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呪血  作者: アマン
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第1話 黄昏の侵攻 3

ファイタンフは、侵入者の胸に上質な鋼の刃を深々と突き立てながら、頭の中でその続きを思い描いていた。

このまま腕を体内に突っ込み、心臓を引きずり出し……滴る血を啜る光景を。


(ああ、神でもボロでもいい。どうか運を寄こせ。せめて“人間”であってくれ)


ランガレイの《血の法》において、《ドーム》の境界を越えた者は、もはや“自然の権利を持つ存在”とは見なされない。

ただの——食料だ。


もっとも、獲物が人間であれば上出来だった。

他種族の血は不味い上に、体に馴染まない。


だからこそ、侵入者を最初に仕留めた者は“幸運な奴”と呼ばれる。

獲物は、完全に、無条件で、彼らのものになるのだから。


刃は、グールの領域を散歩気分で歩いてきた愚か者の胸を、まるで紙のように貫いた。


ファイタンフは歓喜に歯を剥き、無意識に牙を伸ばす。

だが次の瞬間、その笑みは凍りついた。


剣が——動かない。


前にも後ろにも進まない。

まるで、見えない何かにがっちりと掴まれているかのように。


右手に、奇妙なチリチリとした痺れが走る。


グールは目を細め、内視(オールサイト)を発動した。

呪術構造すら見抜くことのできる能力だ。


だが、ドーム突破の時と同じく——

魔法の痕跡は、どこにもない。


「……砂、だと?」


袖の中へと入り込む感触の正体を見て、ファイタンフは目を見開いた。

無数の砂粒が、まるで角砂糖に群がる蟻のように腕を這い上がっていく。


それが肩に届いた瞬間、頬を撫でる風を感じた。


そして——


風に巻き上げられた大地が、ファイタンフの前で盛り上がる。

土塊は互いに押し寄せ、まるで長い別離の後に再会した恋人のように絡み合う。


風が形を与え、渦巻く土が“それ”を作り上げた。


巨大な——土の腕。


それはグールの体を鷲掴みにし、容赦なく締め上げる。


「グッ……!」


ファイタンフはもがき、変異形態(トランスフォーマ)を始める。

だが遅すぎた。


骨が悲鳴を上げ、砕ける音が響く。


次の瞬間。


ぶちゅっ


嫌な音とともに土の手が握り潰され、血飛沫が四方に散った。

悲鳴を上げる暇すらなかった。


代わりに絶叫したのはアンツカールだった。

仲間の首が、彼の槍の穂先に上から落ちてきたのだ。


「う、うわあああああああああッ!!」


槍を放り捨て、彼は野営地へ向かって全力で駆け出す。


その様子を、ずっと動かずに立っていたフードの男が静かに見送っていた。


何もせず、ただ待つ。


血に濡れた土の手がゆっくりと開き、崩れ始めるのを。

土塊がエーテルの流れに支えられ、空中に留まるのを。

血に染まった砂粒が舞い上がり、自分のフードの奥へと吸い込まれていくのを。


フードの奥から、誰かが深く息を吸い込むような音がした。


男は満足げに鼻を鳴らし、逃げたグールの後を歩き出した。


だがアンツカールも、遠くへは逃げられなかった。


正面から、目をひん剥いたゴブリンが突っ込んでくる。

ヤタガンを滅茶苦茶に振り回しながら。


焦点の合わないその目を見て、アンツカールは本能的に悟る。


(避けなきゃ、腹を裂かれる!)


だが、ゴブリンは彼に辿り着く前に止まった。

小刻みに震え出す。


直後、地面を突き破って現れたのは、赤い大きな蕾をつけた蔓だった。


蔓はゴブリンの体に絡みつく。

彼は情けない声を漏らすだけで、抵抗すらしない。


やがて蕾が開いた。


それは肉に食らいついた。


まるで——

まるで——


(グールが人間の喉に噛みつくみたいに……)


ゴブリンは急速に萎んでいく。

風船のように。


皮膚が骨から剥がれ、花へと吸い込まれていく。

長い鼻がぶらりと垂れ下がり、首吊り死体のように揺れた。


アンツカールは後ずさり、尻もちをつく。


彼は《純血種》だ。

人間がどうやって死ぬのか、

“転生種”になる瞬間に何を感じるのか、何も知らない。


(あいつらも……こんな恐怖に襲われるのか?

失禁しそうになるほどの……?)


もしそうなら——

今の自分は、彼らの気持ちが痛いほどわかる。


腰の剣に手を伸ばす。

だが震えて、柄を掴めない。


(お前はグールだろう!

立て! 《夜を生きる者》の誇りのために戦え!

今こそ夜の時間だ!)


(……誰だ、これ?)


(俺の声、か……?)


(でも、怖い……)


(望んでたんだろう!? 仲間を守って戦うって!

なら変異しろ! 戦え! 夜は我らの子を祝福する!)


——そうだ。

今は夜だ。


不死の者が、最も強くなる時間。


指が、ようやく冷たい柄を掴む。


アンツカールは立ち上がる。


(俺はグールだ。夜こそが俺の領域。

どんな強敵だろうと——夜のグールに敵うものか!)


彼は咆哮した。


顎が大きく外れ、鋭い牙が伸びる。

肉体が急速に変質し、鎧が悲鳴を上げて割れた。


胸当てと背当てが、膨れ上がる筋肉と生え出した棘に耐えきれず、真っ二つに砕ける。


耳たぶは伸び、

眼球は血走り赤く輝き、

手首には鱗が浮かび、

足の指には凶悪な鉤爪が生えた。


ダイカール族グールの変異形態(トランスフォーマ)、完了。


その力は五倍。

素手でもオーガの首を捻り折れる。


「いいね!」


右手側から、不意に声がした。


アンツカールは反射的に振り向き、剣を構える。


今の彼なら素手でも飛びかかれる。

だが《光のイニシエーション》によって辛うじて保たれている理性が告げていた。


——武器は、まだ必要だ。

変異を終えたアンツカールのすぐ傍に、深緑のマントに包まれた人物が立っていた。

その輪郭は人間に近い。だが、同じくらいの可能性でエルフとも取れる。


アンツカールは鼻を鳴らし、低く唸る。

そして、はっきりとした失望を滲ませた。


(……匂いがない)


人間の匂いも、エルフの匂いも。

生き物特有の気配すら、まったく感じられない。


(錬金術のエリクサーか? それとも、そもそも匂いを発しない存在……つまり――)


いや、後者はない。

そんな馬鹿な話があるものか。


ゾンビは、基本的に喋らない。

ネクロマンサーの命令には忠実だが、会話はしない。


それに、匂いもしない。

肉体は腐敗せず、新陳代謝も止まっているからだ。


だが、もし目の前の存在がゾンビなら。

衣服からは匂いがするはずだった。


死体が無臭でも、布までは違う。


しかし――

そのマントからも、何の匂いもしない。


(……なら答えは一つ)

(グールの嗅覚、しかも変異後の嗅覚を欺くための錬金術だ)


「いいね」


その人物――人間の声が、再び響いた。


「これがダイカール族の変異形態(トランスフォーマ)か」


値踏みするような視線が、アンツカールの全身をなぞる。


「で? そのデカい体で、どれくらい強いんだ?」

「《夜を生きる者》よ」

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