第1話 黄昏の侵攻 1
「何かが間違えば、責任を負う者はいくらでも見つかる」
――ゲルンド・コゲスキー『法の書』
太陽が地平線の向こうへ沈むたび、アンツカルは安堵していた。
こめかみの奥で独楽のように回り続ける、あの妙な“むず痒さ”。
赤黒い太陽が姿を消すと、それも一緒に遠のいていく。
肉体の痛みなど、あれに比べれば可愛いものだった。
その感覚は、生まれた時からずっと彼にまとわりついている。
一年前に受けた《光の洗礼》の儀式でさえ、体の奥に巣食うその“痒み”を消すことはできなかった。
アンツカルは――グールだった。
《夜を生きる者》。
それが、ランガレイ――《夜の王国》に住まう彼らの自称だ。
だがヴェールの外の世界では、こう呼ばれている。
「半死の血喰い」と。
ヴェール。
魔法の障壁。
まるで天蓋のようにランガレイを覆い、グールと、彼らに仕える人間たちの平穏を守る結界。
アンツカルは、物思いにふけりながらそのヴェールを見つめた。
脈打つ紫色の膜。
その強度は、ドワーフの城門に使われるミスリルに匹敵すると言われている。
世界を正確に二つへ分断する、絶対の境界。
《昼の眼》――太陽は、その向こう側にある。
「……はぁ」
思わず、ため息が漏れる。
つば広の兜も、防護の鎧も、《陽害》を大きく和らげてはくれない。
忌々しい《陽害》。忌々しい太陽の光。
若いグールであるアンツカルも知っている。
《陽害》が完全に滅ぼすのは原生種だけだ。
だが中位種や上位種でさえ、無傷では済まない。
長時間耐えられるのは、最上位種 ――ノスフェラトゥのみ。
ゆえに彼らは《日歩き》と呼ばれる。
光の洗礼を経て下位種から中位種へと昇格した今の彼でも、
そしてヴェールの魔力に守られているこの国境でさえ、
太陽はなお、確実に死の気配を思い出させてくる。
はるか昔、グールたちは太陽から逃れるために洞窟へ隠れ、地面を掘り、
夜にだけ狩りへ出ていた。
最も甘美なご馳走――人間の血を求めて。
グールは人を殺し、あるいは同族へ変えた。
人はグールを殺した。
……それだけだ。
「あるいは」など存在しない。
人間は噛んでグールに変えることなどできないのだから。
アンツカルは、ふと妙な想像をした。
もし逆だったら?
人間がエルフやドワーフやホビットやオークやゴブリンやトロルやケンダー……
あらゆる種族の家へ押し入り、噛みつき、次々と“人間”に変えていく世界。
昼も夜も逃げ場はない。
やがて世界には人間しか残らない。
(……なんて悪夢だ)
「偉大なる夜よ……そんな世界、正気の沙汰じゃない」
馬鹿げた考えだ。
境界警備を任されたダイカル氏族の新兵がするには、あまりにくだらない。
今や、人間が単なる餌だった時代は終わっている。
ここ夜の王国では、夜を生きる者が人間を支配しつつも、都市の自治を認めている。
両者の関係を定めるのは《血の法》。
それはグールにも人間にも等しく適用され、他種族もまた従っている。
彼らは、
ヴェールが十一最も偉大なグールに創られた時からこの地にいた者たちか、
あるいは後に自ら望んで血の支配者の庇護下へ来た者たちだ。
かつて西ラヴァロンの諸国は、グール国家の誕生に強い警戒を示した。
だが戦を仕掛けたのは国境を接する国だけ。
しかも戦は長く続かなかった。
《夜の王国》が一筋縄では落ちないと分かったからだ。
そして決定打となったのが《境界》。
魔法の不安定化によって生まれた、幅百キロにも及ぶ異常地帯。
常識の通じない現象が日常的に起きる、狂った緩衝地帯。
その結果、停戦と交易が始まり、王国は静かに富を蓄えていった。
もっとも、問題がないわけではない。
「宝が山ほど眠っている」
そんな噂が中原中に広まり、
結界破りの魔術師を雇って侵入を試みる命知らずの集団が後を絶たない。
ゆえにヴェールの国境では、各氏族の小隊が常時巡回している。
昼はノスフェラトゥの指揮下で人間と他種族が。
夜はグールと生者の混成部隊が。
もっとも、夜の監視は楽だった。
月明かりの下、力を増したグールの国へ侵入しようなど、正気の沙汰ではない。
……一度だけ例外があったが。
魔法学院と剣術学院の混成部隊が、無謀にも突破に成功した事件。
今や彼らの多くは、支配氏族サイフィアイユの“使徒”となっている。
アンツカルはあくびを噛み殺した。
彼の小隊は
グール七名、人間四名、ゴブリン一名。
今は人間と“ダーク”が眠り、
五人のグールが警戒に当たっている。
別の二人は《視察の儀》の最中だ。
半径二キロ圏を魔術で走査している。
クラリスが呪文を唱え、
ヴィダンの周囲に魔力場を維持していた。
エンネアリンの光に、オクタリンの閃きが混じる防護結界だ。[
内視に没入したヴィダンの顎は鋭くなり、牙がわずかに伸びている。
閉じた瞼の下で瞳が光っているのが分かる。
グールの魔法は外見にも影響する。
それは彼らを、かつての原初の姿へとわずかに引き戻す現象だ。
――人の血で“整えられる”前の、野性の姿へ。
やがて太陽は完全に沈み、
星々が静かに夜の務めを果たし始めた。
宇宙には秩序がある――
そう思わせる、冷たい光。
アンツカルは人間の方を見るのを我慢した。
本能に抗うのが難しいのは原生種や下位種だ。
だが彼は今、中位種。
“温かい者たち”と接触する資格を持つ。
しかも今は、ほとんど渇いていない。
つまり、人間はただの戦友でしかない。
弱いが、戦友だ。
「……ふっ」
若いグールは小さく笑った。
人間は弱い。
いつだって弱い。
だからこそ、数で勝っていても、
ランガレイを支配するのは夜を生きる者たちだ。
そしてその支配は、これからも長く続く。
それでもアンツカルには理解できなかった。
古参の国境兵の中には、人間や他の生者と妙に親しくする者がいる。
訓練で倒れないよう気を配り、
必要なら手助けまでする。
だがグールの訓練と人間の訓練は、負荷がまるで違うのだ。
「――ヴィダン、どうだ?」
声をかけたのは小隊長ザタンカル。
肩に銀の房飾りがついた豪奢な紫の外套。
それは上位種の公子か、日歩きだけに許された装い。
それ以外の者がヴェール内で身に着けることは、固く禁じられている。
本来、貴き血を引く上位種がヴェール国境の小隊長に就くことは滅多にない。
だがザタンカルは今、統べる者の不興を買っていた。
違法な血液取引が露見し、特権の大半を剥奪されたのだ。
とはいえ――
あの紫の外套だけは残った。
それは功績ではなく、《血統》による権利。
高貴なる父母のもとに生まれた“純血”の証。
あの外套を奪うには、ザタンカルの首ごと引き裂くしかない。
もし彼が噛まれて転生した《転生種》だったなら?
たとえ公子の位を持っていようと、即刻処刑だっただろう。
《血の法》は絶対だ。
そしてその苛烈さこそが、ランガレイの秩序を保っている。
深く息を吐き、ヴィダンが目を開いた。
星に満ちた空を一瞥し、静かに告げる。
「……反応なし、上位者様。
確認できるのは植物のオーラと、地と風の精霊が数体のみ。
不自然な魔力場や魔力の流れは存在しません」
ヴィダンの言葉を疑う者はいない。
それがダイカル氏族の《血統能》。
内視によって、範囲内のすべてを把握する能力。
その素養は一族の継承者すべてが持つが、精度と範囲には個体差がある。
ヴィダンの限界は半径二キロ――
それもクラリスの補助あってこそだ。
アンツカルなど、まだ二十メートルがやっとである。
人間の魔術師の中にも、遠隔視の術を使う者はいる。
だがそれは似て非なるものだ。
内視は十方位すべてを同時に捉え、
範囲内の“すべて”を対象にする。
「よし」
ザタンカルは満足げに鼻を鳴らした。
「今夜は愚か者も現れぬか。実に結構。
私は面倒事が嫌いでね。できるだけ穏便に任務を終え、
統べる者が私の“いたずら”を忘れた頃に、さっさと自室へ戻りたい。
余計な騒ぎなど御免だ。そうだろう?」
アンツカルは内心、舌打ちした。
(今日は見せ場になるはずだったのに)
思い描いていたのは、
思い上がった人間どもを百や二百、
ついでにオークを五十ほど斬り伏せる自分の勇姿。
もし自分が指揮官なら、あと二キロは前進させる。
そうすれば侵入者などいくらでも見つかるはずだ。
そして――
夜を生きる者の戦技、その真髄を思い知らせてやるのに。
だが、アンツカルは指揮官ではない。
……そしておそらく、その事実こそが。
その夜、ザタンカル伯爵率いる国境小隊に
“運”が向かなかった理由だった。
◇ ◇ ◇
風の精霊は――震えていた。
……少なくとも、そう表現するのが一番近いだろう。
本来、風の元素霊に感情というものはほとんど存在しない。
だが“この個体”は、自身の存在にわずかな違和感を覚えていた。
風の精霊にとってそれは、
「正常に機能していない」ことを意味する。
人間の言葉で言えば――
完全にパニック状態、である。
この精霊は覚えていない。
物質界へ無理やり引きずり出され、本来の役目ではない仕事を押しつけられる前のことを。
ただ感じる。
(……なにかが、おかしい)
それだけだ。
元素霊の在り方は、自己という概念が極限まで希薄な存在様式だ。
もしマハポパの唯識派の僧侶が知れば、羨望のあまり卒倒するだろう。
そこには自我の働きなど、ひとかけらもないのだから。
――だが。
今起きている異常が、この精霊に“変化”をもたらした。
なぜこんなことをされているのか。
なぜ自分はそれを嫌だと感じるのか。
そもそも「嫌だ」とは何か。
思考が芽生える。
以前の状態は「良かった」のか?
なぜ良かったと言える?
本当にそうあるべきだったのか?
ならば――
「常に良い状態」というものが存在するのではないか?
そこには疑いも揺らぎもないのでは?
そして精霊は気づきかける。
これまでの自分の存在が、
いかに矮小で、空虚で、無意味に近いものだったかを。
(わたしは――)
元素界の歴史を揺るがしかねない“真理”に、
その存在が触れようとした、まさにその瞬間。
風の精霊は――解体された。
存在は霧散し、思考は途切れ、
世界のどこにも「それ」はいなくなった。
揺れる草原の上で、空気がガラスのように固まり始める。
やがてそれは、透明な球体を形作った。
内部には、四つの影。
フードを深くかぶったローブ姿の人物たちが、無言で立っている。
球体が一瞬、デカリンの光を放ち――
次の瞬間、ひび割れて砕け散った。
無数の破片が地面に弾け飛ぶ。
そのとき、ようやく彼らは口を開いた。
「どうだった、ザトン?」
しゃがれ声で問うたのは、黒いローブの長身の男。
「楽勝だ、タヴィル」
胸のあたりまでしか背のない、小柄な男が答える。茶色のローブ。
「奴の内視は俺たちの上を滑っただけだ。気づきもしなかった。
俺の影は今日も完璧ってわけだ」
「単にグールどもが鈍ってるだけだろ、ザトン」
肩幅の広い灰色ローブの男が鼻を鳴らす。
「お前の細工は見事だが、ダイカル氏族の血統能を甘く見るな」
「血統能だぁ?」
最後の一人――緑のローブの、特徴の薄い男が鼻で笑う。
「アヘス、力なんてのはな、使い手がいて初めて意味がある。
戦士に必要なのは精神だ」
「ほう? オレクス、お前がそれを語るか」
灰ローブ――アヘスが嘲る。
「エヴァナに精神も何もなく叩きのめされたのは誰だった?」
空気が一瞬で冷えた。
「……その話はやめろ、アヘス」
オレクスが一歩下がり、両手を上げる。だが目は笑っていない。
「お前もあの時、たいした働きはしてなかっただろ。
ここで白黒つけてもいいんだぜ?」
「俺に挑む気か?」
アヘスが鋭く振り向く。
「今のお前が、俺に立っていられると?」
「前よりは強くなったさ。試してみるか?」
「やめろ、二人とも」
鋭い声が割って入る。
タヴィルだ。
「グールに気づかれたいのか?
ザトンが、ダイカルの継承者ですら見抜けない《覆い》を、
わざわざ風の精霊を潰してまで用意した意味を忘れたか?」
沈黙。
「任務前に内輪揉めが発覚したら、マスターにどう報告するつもりだ?」
「……あの人の力が、ここまで及ぶとは思えんがな」
オレクスが不満げに呟く。
「簡単だ。俺が報告する」
「うわぁお……」
オレクスは肩をすくめ、それ以上は何も言わなかった。
「よし」
タヴィルは視線を上げる。
遠方には、エンネアリンの光を帯びて天へ届かんばかりにそびえる――
巨大な《ドーム》。
「ダイカルの保管庫は、もう近い。
助かったのは、連中が“秘匿のため”にこの区画の警備を他と同程度に抑えていることだな。
国境兵がもっと多ければ、騒ぎが大きくなっていた」
「支配者ってのはどこも同じさ」
ザトンが肩をすくめる。
「隠し事があると、隠すこと自体が目的になる。
最後は“何を隠してたか”すら忘れる」
「で、保管者は誰がやる?」
「喧嘩したくて仕方ないみたいだな、オレクス」
「俺の獲物だ。“あれ”を守らされてるグールが、どれほどのもんか知りたい」
「彼の言う通りだ、アヘス。ドーム内部の動きは今のうちに決めるべきだ。
保管庫は《血の神殿》の近くだ。
誰かが集落で騒ぎを起こし、残りが保管者と“それ”を担当する」
「なら俺が保管者をやる」
「いや、アヘス」
「なぜだ?」
「お前と俺は陽動向きだ。
保管者はザトンとオレクスで当たれ」
「いいねぇ! 一瞬で片付けてやる!」
「敵を過小評価するな、オレクス」
「してねぇよ、ザトン。
自分が何できるか、よーく分かってるだけだ」
「おしゃべりはここまでだ」
タヴィルが手を振るう。
まるで巨大なドームを真っ二つに切り裂く軌道を、空中になぞるように。
「移動開始。――モルフェの準備をしろ」




