第7話「王太子、後悔の始まり」
一方その頃、エルスリード王国の王都では、重苦しい空気が王宮全体を覆っていた。
玉座に座る王太子アラン・フォン・エルスリードは眉間に深いしわを寄せ、大臣たちから上がってくる報告書に目を通していた。そのどれもが、彼の頭を悩ませるものばかりだった。
「……またか。南の穀倉地帯で、原因不明の凶作だと?」
「はっ。日照りが続いたせいかと。リリアナ様の祈りも、効果がなく……」
大臣の一人が、おずおずと答える。アランは忌々しげに報告書を机に叩きつけた。
イザベラを追放し、リリアナを正式な婚約者として隣に置いてから一年。最初は誰もが聖女の登場を歓迎し、国の未来は明るいと信じていた。リリアナは優しく、常に民を思いやる言葉を口にした。アランも、これこそが国母に相応しい女性だと信じて疑わなかった。
だが、現実は違った。リリアナの聖なる力は、ごく小規模な奇跡――例えば、怪我を少しだけ早く治したり、枯れた花を咲かせたりする程度――にしか効果を発揮しなかった。国の根幹を揺るがすような天災や疫病の前には、あまりにも無力だったのだ。
それどころか、彼女の無知な政策案が国政に混乱を招いていた。
『税を軽くすれば、民は喜び、もっと働くようになるはずです!』
そんな理想論を信じ、アランが減税を断行した結果、国の税収は激減。貴族たちからの反発も強まっている。イザベラが婚約者だった頃は、彼女が巧みに貴族たちをまとめ、アランが知らないところで国庫を安定させるための策をいくつも講じていた。だが、その事実にアランが気づいたのは、全てを失ってからだった。
「イザベラは……。あいつがいた頃は、こんなことにはならなかった……」
思わず口からそんな言葉が漏れた。その瞬間、そばに控えていたリリアナの顔が曇るのが分かった。
「アラン様……。私が、至らないばかりに……。ごめんなさい……」
潤んだ瞳で謝罪するリリアナに、アランはハッとして慌てて彼女を抱き寄せた。
「いや、君のせいじゃない。悪いのは、何もできない大臣たちだ。そうだ、きっとそうだ」
自分に言い聞せるように呟くが、心のどこかでそれが言い訳に過ぎないことをアランは理解していた。
そんな時、騎士団長のカイ・アーデルハイトが謁見の間に駆け込んできた。その顔には焦りの色が浮かんでいる。
「殿下! ご報告いたします! 北の忘れられた谷から流れてきた商品が、近隣諸国で大変な評判を呼んでおります!」
「何だと? あんな不毛の地から、商品だと?」
アランは訝しげに眉をひそめた。カイは、緊張した面持ちで続けた。
「はい。一つは、従来のものを遥かに凌駕する性能を持つ回復薬。もう一つは、『魔鋼』と呼ばれる未知の合金で作られた武具。そして……『北の涙』と名付けられた、極上の蒸留酒です」
カイが差し出した報告書には、それらの特産品がいかに高値で取引され、忘れられた谷に莫大な富をもたらしているかが詳細に記されていた。アランは、その報告書を読み進めるうちに顔色を失っていった。
「馬鹿な……。あいつ一人に、こんなことが……。いや、あいつは何もできない、ただ嫉妬深いだけの女だったはずだ!」
アランは信じられずに叫んだ。彼の記憶の中のイザベラは、いつも無表情で何を考えているか分からない女だった。リリアナのように、素直に感情を表すこともない。そんな女がたった一年で、見捨てられた土地を豊かな場所に変えたというのか。
「殿下、イザベラ様は……我々が思っているような方ではなかったのかもしれません。私が見た谷は活気に満ち、民は皆、彼女を心から慕っておりました」
カイの言葉が、アランの胸に重くのしかかる。
『民に慕われる領主……』
それは、アラン自身が目指していた理想の君主像だった。だが、今の自分はどうだ。民からは不満の声が上がり、貴族たちは離反の動きすら見せ始めている。
その時、アランの脳裏に、卒業パーティーでのイザベラの姿が蘇った。断罪され、追放を言い渡されても彼女は一切取り乱さなかった。それどころか慰謝料として、あの忘れられた谷を要求した。あの時は負け惜しみだと嘲笑したが……。
『まさか、あいつは……全てを計算していたというのか?』
追放されることすら計画のうちだったとしたら? あの不毛の地が宝の山であることを、彼女だけが見抜いていたとしたら?
ぞわり、と背筋に悪寒が走った。自分が、とんでもない過ちを犯したのではないか。国にとって何よりも貴重な宝を、自らの手で投げ捨ててしまったのではないか。
「……イザベラを、連れ戻せ」
アランは、絞り出すような声で言った。
「今すぐ、もう一度カイを向かわせろ。そして、イザベラを王都に連れ戻すのだ。これは、王太子としての命令だ!」
後悔と、そして新たに芽生えた執着が、アランの心を黒く染め始めていた。一度手放したものが、自分の知らない場所で輝いている。それがアランには許せなかった。イザベラは自分のものだったはずだ。自分の隣で、自分を支えるためだけに存在するはずの女だった。
「彼女の知識も、富も、全ては私のものだ。この国のものだ!」
アランの瞳は狂的な光を帯びていた。自分が犯した過ちを認める代わりに、彼は力ずくで過去を取り戻そうとしていた。
その頃、アランの様子を不安げに見つめていたリリアナは、一人静かに唇を噛み締めていた。アランの心が自分から離れていくのを感じていた。イザベラという、自分が打ち負かしたはずの悪役令嬢の影が、再び自分たちの前に大きく立ちはだかろうとしていた。
「いや……。アラン様は、私のものですわ……。あの女なんかに、渡さない……」
小さな呟きは、誰の耳にも届くことはなかった。王宮に渦巻く黒い感情は、やがて大きな嵐となって北の小さな谷へと向かうことになる。だが、その嵐の中心にいるはずの令嬢が、彼らの想像を遥かに超える存在であることに、まだ誰も気づいてはいなかった。




