きましょう。自転車小屋に用があるのでしょう?」
何事もなかったようにまた歩き出す羽吊さん。
「なあ、僕何かまずい事したのか? 万条目さんに思い切り避けられた気がするんだけど」
「何も悪い事はしていないと思いますよ。ただバラされるのが怖いでしょう」
バラす?
僕が?
「何を?」
「当然高校に黙ってアルバイトをしてることです」
羽吊さんが即答する。
「ああ、成程」
あの時の茶エクステはやっぱりお前だったか。
そういえばこの高校バイト禁止だっけか。
今の“アレ”というのもバイトだろう。
「にしては随分、大げさな避け方じゃなかったか? そもそも僕がバラしたら当然僕がアルバイトしてることもバレるから、ばらす訳が無いじゃないか」
と僕。
「そういえば赤が先日こんな事を言っていましたよ「バイト先で新入りに“僕が女だったら惚れてるよ”とか言われちまった。気まずくて顔合わせらんねぇ」と。だからさっきあそこまでリアクションを取ったのでは……どうしました? 急に自分の首を締め出して」
「ヤバイヤバイヤバイ聞いてたのかよ!? 気まずいのはこっちの方だよ畜生!」
何とんでもないこと口走ってんだあの時の僕。どうりであれからバイトで一度も会わないはずだ。あっちが避けてたんだろうなきっと。
「そう言えばその後「なかなか可愛い顔と性格してやがったから、女だったら考えてやってもよかったんだけどな」とも言ってました」
僕は首を絞める手に更に力を込める。
「自害するなら明日にした方がよいと思います」
羽吊さんはこんなときも表情が乱れない。
「何で? せっかく意識がぼんやりしてきてあとちょいってとこなのに」
「今日は粗大ゴミの日、明日は生ごみの日。亡骸を廃棄するご家族の都合を考えると明日にした方がいいかと」
「いやいやそれならなおのこと今日死ぬよ。あのむかつく兄貴にはそれぐらいしないと迷惑かけて仕返しできなさそうだからさ。ざま見ろ兄貴! ってね」
「……貴方には悲しんでくれるまともな母親もいるのではないのですか?」
ピタリ。
上がっていたテンションが一気に最低まで下がる。
「えーと、その言い方から察するにひょっとして……」
「お察しの通り私の母はとうに離婚して、不在です」
さらりと語る彼女は、少しさびしそうに見える。
「ごめん。羽吊さんの事情も知らずに」
「気にすることではないかと。そんなことより、ドラゴンボールについて語り合いましょう」
「嘘! そんなことで片付けちゃった!?」
そんな風に話しながら歩いていると、もう自転車小屋に着いた。楽しい時はあっという間に過ぎるという現象が少し懐かしい。
どうやら羽吊は自転車を持っていないようなので、僕は自分の荷物をサドルに乗せて手で押して帰ることにする。
「万条目さんのさっきの自己紹介、アレ一体何だったんだ? いつでも殴りかかって来いってのは三次元女子高生の言う台詞じゃないだろ」
話が一旦途切れたので、話題提起のついでに聞いてみた。
「さあ。私は知りません。聞いたことはありますが“お前じゃ無理だ”とだけ返答されました」
「なんだそりゃ」
謎が謎を呼んだ。
まったくもって彼女が何をしようとしているのか、分からない。
「赤は必要のない事はあまりしゃべらないんです。あの通り飾り気がないというか朴訥な性格ですから。もっともそこが格好良いと時々思考するのですが」
「まぁ、確かにね」
と冷静ぶってみる僕だが内心は激しく賛同。
……。
そこで話題が途切れる。
……だんだん気まずくなってきた。
そこで羽吊が「あの性格が極端に現れた事例が……」等と話し始めてくれればよかったというのに。
「なあ、お前友達少ないだろ?」
「友人ですか? 少ないですよ。言ったじゃないですか生まれてからさっきまで零人でしたと。今は一人ですね」
聞いた僕がいうのもなんだが、零人と臆面もなく言えるのはどうなのだろう。
「で、今の友達というのが僕か」
なんと甘い友達の判定。
「そうです。高校では気立てが良さそうで出来ればドラゴンボール好きの人間に話しかけよう、と思っていたところなんと前例がないほどドラゴンボール好きを前面に押し出した自己紹介をした人間がいたのでこれを逃すかと話しかけてみた次第ですね」
ええと。
いつの間にか僕はとてもシリアスな場面に巻き込まれていたらしい。
「名前も名乗らず“ドラゴンボール好きです”と挨拶するとは常軌を逸しています。何がすごいのかは知りませんが流石ですね」
「嘘! 僕名前言ってなかった!?」
最悪の事態に今更気づく僕。これは来世に期待するしかない。
「あ、私の住処はこちらですのでここでお別れですね」
大通りの横道の一つで羽吊が立ち止まる。
「そうか、ほいカバン。じゃあまた明日学校でな!」
いつの間にかちゃっかりと自転車の前かごに放り込まれていたカバンを投げてよこす。
「何を言っているんですか明日は土曜です。私は休日に登校する気はないのでまた月曜日地獄でないどこかでお会いしましょうばいばぁい」
よく分からない別れの言葉を残して彼女は去って行った。
……よくわからんやつだ。
午後三時十分前。
場面は変わって、またあのバイト先である。
僕が入る午後三時まで少しあるので、なんとなく辺りを見渡して茶のエクステを探してみる。さっき学校で「早めに入る」と言っていたことだしきっと来ているだろう。
「あ、いた」
しかもかなり早く来たのか、もう一区切りついて丁度休憩中だった。
相変わらず作業服とエクステという考えられない取り合わせの格好だが、何というか男らしさというかオーラがあって妙に様になっている。
とまあ見つけたところで僕は特に彼女に用がある訳でもないのでただぼうっと三時を待とうと思っていたのだが、あることに気づいて話しかける。
「万条目さん、少し用があるんだけどいい?」
僕が後ろから近づいていたのは気づかれていたようで特に驚いた様子はない。
「お前か。丁度オレも用があったとこだ」
お先にどうぞ。
「春日に妙なマネしたら殺す」
このご時世滅多に味わうことのできない、本物の殺気を堪能した。
いつでも殴りかかって来いと言うだけのことはある。
そして彼女はバツが悪そうに帽子を更に目深にかぶり下から手を差し入れて頭を掻いた。
「ワリィ、つい熱くなっちまった。ロクに人に話しかけねぇあいつがあんなに嬉しそうに「あの人に話しかけてくるので待っていて下さい」なんて言ったんだ。悪い奴な訳がねえよな」
それは随分いい加減な判断基準じゃなかろうか。
「……そりゃどうも」
えーと、どう返すべきなんだろうこういう場合。
「ではそんなことはさておき、僕の用を言っていいかな?」
「“そんなこと”で片付けやがったなテメェ!」
あ、意趣返しの配達相手を間違えた。
「そろそろお題を消化してくれないか?」
「お題?」
いかにそれについて考えていなかったかが透けて見えるようなその反応に、僕の脳血管がキレかかる。
「そう、お題だよお題。もうすぐ必要最低枚数に差し掛かるってのにまだ一つしか使ってないだろ万条目さんは! “喧嘩の天才”ってだけで自分の仕事は終わったことにして、あとは語り担当の僕にやらせるつもりなの!? 「俺とおまえの間には絶対に超えられない境界線がある」とか「オレは都市伝説になる」とか「水平線の果てまでふっ飛ばしてやんよ」とか無駄に捻った台詞言ってくれない? あと“メール”は必ず“電子手紙”にルビを振って表記すること」
感情のままに、一気に言いたいことを吐きだす。ちょっとすっきりしたり。
「お、おう。解った」
流石に面食らった様で、素直に頷いてくれた。
「じゃあ明後日の日曜日、春日と一緒に海と空の“境界線”――水平線を見に散月埠頭ってことで」
「オッケー。じゃあ明後日」
「応」
これが普段は表に出ない語り手の地味な作業です。
ちょうど三時、僕は明後日に期待してその場を後にした。
四月九日日曜日。天候:雨。
現在地:バイト先
「いきなり呼び出される事なんてよくある。その分時給いいんだし諦めろ? な?」
万条目が、万条目なりの気遣うような優しげな口調で肩をバシバシ叩いて励ましてくれる。
やっと臨時に入ってきた仕事が終わった。壁に背を預ける万条目は例によってサマになっているが、精魂果てた僕はと言えば情けない事に冷たい床に尻を着いている。
「ま、そうだけどね。しかしこうして働いてみると生活費稼いでる親の大変さってのがよく分かるよね。一体仕事場でどれだけこき使われているのやら」
手を地面について立ちあがりながら僕は言う。
「だな。オレは親いねえけど」
「……」
また僕は地雷を踏んでしまったらしい。
「……悪かった」
「悪くねえだろお前は」
……そこでしばらく間が開く。
別にその話題に触れられたことなんて何でもなかったような風の万条目だったけれど。
今、泣きだしそうな顔をしている。
驚愕と同時に罪悪感を覚える。
ダイヤモンド、という単語が頭を掠める。モース高度は自然界最高であるが、衝撃に対しては非常に脆くハンマーで叩いただけで砕けるという。
そんな弱さがあの気丈さに隠れていたのか。
「交通事故だったんだよ。誰も悪くないしオレも気にしてない。帰るぞ」
明らかに強がっている万条目に対して、僕は顔をそむけることしかできない。
「水平線も境界も無理だったけが傘だけは一応持ってきた」
「グッジョブ万条目!」
まあ、雨が降っていたから当然ではあるんだけど。(僕も持ってきてるし)
辛気臭い空気を散らすように声を上げ、倉庫の扉を蹴り開けて外へと飛び出す。
「高級品の方が必ずしも優れてる、って物じゃないよな。なんでも」
「ああ」
降りしきる雨が傘を打ち鳴らす。絶対安全な話題で雨音をかき消そうと奮闘する僕
「僕はB級グルメとか“B級”って付く物には好感を覚えるね。なんていうか一級品だけがいい物であると限らない、って証明してくれている」
とB級にもなれない僕は言う。ただの粗悪品です。
「そんなくだらない理屈は知らない。ただ百均商品は有難い。この傘も百円だ」
万条目が見るからに安物の傘を指して言った。
「たしかに安物の透明な傘って高級傘より使いやすいよな。前が見えて人とぶつかる心配が無い」
そのとき、道の先で何か言い争うような声が聞こえてきた。
「だからオッサンのせいでハンドル曲がっちまったんだから修理代払えっつてんだろ? あぁ!?」
土砂降りの雨の中ガタイのいいヤンキー風の青年が怒鳴っている。隣に原チャリが倒れていて気弱そうなオジサンの襟元を掴んでいることから軽い事故をめぐる民間人による裁判、つまり本物の民事裁判でもやっているのだろう。なるほど原付のハンドルが少し曲がっていて事故の痕跡がうかがえる。
しかし雨で視界が悪いとは言え歩いていたオジサンが原付にぶつかっていって事故を引き起こした、なんて訳が無い。雨の中無理な速度を出していたヤンキー風の青年が言いがかりをつけているのだろうな、と見当をつける。
みている僕もあまり気分がよい光景でないのでせめて警察でも呼ぶかな、とポケットの中の携帯を探る。二つ折りの本体を開くと画面にヒビが入っていて、電源が入らない。最後に使った日は思い出せないほど前だからいつから壊れているのかは解らないが、きっと引っ越しの時だ。
「どうする万条目、ってあれ!?」
万条目はすでに歩き出していた。まだ怒鳴り続けるヤンキーの後ろに立って、閉じた傘を乾坤一擲――野球バットの如く思い切りスイングする。
爆音。
身長百九十を超えるであろう青年の体がおよそ五メートル吹き飛び、動かなくなった。曲がった傘を持ったまま歩み寄る万条目の中に極道を見た。
「おいニイチャンのせいで傘曲がっちまった。修理代払え」
「いや聞こえてないだろ絶対!」
絡まれていたオジサンがさらなる危険人物の登場に悲鳴も上げず逃げだす。
なんつー行動力だ。
惚れぼれする。
「たまにいるんだああいう奴。ムカつく」
「まあ同感ではあるけどさ。やり過ぎだ」
「そうか? コレ使ってもやり過ぎたか」
そう言って飴のようにグニャリと曲がった傘を指さす。
「武器を使えばある程度の衝撃で武器が壊れてやり過ぎ無いですむ。これも生きてるし問題はない」
「成程な、っておい。お前そいつの財布からなに抜き取ってんだよ!?」
「修理代だ」
「さっきそれ百円の傘って言ってたじゃん!」
数枚の諭吉が。
「お前も一枚どうだ?」
「ガムみたいなノリで汚い金を勧めるな」
と言いつつ勝手に手が動く。
「ソコは「おお、うまそうなガム。サンキュー万条目ちゃん」だろ」
「……ノリ突っ込みもロクに出来ない僕に振るな」
※収録の後この金はきちんと持ち主に返しました。
と、倫理上の問題から記しておく。
「まあ救急車位は呼んでやるか。お前携帯電話もってないか。オレのは今充電切れてる」
「僕のは。……どうしよ」
とりあえず壊れた傘をヤンキーさんにかぶせる。
放っておいても大丈夫だろうということで帰路につく僕等。必然的に相々傘。もちろん愛は無い。
「一つお前に聞いてみたい」
と、急に万条目が切り出す。
「何を?」
「……人間は進化する生き物だよな」
「うん?」
何を唐突に。
「どういう時進化できるんだろうな」
進化、ねえ。
「さあ……進化しない僕が答えるのも何だけど――いや、進化できないからこそおもうことはあるよ。そりゃやっぱり何かを成し遂げたりした時、挫折からの立ち直った時なんかにも進化するんだろうけど。僕は何かに凭れるのをやめられたとき、進化というか独り立ちできると思ってる」
「……道理だな」
言い返そうとしたけど出来ない、そんな表情が万条目の顔に浮かぶ。相変わらず何を考えているのか解らない。
「オレはこっちだ。春日の家に居候させてもらってるからな」
そういえば羽吊には一人分の空きがあったなと思い返す。家と心に。
「成程ね、じゃあばいばい」
「応。またな」
……ということはお前傘なしで帰ることになるじゃないか。
万条目はカッターシャツの上に制服を着ているので別に雨にぬれても透けるようなことはないのだけれど、さっきの光景が頭の中でよみがえる。
僕は最初万条目に命を助けてもらったし、さっきは励ましてくれたりもした。僕がこのバイトを続けていられるのも彼女によるところが大きい。
なのに僕は、弱さを抱える彼女に何もしてやれない。
といっても、自分が濡れてまで自業自得で傘をぶっ壊した万条目に傘を貸してやる気には……。
「傘、使うか?」
これまで忠実な体の一部だと思っていた舌が僕を裏切った。
「……マジか。助かる」
更に五本の指まで離反し万条目に傘を差し出す。
「オレが女だったら惚れてたよ。じゃな」
傘を片手に颯爽と万条目は去っていく。対照的に僕は水の弾丸に洗浄されながら家へ向かって歩き出す。
考えるのは、さっき万条目に言った言葉。予想外の質問にスラスラと答えられたのは、僕もそれについて考えていた――いや、考えていながら考えていないふりをしていた。
“何かに凭れるのをやめられたとき、人は進化できる”
どの口があんな偉そうなことを言ったのだろう。
「ただいまー、って言っても兄貴しかいないか」
家に入ると、玄関にバスタオルが用意されていた。
――何かに凭れるのをやめられたとき、進化できる。
僕は反発しつつもずっと兄貴に頼りっぱなしだ。進化することはあきらめれても、このままではいつか倒れる。いつまでも自分だけを支えてくれる人間なんて、いる訳が無い。この関係が壊れる前に、抜けださないと。
「凭れっぱなしは、駄目だ」
頭も拭かないまま台所を通って庭に出る。制服のカッターシャツを脱いで動きやすい格好になる。
ただ広くて、ベンチと池だけがあるだけの庭。小さい頃は兄貴とよく喧嘩したり水浴びしたり池の鯉を追い回したりしていたものだ。
いつから僕は兄貴に勝てないとあきらめ、兄貴に頼りっぱなしになっていたのか。万条目が言ってくれなかったら、僕は気づかないまま破滅を待つばかりだった。
「来いよ兄貴! 久々に喧嘩しよう」
二階の窓に向かって呼び掛けると、人影が飛び降りてきた。相変わらず勝てる気がしない。
「本っ当に久しぶりじゃねえか、八雲が喧嘩しようなんて言い出すのは」
「何嬉しそうにわらってやがる!」
力加減などまるでなく、思い切り右拳をその笑った顔に叩きこむ。白い左手が止める。
さらに踏み込んで顎に左アッパーを打ちこむ、が先回りしていた右腕で防がれた。
「立て直させなねえ」
反撃に転じる間も与えず今度は空いた脇腹に回し蹴りを見舞った。
堅い。
今度は腹筋で受けられたか。スタイル抜群の長身が宙を舞い、池へ落下。一拍遅れて水しぶきが上がる。
大きく一歩下がり、全力疾走。勢いをそのままに跳躍。突き出す蹴り。
水面から出たばかりの顔めがけて、渾身の飛び蹴りを放つ。水飛沫が滝のごとく散る。
世界が反転。
気づいた時には宙に投げ出されていた。
飛び蹴りの足を掴まれて投げられたらしい。投げ方からすると柔道技なのだが柔道に池の中から飛び蹴りに対抗する技なんてある訳がない。即興で応用技を作ったか。
僕が芝生の上で受け身を取ると、池から跳躍で脱出する痩身が見えた。水の尾を引いて放物線を描いて着地。
「相、変わらず頑丈だな。クソ兄貴。さっさと死ね」
僕の全体重が乗った助走からの飛び蹴りを受けながら反撃してきたことからもわかるように、奴はダメージ等受けていない。僕が一方的に体力を使っただけだ。
身体能力及び容姿において完全無欠。そして性格も非の打ちどころが無いときている。昔は大好きな自慢のお兄ちゃんだった。なのにいつからか僕は兄貴に口先だけは反発して、そのくせ頼りっぱなしのまま抜けだせない。抜けだし方が分からない。だからとりあえず、一度でも兄貴に勝ってみようと思った。
「おい八雲、お前フラフラじゃねえか。もう止め……」
「うるさい! まだ手はあるんだよッ!!」
台所で仕込んだ包丁を懐から抜き放つ。銀の軌跡を描く凶器はしかし、垂直の裏拳でたたき落とされた。生まれる隙。
既に僕は右足による蹴りのモーションに入っていた。掛け蹴り――通常とは異なりかかとを狙うポイントに対して突きだした蹴りである。
横薙ぎの蹴りは脇腹で重ねた腕で受けられ、さらに――
「へ?」
視界が揺れて、暗くなる。見上げる視界には兄貴の不思議そうな表情があった。
「おい、どうした!? 大丈夫か?」
背中から芝生に倒れ込む。兄貴に何かされた訳ではなさそうだ。しかし体に力が入らない。立てない。
「しっかりしろ、おい! 救急車呼ぶか?」
兄貴の言葉が頭の中でガンガン響く。
「要るかよ……ボケ」
僕が吐いた言葉は強がりではなかったけれど、情けない事に自力では立てそうにない。
「よっと。無茶するからこんなことになるんじゃねえかよ」
そう言いながら僕は兄貴が僕を背負う。大地に寝転ぶより落ち着く。意識が遠のき、僕は眠りに落ちていった。
「月曜日また会いましょうという約束を果たすべく暇つぶしを兼ねてお見舞いと言う体裁で会いに来ました」
羽吊がお見舞いに来てくれた。相変わらず表情の無い顔でベッドに横たわる僕を見下ろしている。
「……それはありがとう」
「どういたしまして」
月曜日。
授業がある最初の日だというのに、学校を休んでしまった。いや、休まされてしまった。
昨日はバイトの疲れと雨にぬれたことによる体力消耗諸々で倒れてしまったのだが、そのあとのことはあまり思い出したくない。
兄貴に体を拭かれ、冬用パジャマに着替えさせられるという生き地獄を体験した。まさか男に生まれて服を無理やり脱がされることがあるとは思わなかった。
「さて本題ですが」
羽吊が切り出す。
「何だ?」
お見舞いに来たんじゃなかったのか。
「最近聞いた都市伝説二つをお話ししに来ました」
「グッジョブ! 最高だなお前は」
布団の下で拳をグッ、と握りしめる。
「まず一つ目。先日行こうと言っていた散月埠頭の先、散月湾の海底にかつて栄えた都市が沈んでいるという伝説です」
「ページ数を考えに入れてくれ」
沈んだ幻の都市の伝説――都市伝説。
長編でやれ。
落ち込む様子もなく羽吊は続ける。
「では二つ目。この辺りで最近およそ人間とは思えないほど強く、地上の存在とは思えないほどイケメンなライダーが……」
「あ、ごめんそれは多分僕の兄貴だ」
伝説になってやがった。
「……伝説どころか玄関で出迎えてくれましたね。聞く以上に容姿端麗でした」
室内に訪れる沈黙。
「……お題どうしよう。 他にもうネタは無いんだろ?」
と僕。
「いえいえなにをおっしゃいます、この程度の事態全く心配には及びません。ノー・プログラムです」
「そうかそれは安心だな、って予定外だったんじゃねえか!」
No problem――問題なし
No program――予定なし
あ、ノリツッコミが出来た。
いつの間にか僕も進化出来ていたらしい。
「では本題です」
やっとか。
「貴方には、赤が何を考えているか解りますか?」
「なんで、そんなことを僕に聞く?」
万条目の初めて会ったときから解こうとしない強がり、昨日の問い。
何か見えてきそうだ。
「昨日、赤が言っていたんです。オレとあいつは似てる、と」
あ、成程。
そういうことね。
「私もそう思いますよ。実は私三十分ほど前に既にこの家の前に到着していたんです。インターホンを押そうとすると中から「誰が兄貴の作ったおかゆなんて食うか! カップラーメンを買いに行かせろ!」「いいから食えって。ほら、あーん」等と言うやり取りが聞こえてきまして。とりあえず食事が終わるまで待った方がいいと思いまして玄関先で待機していた次第です」
すさまじく恥ずかしいやり取りが聞かれていた。
「そうだったのか。待たせて悪かった」
「あの時の日間君とお兄さんのやり取りを聞いて思ったんです。成程確かに足掻き方がそっくりだと」
「ふむふむ」
「そして脱出できない辺りも。口では嫌と言いながら、結局すがってしまっているようですね。お兄さんが作ったおかゆを、レンゲまで舐め回した痕跡がありますよ」
「わわ、見るな!」
咄嗟にお盆ごとベッドの下に放り込む。羽吊が追いかけてベッドの下を覗き込む
「おや隠し物は寝台の下にしまう習性なのですか? 何やら他にもあるようですが……」
「健全な高校生男子のベッドの下を覗くなあああぁ!!」
「まさかこんな形でココへ来ることになるとは、思ってもみませんでしたね」
制服を風になびかせ、羽吊が言う。
「そうだな」
万条目がああまで闘いを求める理由。それはやはり話題に出てしまうだけで涙腺を崩す亡き両親にあるのだろう。
“誰よりも強くなりなさい”。そんな言葉が彼女の心奥底に根付いているのではないか。それが僕と羽吊の結論だ。
親なら誰しも一度は子供に言う、叶うはずの無い夢。普通ならすぐに諦めて消えてしまう高すぎる目標。
でも、強すぎるがために彼女は未だその言葉を実現しようとしている。その言葉を支えに生きている。
僕と似ているというか対称と言うか相似形のようなものだ。僕は弱いがゆえに兄貴に頼りっぱなしで、彼女は強いがゆえに亡き両親の言葉が捨てられない。
こうして比べてみると、似ているとはいっても月と鼈、雲泥の差、あるいは砂泥八雲の差。
このままじゃいつか崩壊するというところだけ全く同じだ。情けねえ。
まあそんな訳で、僕に勝利を彼女に敗北を。これできっと上手くいくのではないか。
「本当に訳のわからない結論になっちゃったよなぁ」
僕は素直な感想を述べる。
「それは当然の帰結でしょう。人間と言うのは元より訳の分からない生き物ですしその中でも群を抜いて訳の分からない二人なのですから。全うな答えなど出る道理がありません」
いつもと変わらぬ冷たい口調で告げる羽吊。
「でもとりあえずこの時点で学ぶべきことはあったよな。何だか解るか?」
「携帯の充電は毎日しましょう、ですかね」
僕の質問に羽吊がさらりと答えた。
「正解」
おかげで兄貴の携帯電話を借りる羽目になった。
To 万条目 赤志
Sub 挑戦状――日間八雲
“僕が相手になる。日時・場所は万条目が指定してくれ”
To 日間砂泥
Sub Re:挑戦状――日間八雲
“明日の夜明け前、散月埠頭”
「今更ながら一つ聞きたいです。貴方は何故赤を助けようと思えるのですか? 赤と殴り合って無事で済む訳が無いことぐらいは解っていますよね」
「それこそ友条、ってやつじゃない? 僕は一方的にあいつを友達だと思ってるから」
「一方的にじゃない。オレもお前の事を友達だと思ってる」
夜明け前の冷たい大気を切り裂く威圧感を伴った声。コンクリートを踏みしめるスニーカー。潮風にたなびく、闇の中咲く一輪花のような茶のエクステ。整った品のある顔に埋め込まれた眼の中で闘志が渦巻く。煉獄を封じ込めた硝子玉のように赤く、赤く輝く。
赤志。
ジャージ姿の万条目はそこにいた。
いるだけで周囲の物を押しつぶさんばかりの圧力を放つ姿だけ、暗闇から切り取られたように浮かび上がる。
対する僕は上下共制服姿。学ランの前は閉じず裾を風がなびかすに任せている。
「今のうちに一つ聞いておきたい。お前は、倒されたがってるんだよな? 親の残した言葉からいい加減解放されたがってるんだよな?」
圧力に負けじと僕は言う。万条目は無言で顎を引いて肯定する。
「僕とまるでおんなじだな。なら簡単だ」
上手くいく保証なんてどこにもないけれど、万条目の弱さが消せるなら。もうあんな風に弱さを見せずに済むなら、僕はどんな小さな可能性でも試そうとするだろう。知ってしまった以上いても立ってもいられない。
「お前は、お前だけは僕が倒す。その頭の中の思い出一切合財、バッラバランにしてやるよ!」
「やれるもんなら、やってくれ!」
彼女が言うが早いか、僕は学ラン内ポケットから包丁を抜き出していた。走り出しざまに振り抜いて、投擲。銀の刃が一直線に万条目めがけ飛翔。白い腕がその細さからは想像もつかない疾さで叩き落とす。高音。
既に僕は右の蹴りの動作に入っていた。通常の回し蹴りと掛け蹴りの丁度中間――足側面全体を当てる横薙ぎの蹴りが彼女の腹に吸い込まれる――前に包丁を止めた腕が既にガードに回っている。
当然だ。僕如きの中途半端な蹴りが、あんな力を持つ万条目に入るはずが無い。衝突、足に伝わる衝撃。
そこから。
完全に止められた右脚を軸に、まるでそう逆上がりでもするように真上に向けて左脚で蹴りあげる。通常ならあり得ない軌道で急所である顎を撃ち抜く二段蹴り。これが僕の十八番で切り札。
万条目が反射的に避けるより早く、蹴りが顎を捕え――撃ち抜いた。
消えそうになる意識を奮い立たせ、目を開ける。闇。冷たい感触。硬い地面。痛む体。
僕は埠頭に倒れていた。海まであと一メートルあまり。体は痛んで立ちあがることさえつらいが、そんなことがどうでもいいくらい深い絶望に包まれている。
先の二段蹴りは僕の生涯最高の一撃となり、見事に万条目の顎を上へ打ちあげた。だが、怯むことなく彼女はその体勢から月面宙返りという大技を放ったのだ。
完全に僕の負けだ。当たれば勝てると思っていた技を喰らわせたというのにまるでダメージを与えられず、一撃でフラフラ。生物としての格からしてまるで違う。
「まるでヤムチャですね、八雲さん。いえ、ヤムチャでももう少し見せ場がありましたか」
胸をグサリと刺すことばは、いつの間にか隣に立っていた羽吊のものだった。
「お前その台詞は敵の台詞じゃないか? 否定はできないけど。……無様だなー、本当に」
「そうですね、本当に」
羽吊がふと、笑った様に見えた。喜びでなく、悲しみだけが表現された今にも泣き出しそうな笑い。
身を翻し、突如羽吊が万条目に突撃する。
「なっ」
既に戦闘態勢を解いていた万条目の腹を狙って思い切り右腕を引く羽吊。のすぐ横に一瞬で回り込んでいた万条目。額で裏拳が弾けて羽吊が倒れる。
「本っ当に無様ですねー。私達」
「そうだな」
言いつつ僕は立ちあがる。すぐに拳が飛んで来て、倒れる。また立つ。
「もう止めろ」
万条目が弱々しく言う。波音にかき消されそうなほど小さな声で。
「もう止めろ。お前たちじゃオレには勝てない。もういいんだ。オレはこれからも父さんの言葉を支えに誰よりも強く生きていくし、お前たちとも友達でいたいと思ってる」
「そんなんで、いい訳無いだろ」
考えるより先に、言葉が口から飛び出した。
「そうやっていつまでも強がってるから……本当は弱くて前にも進めないままなんじゃないか?」
言い終わると同時に頭から地面に倒れた。昨日の疲れも残る体は、限界をとうに超えている。
それでも立つ。立とうとした時、地鳴りのような低い音が響いてきた。
まさか、このエンジン音は。
「おい、お前か?」
倒れた僕のすぐ前で大型バイクが急停止。見慣れた人影が降りて万条目と向き合う。
「お前か? 俺の可愛い可愛い可愛い可愛い弟に怪我させたのは!?」
「ああ、オレだ」
万条目が堂として答えを返す。
「兄貴……」
僕の口から出た声は、自分でも分かるほど喜びで上ずっていた。それでもいつもの尖った態度を改める気にはなれない。
兄貴が僕に向き直って屈み、手を差し伸べてくる。僕の手が残された力を振り絞ってはたく。
「そういや借りた兄貴の携帯の万条目からの受信メール、消し忘れてたっけか。で? 何しに来たんだよ。助けてくれなんて頼んだ覚え……」
「よく頑張ったな。友達のためか? 俺にはとてもできねえよ」
「――ッ!」
思わず涙がこぼれそうになる。
これまで心にこびりついていた嫌な物が、僻みの根源たる黒い物が消えた気がした。兄貴がもう一度差し伸べてくれた手を、今度は素直にしっかりと握れた。
「頼む兄貴! あいつを、万条目を助けてやってくれ! あいつも僕と同じように苦しんでるんだ」
「オッケィ! 任せろ八雲。事情はよく分かんねえけどお前の頼みなら何だってやってやんよ」
兄貴は快活な笑みで万条目をみる。呼応するように彼女は加虐的に笑む。
「後は私たちに出来る事は何もなさそうですね」
いつの間にか起き上がり床に尻と両手をつく姿勢になっていた羽吊が告げる。僕はそうだな、と答えた。もう心配はない。兄貴が――お兄ちゃんが負ける事なんて、無いから。
「場所変えようぜ、万条目チャン。こっちこいよ」
軽い口調でそう言って、兄貴が乗ってきた大型単車を押しながら海沿いに歩いて行く。僕と羽吊を巻き込まないための配慮だろう。その後をスキップせんばかりに万条目が付いていく。数十メートル歩いたところで兄貴が足を止め向き直る。辺りの空気が張り詰めるような錯覚。
「じゃ、始めるか。やりすぎねえ程度に」
「やれるもんならやってくれ」
兄貴の言葉に万条目が答える。
「オッケイ。今すぐやってやるぜ。おまえみたいなチビッコ倒すなんて、朝飯前で赤ん坊の手をねじ切るようなもんだ」
そう言うや否や、自分の大型単車を軽々と持ち上げ兄貴が万条目に突進。
「死んでくれるなよな!」
勢いを全て乗せて単車を振りかぶり、ハンマのように万条目に叩きつける。
茶髪を翻して万条目が反応、なんと避けずに片腕で受け止めた。右手が前輪をしっかり握って離さない。歴然とした力の差だった。
右腕が僅かに上がり、百キロ以上ある単車と長身の兄貴が宙に放り出される。完全に無防備になったところへ、回し蹴り。吹っ飛ぶ単車と長身。
地面で一度バウンドして、止まる。
「朝飯前で赤ん坊の手をねじ切るほど簡単じゃなかったのか?」
やや残念そうに万条目が聞く。兄貴はしばらく答えられない。へしゃげた単車の下から這い出てきた。体中傷だらけで、額からも血が出ている。
「簡単な訳、ねぇじゃん。俺世間じゃ“イケメン”って言われてんだぜ? イケ面止まりの八雲と違って、外見だけじゃなく中身も超優しいからな、俺。そんな残酷な事できる訳ねえじゃん」
そう言いながら自分の愛車を事無げに海に放り捨てる。
「ついでに、朝飯前ってのは例えじゃねえしな。でも、可愛い弟のためならマジで簡単な事だぜ? 来いよ! もう素手だから手加減できねえけどな!」
今度は万条目から距離を詰めて、右拳で思い切り殴りかかる。
「それは楽しみだ。悪りぃな自慢の顔に傷つけて」
打撃を打撃で迎え撃つ兄貴。
「解ってねえなぁ。顔にケガして捨てられんのは“イケ面”、「可哀そうね」って言ってもらえんのが“イケメン”だぜ?」
そこから、二人の攻防が一気に加速する。
「そうかそれは安心だ。なら全身のケガも心配いらないな?」
衝突してから二段三段に変化するパンチが吹き荒れ、コンクリートを陥没させる蹴りが交わされる。
「勿論いらねえ、イケメンはケガしてるぐらいが一番サマになるんだよ。血も滴るいい男ってな!」
兄貴のパンチが受けられてから四段に変化。予測しきれなかった万条目の顔に絶望と安堵の入り混じった表情が閃く。拳が腹を抉った。
「行け兄貴、畳みかけろ!」
「任せな!」
立て直しを許さない、強引な連撃。万条目が距離を取るために放つ牽制をものともせず腹に肩に顔に雨の如くパンチが入る。
そして、夜が明ける。
同時に見る物を戦慄させる剛力と強靭さを誇ったあの万条目が、ついに倒れた。
万条目赤志は、敗けた。
「おーい、生きてるか」
おぼつかない足取りで僕は万条目に歩み寄る。ボロボロの彼女は少しさびしそうで、それでいてとてもすっきりしたような表情をしていた。過去を過去として割り切って、今からやっと前へ進めるのだろう。
「サンキュー、兄貴」
兄貴にも礼を言う。何か返事言いたげだったが、兄貴も倒れた。
「全員満身創痍だけど、これで終わったのか……」
いつの間にか、羽吊も横に来ていた。兄貴のポケットを探っている。
「ええ、これで死者なし悔いなし文句なしに大円団のハッピーエンドです。……お兄さんの携帯が壊れて救急車が呼べないこと以外は」
「「「え」」」
学校はとうに授業が始まっているというのに、一度も登校していない僕はいま入院中である。
万条目が敗れてから三日。思ったより僕の怪我は酷く未だに直らない。
……万条目が前に進めるようになったのは、敗北が原因ではないかもしれない。
見舞いに来てくれた羽吊がそう言っていた。
友達と言うか、頼れる人の存在。自分を傷ついてでも助けてくれる人ができたから万条目は前に進めるようになったのだという。「心に空いた両親二人分の穴を埋めるには私一人では役不足だったのでしょう」とのこと。
それが正解かどうかはともかく、急に支えを外した今の万条目は少し不安定らしい。体の傷は僕より重症のくせに絆創膏で治したくせに。
コンコン
誰かが病室のドアをノックする。個室だから僕に用があるのは間違いないが、誰だろう。兄貴と羽吊は今日もう来たし、またあのアホ看護婦か?
「どうぞー」
「おっじゃましまぁ~す☆」
ドアを勢いよく開けて入ってきたのは万条目だった。
いや万条目なのかコイツは?
拘っていた髪は切りポニーテールにして後ろでまとめ、あの無骨な男口調は影も形も無く幼い笑顔をほころばせている。
「お? どしたよそんなおっきく口あけて? そんな八雲ちーの口に、ブチ込めトリニトルトリエン(C7H5N3O6)!!」
枕が僕の口に押し込まれる。何故に!?
「へ、ははにりいあんにゃ? ほりはい? (で、何しに来たんだ? お見舞い?)」
「うん、そうだよぅ。どうどんな具合? どこが痛い? どれぐらいで怪我治るのー?」
万条目が幼い口調で言う。なるほどこれは不安定だ。やや勿体無いが早く安定してもらわないと何をされるか解らない。とりあえず枕を吐きだす。
「シリアスパートでした怪我だからな。しばらく治らないと思うよ。見てよほら、さっき羽吊とアホ看護婦がやってくれたコメディパートの爆発でパーマになった髪はもう元に戻ってるのにさ」
「うう、ごめんね八雲ちー」
目をうるませて謝ってくる万条目。元々の容姿の良さが無駄な方向に活かされ、正直かなり可愛い。行動の不安定さが無ければこのままでいいかもしれない、という邪念が頭を掠める。
「でねでね、怪我を早く治してもらおーと思って、こんなん持って来たよ☆」
パタパタと病院スリッパを鳴らして一旦病室の外に出る万条目。何か凄まじく嫌な予感がする。身動きが取れれば今すぐ病室のドアを閉めるところだ。
「ジャジャ~ン、台所と調理器具一式と中身入り冷蔵庫♡」
台詞の通り、キッチンと調理器具一式と冷蔵庫を持ってきやがった。怪力だけは全く変わらない。
「料理なんてしたことないけど、あたしの料理食べるよね食べなきゃね食べない訳無いよね八雲ちー?」
「や、止めろ、本日二度目の爆発オチが過去を思い返すがごとくはっきりと見えるうぅ!!」
燃える乙女の純情+調理器具+食材-料理の知識=核融合
最近軍事利用されようとしているというあの(悪)夢のエネルギーが、いままさに僕の目の前で炸裂しようとしている……。
「で、シリアスモード入るけどさ☆」
調理器具諸々が万条目の怪力によってまとめて脇に避けられる。その切り返しの鋭利さに僕はずっこけという古典的リアクションを取り、怪我を痛めのたうちまわる羽目に。
「八雲ちーは、「僕は兄貴に頼りっぱなし」って言ってたけどそれは違うってさ」
え!?
「さっき病院受付のトコロであってお話したんだけど、お兄さんも八雲ちーに色々助けられてるらしいよ」
「……そうなのか?」
それは意外だった。
万条目は続ける。
「うむ。例えば大学でレポートがなかなか終わらずやっと変えてきた時なんかに、八雲ちーの寝顔で癒されてるらしいよっ」
「は!?」
「でねでねこう言ってたよ「すぐ懐くハムスターより、指にかじりついてくるいじらしいハムスターの方が可愛いんだぜ」ってねー「自慢の童顔ツンデレ弟だぜ」って。およ? どしたの八雲ちー? ベッドの下から包丁なんて取り出して毒なんて塗り始めて?」
後半は激昂する僕の耳に届いていなかった。
「あんのクソ兄貴ィ、今度こそ殺す。殺すったら殺す!」
次に見舞いに来た時が貴様の最後だ。
「お、落ち着いてよ八雲ちー!」
「グエ!」
ラリアットをかまして僕をベッドに押し倒される。暖かく柔らかい感触を全身で感じる。心拍数が急上昇。
「確かに八雲ちーとお兄さんは凭れ合いだけど、いつかお兄さんも家を出ちゃうでしょ? その時はあたしが代わりに八雲ちーを起こしたり、朝ごはん作ってあげるよ!」
「……へ?」
万条目の顔が近づく。匂いさえ感じられるほどに近づいて、そして……。
字数の都合で省略します。
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