第9話「静かなる妨害工作」
ジークハルト皇帝の迷惑な求愛行動に頭を悩ませつつも、谷の運営は順調に進んでいた。帝国の港を使えるようになったことで私たちの特産品はさらに広範囲へと流通し、谷にもたらされる富は増え続けていた。
しかし、エルスリード王国からの圧力は、日に日に陰湿さを増していた。
「領主様! 交易都市へ向かったキャラバンが、山賊に襲われたとの報告です!」
ゴードンが、血相を変えて執務室に飛び込んできた。
「被害は?」
「幸い、護衛につけていただいた者たちが優秀で、積み荷の半分は守れましたが……数名が怪我を」
私は眉をひそめた。山賊、ね。このタイミングで、あまりにも都合が良すぎる。
「ただの山賊ではありませんね。おそらくは、王国の息がかかった者たちでしょう」
「やはり、そうですかい。どうも手際が良すぎると思いましただ」
ゴードンも同じ考えだったようだ。これは、アランたちからの明確な警告だ。私たちの経済活動を妨害し、兵糧攻めにしようという魂胆だろう。
「怪我人の手当てを最優先に。それから、今後の交易ルートは、より警備が厳重な帝国経由のものをメインに切り替えます。コストはかかりますが、安全には代えられません」
「へい、承知しました」
ゴードンが部屋を出て行った後、私は一人、地図を広げた。アランたちの狙いは分かる。だが、こんな小手先の嫌がらせで私が屈すると思っているのなら、大間違いだ。
『面倒だが、少し『掃除』をする必要がありそうだな』
その数日後、今度は谷の内部で問題が起きた。新しく作った貯水池に毒物が投げ込まれたのだ。幸い、私が設置していた水質を監視する魔道具が異常を検知したため誰もその水を口にすることはなかったが、一歩間違えれば大惨事になっていた。
犯人は、最近谷に流れてきた新顔の男だった。ゴードンたちが捕らえて問い詰めると、王都の貴族に金で雇われ谷のインフラを破壊するように命じられたと白状した。
領民たちの間に、不安と怒りが広がる。
「なんてひでえことを……!」
「王都の奴らは、俺たちを皆殺しにする気か!」
集まった領民たちの前で、私は静かに宣言した。
「皆さん、落ち着いてください。この谷は私が必ず守ります。ですが、やられてばかりいるわけにはいきません。こちらからも、相応の『返礼』をさせていただきます」
私の言葉に、領民たちはごくりと唾をのんだ。私の目が、いつもの穏やかな領主のものではなく冷たい光を宿していることに、彼らも気づいたのだろう。
その夜、私は黒い夜装束に身を包んだ。かつて暗殺者〈サイレント・キル〉として裏社会を駆けていた頃の、私の戦闘服だ。顔の下半分を黒い布で覆い、腰には二本の短剣を差す。
『久しぶりだな、この感覚』
ぞくぞくするような高揚感と、全てを支配できるような万能感が全身に満ちてくる。面倒なことは嫌いだが、獲物を狩る、この瞬間だけは別だった。
気配を完全に消し、闇に紛れて谷を出る。向かう先は、今回の妨害工作を指示した、王都のしがない男爵の屋敷だ。昼間のうちに、捕らえた密偵から情報を全て吐かせておいた。
谷から王都までは普通に行けば数日かかる距離だ。だが、私の脚力をもってすれば夜通し走り続けることで、一晩でたどり着ける。常人には不可能な速度で、私は闇の中を駆け抜けた。
夜が明ける前に、目的の男爵邸に到着した。警備はあってないようなものだ。私は誰にも気づかれることなく音もなく屋敷に侵入し、男爵の寝室へとたどり着いた。
ベッドで呑気に寝息を立てている男爵の首筋に、冷たい短剣の切っ先を当てる。
「ひっ……!」
男爵が、声にならない悲鳴を上げた。彼は暗闇の中で、自分の喉元に突きつけられた刃と、その向こうに立つ黒装束の人物の、氷のように冷たい目に気づき恐怖に顔を引きつらせた。
「だ、誰だ貴様は……!?」
「名乗る名はありません。ただの、北からの使者です」
私は、声を押し殺して囁いた。
「私たちの谷に、ちょっかいを出すのはやめていただきたい。次は、ありませんよ」
そう言い残し、私は彼の頬を短剣の腹で軽く叩いた。それだけだ。傷つけることもしない。だが、その一瞬の恐怖は彼の魂に深く刻み込まれただろう。
私は再び闇に紛れ、音もなくその場を立ち去った。私が残したのは、枕元に置かれた一枚のカードだけ。そこには、ヴァレンシュタイン家の紋章と、『警告』という一言だけが記されていた。
夜が明ける頃、私は何食わぬ顔で谷へと戻っていた。アンナが私の朝食の準備をしている。
「おはようございます、お嬢様。よくお休みになれましたか?」
「ええ、ぐっすり眠れたわ」
私はにっこりと微笑んで答えた。私が一晩、王都まで『散歩』に行ってきたことなど誰も知らない。
数日後、王都から面白いニュースが飛び込んできた。とある男爵が、夜中に寝室に侵入した亡霊に脅かされたと触れ回り、精神を病んで寝込んでしまったという。さらに、山賊行為を請け負っていた傭兵団が、一夜にして壊滅。現場には、誰がやったのかを示す痕跡は何も残っていなかったという。
どちらも、もちろん私の『仕業』だ。
アランたちの手先となって動いていた者たちが、次々と謎の不幸に見舞われる。その噂は王都の裏社会に瞬く間に広がり、忘れられた谷に手を出そうとする者はいなくなった。
「領主様が、何かされたのですか?」
セバスが、探るような目で私に尋ねてきた。彼は私がただの令嬢ではないことに、薄々気づいているのかもしれない。
「さあ? 何のことかしら。きっと、谷に宿る精霊が私たちを守ってくれたのよ」
私は優雅にお茶を飲みながら、しらばっくれた。
静かなる反撃。血を流さず、相手の心を折る。これもまた、暗殺者の得意とする手法の一つだ。
これでしばらくは静かになるだろう。そう思っていた矢先、ジークハルトが血相を変えて谷にやってきた。いつもの軽薄な態度はなく、その顔には皇帝としての厳しい表情が浮かんでいた。
「イザベラ! 大変なことになった!」
「どうしたのです、そんなに慌てて。あなたらしくもない」
「エルスリード王国が、我が帝国との国境に軍を集結させ始めた。表向きは軍事演習とのことだが……。奴らの狙いは、間違いなくこの谷だ!」
ジークハルトの言葉に、私は手にしていたティーカップを思わず強く握りしめていた。
小手先の嫌がらせが通じないと見るや、ついに本気で軍を動かしてきたか。
『どこまで、面倒事を増やしてくれるんだ、あいつらは……』
私の静かなスローライフは、どうやらまだ遥か遠くにあるようだった。




