第6話「冷徹皇帝のお忍び視察」
王国の騎士団が訪れてから数週間、谷は奇妙な静けさに包まれていた。アランたちがすぐに次の手を打ってくると予測していたが、表立った動きは今のところない。
『嵐の前の静けさ、か。裏で何か画策していると見るべきだな』
私は警戒を強めるよう皆に指示しつつ、防衛網の構築と情報収集に力を注いでいた。交易で懇意になった商人を通じて王都の情勢を探らせている。それによると、やはりリリアナの「聖女」としての評判が徐々に落ち込んでいるらしかった。日照りが続いても雨を降らせられず、流行り病を鎮めることもできない。メッキが剥がれてきた聖女と、彼女に心酔する王太子のせいで国政は混乱し始めているという。
そんなある日の午後、私は谷の薬草畑で新しい薬の調合を試みていた。暗殺者時代に扱っていた毒物の知識を応用すれば、より強力な麻痺薬や、逆に万能解毒薬なども作れるはずだ。試行錯誤に没頭していると、アンナが息を切らして走ってきた。
「お嬢様! た、大変です! 谷の入り口に、見慣れない商隊が……!」
「商隊? 取引の予定はなかったはずだけど」
「それが……護衛の数が異常に多いんです。それに、皆ただならぬ雰囲気を纏っていて……」
私は手を止め、すぐに立ち上がった。ゴードンたちに武器を準備させ、私自身もいつでも動けるように、作業着の下に仕込んでいる短剣の感触を確かめる。
谷の広場に行くと、そこには確かに大規模な商隊が待機していた。上質な幌で覆われた荷馬車が数台と、その周りを固めるように立つ屈強な護衛たち。彼らの装備はそこらの傭兵とは比べ物にならないほど質が良く、動きにも無駄がない。素人目には分からなくとも、私の目には彼らが高度な訓練を受けた手練れであることが一目で分かった。
そして、その集団の中心に立つ一人の男に、私は思わず目を奪われた。
背が高く、黒曜石のような髪と、凍てつく冬の夜空を思わせる冷たい銀色の瞳を持つ、恐ろしく整った顔立ちの男。商人にしては、その立ち姿はあまりにも隙がなく、全身から滲み出る威圧感は王族のそれに近かった。
男は私に気づくと、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。護衛たちが緊張した面持ちで後を追う。
「君が、この谷の領主、イザベラ・フォン・ヴァレンシュタイン嬢かね」
その声は低く、落ち着いていて、聞く者を従わせるような不思議な響きを持っていた。
「いかにも。私がイザベラです。失礼ですが、どちらの商会の方でしょうか。事前の連絡もなく、これほど大勢で来られては、こちらも警戒せざるを得ません」
私は一歩も引かずに、男を真っ直ぐに見据えた。男の銀色の瞳が、品定めをするように私の全身をゆっくりと眺める。その視線に、肌が粟立つような感覚を覚えた。
『こいつ、ただ者じゃない』
前世で対峙した、各国の要人や裏社会の大物たち。彼らと同等か、それ以上の覇気をこの男は放っていた。
男は、私の警戒を意にも介さず、ふっと口元に笑みを浮かべた。その笑みは氷の彫刻のように美しかったが、一切の温度を感じさせなかった。
「これは失礼した。私はジーク。隣国から来た、しがない商人にすぎない。君の谷の特産品が素晴らしいと聞き、ぜひ直接取引を願えないかと思って馳せ参じた次第だ」
ジーク、と名乗った男は芝居がかった仕草で胸に手を当てた。だが、その言葉を鵜呑みにするほど私は甘くない。
「隣国……。アストレア帝国、ですわね」
私の言葉に、男の瞳が面白そうに細められた。
「ほう。ご存じとは」
「ヴァレンシュタインの名を背負っていたのですもの。それくらいの知識はございます。ですが、帝国の商人がわざわざこんな辺境の、しかも他国の領地にまで足を運ぶとは。よほど、私たちの商品に魅力を感じてくださったと見える」
私は探りを入れるように言葉を続ける。アストレア帝国。エルスリード王国の東に位置する、大陸随一の軍事大国。そして、その国を統べるのは、若くして帝位につき、その冷徹さと類稀なる才覚で『氷帝』と恐れられる皇帝ジークハルト。
目の前の男の名前は、ジーク。あまりにも安直すぎる偽名だった。
『まさか、とは思うが……』
そんな私の内心の動揺を見透かしたかのように、男は一歩、私に近づいた。護衛たちが、ピクリと動く。
「魅力、か。ああ、感じている。それも、強烈にな。君が作り出したという『魔鋼』の武具、そして『北の涙』という酒。それらも素晴らしいが……」
男は、私の耳元に顔を寄せ、囁いた。その声は、他の誰にも聞こえないほど小さかった。
「私が最も興味を惹かれたのは、それら全てを生み出した君自身だ、イザベラ」
背筋に、ぞくりと悪寒が走った。この男、私のことを調べ上げている。単なる商品への興味ではない。私自身に、明確な目的を持って近づいてきたのだ。
私は咄嗟に身を引こうとしたが、男の手が私の腕を掴んでそれを許さなかった。その力は、見た目に反して恐ろしく強かった。
「な、何を……!」
「少し、君の『城』を案内してもらおうか。領主殿」
男――ジークハルトは、有無を言わせぬ口調でそう言うと、私の腕を掴んだまま谷の奥へと歩き始めた。彼の護衛たちが何事もなかったかのように後に続く。ゴードンたちが慌てて止めようとするが、私は目線でそれを制した。下手に刺激すれば、何が起こるか分からない。
腕を引かれながら、私は必死に頭を回転させていた。なぜ、帝国の皇帝自らが、お忍びでこんな場所に? 目的は何だ? 私を利用しようというのか、それとも、この谷を呑み込もうとしているのか。
『最悪のパターンだ。アランたちより、よっぽど厄介な相手かもしれない』
ジークハルトは、私の案内で谷の工房や畑を見て回りながら、時折、鋭い質問を投げかけてきた。
「この『魔鋼』の製法。君が考案したのか?」
「……ええ、まあ」
「この蒸留酒も、か。この気候を利用するとは、面白い発想だ」
彼の指摘はどれも的確で、物事の本質を瞬時に見抜いているようだった。彼は私の返答にいちいち満足げにうなずくと、最後に、私の執務室で二人きりになった時、衝撃的なことを口にした。
「イザベラ・フォン・ヴァレンシュタイン。私のものになれ」
「……は?」
あまりに突拍子もない言葉に、私の思考が完全に停止した。
「君とその領地、全てを私に差し出せ。そうすれば、アストレア帝国の庇護を約束しよう。君を追放した愚かな王国など、私が一夜にして地図から消し去ってやってもいい」
その銀色の瞳は本気だった。彼は本気で、私という人間と私が作り上げたこの谷を、丸ごと手に入れようとしているのだ。
「お断りします」
私は、間髪入れずに答えた。
「これは、私のものです。誰にも渡す気はありません」
私の返答を聞いて、ジークハルトは怒るでもなく、心底楽しそうに笑った。
「そうこなくてはな。いいだろう。ならば、力ずくで君が『はい』と言うまで、口説き落とすことにしよう」
彼はそう言うと、私の顎に手を添え、その顔を覗き込んできた。
「楽しみにしているといい、イザベラ。私は、欲しいと思ったものは、必ず手に入れる主義でな」
その日を境に、冷徹な皇帝陛下による猛烈かつ迷惑千万なアプローチが始まることを、私はまだ知らなかった。面倒事の気配がすぐそこまで迫っていた。




