第1話 黄昏の侵攻 4
アンツカルは身を低くし、跳躍に備えた。
今の彼は、ただ強くなっただけではない。かつての自分よりも、遥かに速い。
《夜を生きる者》の力を大きく引き上げる
変異形態。
だがそれは、血喰いにとって決して容易な力ではない。
特に――中位種に属する者にとっては。
変異形態は、《原生種》の状態へと立ち戻る行為だ。
だが《日歩き》への成長の道を選んだ存在にとって、それは本来あるべき姿ではない。
《下位種》は比較的その変化に耐えやすく、
《最上位種》もまた問題は少ない。
しかし、ようやく《中位種》、あるいは《上位種》になったばかりの血喰いは、
時に――変異の代償として、高い代価を支払うことになる。
人間の血を数デカリットルも吸えれば、グールは最悪の後遺症から逃れられる。
だが――戦場のどこに血がある?
同じ部隊の人間を飲むか? できなくはない。だが、その代償は“頭を撫でられる”程度じゃ済まない。撫でられるとしても、せいぜい棘付きの棍棒で、だ。
だからこそ、アンツカルは自ら危険を選んだ。
それは、自分の命を賭ける覚悟でもあった。
彼はファイタンハの仇を討ちたかった。
人間の血への渇望など比べ物にならないほどに。
――それが、グールにとってどれほど異常なことか。
アンツカルは左に身を沈め、あたかもそこから跳ぶかのように見せかけ、次の瞬間、敵の左脇へと一気に踏み込んだ。
ダイカル一族のグールが変異形態において得る内視は、敵を全方位から捉える。
相手がどう反応しようと、そのわずかな動きから次の行動を読み、即座に攻撃の流れを切り替えられる。
今のアンツカルの中には、明確な手順があった。
右脇腹へ剣を突き立てる。
剣を手放し、空いた手で喉を裂く。
反対の手で剣を取り戻し、腹を切り裂く。
この速度なら――失敗はあり得ない。
敵は死ぬ。
死ぬはずだ。
左から振り抜く。
左腕を胸の前に構える――防御のように見せかけ、実際は剣を奪う準備だ。
風にはためく外套は、もうすぐそこだ。
あと一歩で、フードの奥の顔が見える――!
そして、斬る――
……何だ?
なぜ、右腕が敵の左手にがっちりと掴まれている?
なぜ、左の掌が右手で押さえつけられ、胸に縫い止められている?
なぜ――動きが、まったく見えなかった?
変異したこの力をもってしても。
夜の子であり、夜を生きる者であり、夜の力に満たされたこの身でありながら――
なぜ、たった一人の定命者の拘束から抜け出せない?
剣が、足元の柔らかな草の上へと落ちた。
フードの奥から、くすりと笑う声が漏れた。
「……それだけか?」
沈黙。
アンツカルは牙をきしませながら、鉄のような拘束から逃れようともがく。
「それだけが――ダイカルの限界か?」
沈黙。
敵がさらに力を込めると、アンツカルは食いしばった牙の隙間から、低く唸り声を漏らした。
「……哀れだな」
フードが、不意にアンツカルの顔へと近づく。
闇の奥で、赤い瞳孔がぎらりと光った。
「お前には――闘志がない」
アンツカルが痛みで叫ぶ間もなく、敵は跳躍し、膝で彼の肘を叩きつけ、肘関節を粉砕した。
夜を生きる者の腕は、巨人の足元で踏み砕かれる乾いた木の枝のように、鈍い音を立てて砕けた。
「お前の闘志は弱い」
そう言って 定命者はアンツカルを放した。
砕けた両腕は、意思を失った鞭のように脇へ垂れ下がった。
血喰いは痛みに咆哮し、涙が目から溢れ、視界を歪ませた。それでも彼は立ち続けた。
膝をつき、命乞いをしたい衝動を必死に押し殺しながら。
彼は理解していた――情けは与えられない。
なぜなら……
「闘志の弱い者は、戦ってはならない」
定命者はそう語りながら、ゆっくりとアンツカルの頭を掴んだ。
「弱き闘志は、他の場では役立つこともある。だが戦いでは違う。
もし、自らより強い闘志を持つ者と刃を交えたなら……」
アンツカルは、なぜかその先を知っていた。
「……覚悟しろ。慈悲はない」
強靭な手のひらが血喰いの耳を覆い、言葉はくぐもったが、それでも彼には聞こえていた。
「なぜなら、慈悲を与えぬことこそが、強き闘志による敬意だからだ。
相手を己と同列に置き、闘志を持つ者として死なせる――それが敬意だ」
フードの闇が世界を呑み込み、引きずり込んでいく。
アンツカルの内視の残滓すら渦のように吸い込まれていったが、それでも彼はフードの内側を見ることができなかった。
まるで、そこには本当に「闇」しか存在しないかのように。
そして――世界は消えた。
フードの闇に、完全に飲み込まれたかのように。
……
オレクスは息をついた。
ダイカルの頭蓋骨はあっけなく砕け、血喰いの脳が、砕けた骨片とともに指の間から滲み落ちた。
「残念だ……」
定命者は呟き、体を震わせた。
「もっと強い敵が必要だった」
彼は周囲を見渡した。
アヘスが、破壊された《ドーム》の方からゆっくりと歩いてくる。
風を受けて翻るマントは、彼を巨大なコウモリのように見せていた。
マスターは言っていた――あれが、ソーン族の変異形態に近い姿だと。
なぜか、エヴァナの姿が脳裏をよぎった。
理由は分かっている……。
オレクスの震えは激しくなった。
彼は指を口元に運び、舐め取った。
血喰いの脳は、生のエビのように不味く、しかも骨片まで混じっていた。
気分は最悪だった。
異変を察したのか、アヘスが歩調を速める。
オレクスは拳を握りしめた。
なぜ、いつも弱者ばかりを押し付けられる?
なぜ、彼らは自分を他の敵に相応しくないと思っている?
彼は地面を踏み鳴らした。
二十センチほどの凹みが、大地に刻まれる。
「くそっ!」
アヘスは叫び、走り出した。
なぜタヴィルは言った?
「高位種の血喰いは自分がやる。残りは護衛を抑えろ」と。
彼は信じていないのか?
オレクスの闘志の力を。
彼の闘志の強さを。
オレクスは笑みを浮かべた。
ああ……ならば、やることは一つだ。
彼らに見せてやる。
オレクスの闘志が、どれほど強いかを!
彼は両手を口元に運び、舌先で脳の残滓を舐め取った。
準備は整った。
今こそ、形相が現成への道を開き――
その瞬間、アヘスが背後から飛びかかり、オレクスの腕を掴んで引き剥がした。
オレクスは不満げに唸る。
アヘスは手首の急所を押さえ、膝で背中を押さえ込み、動きを封じた。
「お前らは……俺の闘志に嫉妬しているんだ!」
オレクスは叫んだ。
そこへ、ザトンとタヴィルが駆け寄ってくる。
アヘスは仲間を押さえつけながらも、それが長く持たないことを理解していた。
能力の相性が悪い――彼の力は、近接戦闘向きではない。
「クソが!」
タヴィルは立ち止まり、両腕を肘まで地面に突き刺した。
草がざわめき、這い上がるようにしてオレクスを絡め取る。
アヘスは息をついた。
これで少しは楽になったが、油断は禁物だ。
「歯をこじ開けろ」
薬の匂いが嫌いなのか、タヴィルは顔をしかめた。
ザトンは慣れた手つきで暴れる男の顎を掴み、鉄製の筒を歯の間に押し込んだ。
片手で顎を固定し、もう一方でマントの奥から悪臭を放つ小瓶を取り出し、筒を通して中身を流し込む。
オレクスは震え、筋肉が硬直する。
アヘスは身構えた――何かあれば、腕を折る覚悟で。
だが、次第にオレクスは落ち着いていった。
呼吸は整い、殺意――
雪玉にすらできそうなほど濃密で、極めて致命的な殺意は――後退していった。
「……大丈夫か?」
タヴィルはまだ地面から手を引き抜こうとせず、警戒した視線をオレクスのフードへ向けた。
「……ああ」
くぐもった声が返ってくる。
「続行できる。ちゃんと抑えてる」
「だったらだ」
アヘスが陰鬱に言い、ゆっくりと仲間の手を放した。
「次にキレるなら、保管庫と相対したときにしろ。俺たちがまたお前の狂気を見せられるより、あいつにそのイカれた頭を評価してもらった方がマシだ」
「だから大丈夫だって言ってるだろ!」
オレクスは叫び、アヘスを突き飛ばした。
噛み砕かれて二つに割れた円筒が、草の上に転がる。
タヴィルはようやく手を引き抜き、露骨に嫌そうな顔で土を払い落とした。
「いいか」
彼は言った。
「次の発作が来るまで、しばらく時間はある。むしろ今起きてくれて都合がいい。ザトン、薬はどれくらい残ってる?」
「四本だ」
「上等だ。足りるだろう」
タヴィルは頷いた。
「予定通り動く。お前たちは保管庫へ。俺とアヘスは集落だ。ザトン、目標を確保したらすぐに合図を上げろ。花火だ。ここで合流する」
「……もし、何か問題が起きたら?」
ザトンは地面から円筒の破片を丁寧に拾い上げながら尋ねた。
「そのときは――」
タヴィルは肩をすくめた。
「すべての神と偽神に祈るしかないな。せめてグールに殺してもらえるように、だ。マスターから生きて逃げられるとは思うなよ」
「少なくとも……エヴァナからは、絶対に無理だな」
アヘスがぼそりと呟く。
「無駄口は終わりだ。散開して、行動に移る」
四つの影は素早く夜の闇へと溶けていった。
あとに残ったのは、**結界**の微かな明滅に照らされる、いくつもの死体だけだった。




