第8話「甘くて迷惑な皇帝陛下」
「だから、いらないと言っているでしょう!」
私の声が執務室に響き渡る。目の前には、涼しい顔で茶をすする皇帝ジークハルトの姿。あのお忍び視察以来、この男は週に一度のペースで律儀にこの谷へやってくるようになった。それも、毎回とんでもない量の『手土産』を携えて。
「そう言うな。我が国で採れた最高級の宝石だ。君の瞳の色によく似合うと思ってな」
ジークハルトがテーブルの上に無造作に置いたのは、目もくらむような巨大な青い宝石が詰まった小箱だった。その価値は、おそらくこの谷の年間予算に匹敵するだろう。
「結構です! そんなものより、実用的な鉄鉱石でも持ってきてくださった方が、よほど嬉しいのですが!」
「ほう、鉄鉱石か。それなら、明日にでも山の一つや二つ、君に贈ろう」
「そういうことではありません!」
会話が全く噛み合わない。この男は、人の話を全く聞かないのだ。私が欲しいのは物ではない。ただ、平穏な日常なのだと何度言ったら分かるのだろう。
『面倒くさい……。本当に、面倒くさい男だ』
私は深いため息をついた。ジークハルトは、皇帝という立場を隠す気も、もうないらしい。彼は私と二人きりの時はもちろん、セバスやアンナの前ですら平然と皇帝として振る舞う。おかげで私の側近たちは、最初こそ腰を抜かさんばかりに驚いていたが、今ではすっかり慣れてしまい、遠い目でお茶を運んでくるだけになった。
「それよりもイザベラ。先日頼まれていた交易ルートの件だが、我が国の港を自由に使っていい。手数料も、君になら特別にサービスしよう」
彼は、まるで今日の天気の話でもするかのように、とんでもないことを口にする。帝国の主要港の使用許可。それは、エルスリード王国を完全に介さず大陸全土との交易が可能になることを意味する。普通なら、一国の王が土下座して頼み込んでも簡単には得られない利権だ。
「……見返りは、何ですの?」
タダより高いものはない。私は警戒しながら尋ねた。ジークハルトは、心底楽しそうに目を細める。
「見返りか。そうだな……。では、今夜、君の手料理が食べたい」
「……は?」
またしても、予想の斜め上を行く返答に私は言葉を失った。
「先日、お前のところの子供たちが食べていた、ポテトのグラタンとやらが美味そうだった。あれがいい」
「な……! なぜそれを……!?」
「私の諜報網を甘く見るな。君の谷の出来事は、ほぼ全て私の耳に入っている」
ジークハルトは、自慢げに胸を張った。つまり、私はこの男に四六時中監視されているということか。プライバシーも何もない。
『暗殺者として、これは屈辱だ……!』
気配を完全に消して行動していたはずなのに、彼の配下の者はそれすら見抜いていたというのか。帝国の諜報部隊、恐るべし。
「……分かりましたわ。グラタンで港が手に入るなら安いものです」
私がやけくそ気味に答えると、ジークハルトは満足げにうなずいた。この男の価値観は本当にどうなっているのだろう。国宝級の宝石も、国家間の利権も、私の手料理と同列にあるらしい。
その夜、私は約束通りジークハルトのためにグラタンを作った。キッチンに立つ私を、彼は興味深そうに後ろから眺めている。その視線がやたらと集中力を削いでくる。
「何ですか。私が料理をするのが珍しいのですか?」
「いや。君が、私のために何かをしてくれている。その事実が、たまらなく嬉しいだけだ」
真顔で、とんでもなく甘いセリフを吐く。こういうところが本当に心臓に悪い。前世も含めて、こんなふうに情熱的な言葉をかけられた経験など一度もなかった。どう反応していいのか分からず、私は黙々とジャガイモの皮を剥くことしかできなかった。
出来上がったグラタンをテーブルに並べると、ジークハルトは子供のように目を輝かせた。
「ほう、これが……。美味そうな匂いだ」
彼はゆっくりとスプーンを口に運び、そして、ぴたりと動きを止めた。銀色の瞳が、驚いたように大きく見開かれている。
「……どうです? お口に合いましたか?」
恐る恐る尋ねると、彼はこくりとグラタンを飲み込み、そして、恍惚とした表情で深いため息をついた。
「……美味い。こんなに温かい味のするものを、食べたのは初めてだ」
その言い方は、まるで今までまともな食事をしてこなかったかのようだった。皇帝ともあろう者が、何を言っているのだろう。
「皇帝陛下の食事なら、もっと豪華で美味しいものが毎日並んでいるでしょうに」
「豪華なだけだ。味などしない。全て、毒見役が先に口をつけた冷めた料理ばかりだからな」
ジークハルトの言葉に、私はハッとした。そうだ。皇帝とは常に命を狙われる立場。温かい食事を誰かと共に安心して食べる、などということとは無縁の生活を送っているのかもしれない。
『……なんだか、少しだけ、可哀想に思えてきた』
そんな同情がほんの少しだけ湧いてきた時だった。ジークハルトがおもむろに立ち上がり、私の隣に来ると、その大きな手で私の頭を優しく撫でた。
「イザベラ」
「な、何です!?」
「毎日、これを作ってくれ」
「絶対に嫌です!」
即答すると、彼は心底残念そうな顔をした。
「ならば、仕方ない。やはり、君ごと城に連れて帰るしかないようだな」
「話が飛躍しすぎです!」
この男との会話は本当に疲れる。だが、彼のしつこい求婚と時折見せる寂しそうな表情に、私の心が少しずつ、ほんの少しずつだが、絆されているのを感じていた。
面倒な男だ。本当に、心底、面倒で、厄介で……。
でも、彼が谷に来る日を、どこかで待ち遠しく思っている自分もいる。そんな矛盾した感情に気づかないふりをしながら、私はジークハルトの分のグラタンをもう一皿、彼の前に置いてやった。




