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呪血  作者: アマン
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第1話 黄昏の侵攻 2

アンツカルは、幼い頃から教えられて育った。

――ドームの向こう側では、《夜に生きる者たち》は嫌われている、と。


あるいは「愛されて」いるとしても、

それは銀の杭で串刺しにされ、きっちり縛り上げられたうえでの話だ。


「……ふっ」


アンツカルは鼻で笑った。


もっとも、《夜に生きる者たち》に本当に危険なのが“月銀”だけだと知っている外界の死者族は、実はそれほど多くない。


中位種へ昇格したばかりの若いグールたちの間には、ちょっとした遊びがある。

結界を抜けて死者族の土地に忍び込み、自分を狩らせるのだ。


そして多くは、無事に帰ってくる。

しかも戦利品つきで。


――大量の銀の杭と一緒に。


国境警備の部隊の中には、あらかじめ分け前の約束をして、わざと“遊び人”を見逃す者たちすらいた。


もちろん、帰ってこない者もいる。

予想外に強力な魔女や術師に当たった場合だ。


だが、それは稀な話だった。


……とはいえ。


結局のところ、ドームの向こう側で《夜に生きる者たち》は憎まれている。


人間も、エルフも、ドワーフも、ホビットも、

そして人喰いのオークでさえ。


自分たちの土地に“不死の吸血種”など置いておきたくはないのだ。


だからこそドームは生まれた。

グールを死者族から守り、

死者族をグールから守るために。


それにしても――


どれほどの屑なら、

自国の農民が、西ラヴァロンの大半から忌み嫌われる《夜の王国》へ逃げ出すのだろう?


どれほどの暴君なら、

人々が恐怖も憎悪も飲み込み、ドームの庇護を求めるのだろう?


男爵の私兵から逃れるために。

公爵の軍勢から逃れるために。

狂った徴税と搾取から逃れるために。


何世紀にもわたり、自分たちを“食料”か“敵”としてしか見なかった存在のもとへ――。


(……どれだけ酷い支配をすれば、グールより憎まれるんだ?)


アンツカルは、ダイカル氏族の国境砦に辿り着く難民の隊商を見るたび、そんなことを考えた。


……だが、その思考は長くは続かない。


すぐに、もっと現実的で、ずっと魅力的な疑問に取って代わられる。


(あの怯えた黒髪の娘……あんなに澄んだ青い目をしてたな)

(血は、どんな味がするんだろうな)


――グールは、どこまでいってもグールだった。


時折アンツカルは思う。

ドームの外には、どんな世界が広がっているのだろう、と。


北と西には三つの人間王国。

二つは、かつて栄華を誇ったロラン帝国の残滓。

もう一つはヘルゼン商業同盟の一角。


西にはカルルの小森。

かつてロラン帝国に征服された森エルフの大王国ディレンダガタンから分かれた、数多の分枝のひとつ。


南には自由を愛するアラクノタウロスの領域。

東にはドワーフの住処、ゲブルギアの山脈。


アンツカルは“知っている”だけだった。

五十三年の生の中で、一度もヴェールの外へ出たことはない。


ランガレイが諸国と交易し、

いくつかの国には大使館があることも知っている。


そして――

これは囁き話だが。


高貴なる血統の継承者や、最上位の名家の者たちが、

時にドームの外へ密かに出ていくことも。


人の血を味わうために。

人の“生”ごと、味わうために。


アンツカルも、外へ出てみたかった。

果てしなく広い世界へ。


行きたい。

だが――行けない。


「何を考え込んでる?」


背後から、ふいに声がかかる。


気配をほとんど感じさせずに近づいてきたのは、

《光の洗礼》を共にくぐった旧友――ファイタンフだった。


アンツカルは不意を突かれてびくりと肩を震わせ、危うく槍を取り落としそうになった。


「いや、別に……いろいろだ」

グールは苦笑する。

「たださ……自分の目で見てみたいなって。あっちがどうなってるのか」


そう言ってドームへ視線を向けた。


その先を追い、ファイタンフは牙をむき出して笑った。


「お前が見るのは、自分のはみ出た腸だろうな」

気楽な調子で言う。

「まずそれ。それから頭……いや、頭は見えないか。

でも上位の連中の話じゃ、死の瞬間に意識は肉体から離れるらしいぜ?

ならチャンスはあるな。存在しない魂の、存在しない目で、自分の生首を拝めるかもな。

ついでに、自分の身体が焼け落ちるところも見られるだろ」


アンツカルは小さくため息をついた。


「……いつかさ。変わったり、しないのかな」

自信なさげに呟く。


「まあ、“温かい連中”が、もっと効率よく大量に同族を殺す方法を思いつくかもな」

ファイタンフは肩をすくめた。

「この世界で本当に進歩するのは、それくらいだ。

ここでも、無限にある他の世界でもな」


「並行世界って、信じてるのか?」


「信じてるんじゃない。あるに決まってるだろ」

即答だった。

「じゃなきゃ、俺の部屋で消えた物はどこに行ったんだよ?」


ファイタンフはアンツカルの兜を軽く叩き、鎧をコツンと鳴らす。


「こういう物思いはな、月のせいだ」

空を指差した。

「今夜の夜母の瞳は、やたらデカい」


事実だった。

月は異様なほど膨れ上がり、夜空を侵食しようとしているみたいだった。


あるいは神々の気まぐれかもしれない。

月を地上に近づけて、大陸の半分でも水没させて笑うつもりか。

神ってのは、そういう連中だ。


――だからこそ、夜だけが慈悲深い。

かつて最初の夜を生きる者をその腕に抱き入れたのは、夜だったのだから。


「……妙な雲だな」


ふいにファイタンフが眉をひそめた。


「雲?」

アンツカルも空を見上げる。

いつの間にか、灰色の厚い雲が空を覆い始めていた。

「どこが変なんだ?」


そして、気づく。


まず一つ。

星が砕け散ったように輝く闇の天蓋の中で、雲だけがやけに輪郭を持って浮かび上がっている。


二つ目。

形が――円形だ。


三つ目。

ドームの向こう側からヴェールへ向かってくる速度が、どう考えてもおかしい。


それは、カタツムリが熟練の短距離走者を追い抜くのを見るような違和感だった。


「魔法か……?」

ファイタンフは本営のほうへ視線をやった。


異常があれば、半ば内視(オールサイト)を維持しているヴィダンが、すぐに警報を上げるはずだ。

だが陣営は静まり返ったまま。

ザタンカルも相変わらず、

「今の覇王の側近どもは形式ばかり気にする腰抜けだ」だの

「俺を裁いたときなんざ、まるで転生したての使徒扱いだぞ」だの

愚痴を延々と垂れ流している。


「……知らせたほうがいいか?」

アンツカルは槍を握り直した。


「かもな……」

ファイタンフが言いかけた、その時。


雲はドームに到達し、何の抵抗もなく通過した。


それ自体は不思議でもない。

気流はヴェールを抜け、ランガレイへ空気を運んでいるのだから。


異様だったのは、その後だ。


雲はヴェールを半ばほど抜けたところで、ぴたりと止まった。

そして互いに絡み合い、渦を巻き始める。


なのに――魔力の発光が、一切ない。


次の瞬間。


二人が反応する暇もなかった。


雲は一つに収束し、外套をまとった人影の形を取る。


その存在は片手を振るった。


ビリ、と。


まるで何度も洗われてボロボロになったシーツを裂くみたいに、

ヴェールが――真っ二つに引き裂かれた。


アンツカルの喉に悲鳴が張りつく。


(何が起きてる!?)

(ほら来た、お前の見せ場だろ!?)

(なんでヴィダンが黙ってる!?)


思考が暴れ回る。


体が石みたいに固まった、その一瞬の隙に――


ファイタンフはもう動いていた。


剣を抜き放ち、侵入者へ一直線に突っ込む。


月光を弾く大剣が、美しい軌道を描く。

フェイントからの鋭い踏み込み、胸元を貫く一撃。


(ちくしょう……)

アンツカルは思った。

(これじゃあ、手柄は全部あいつのものだ――)


そこで思考は途切れた。


代わりに、胸を満たしたのは――


純粋な恐怖だった。

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