第3話「まずは拠点と腹ごしらえから」
巨大な魔獣ボアフェンリルを仕留めた一件は、谷の住人たちに大きな衝撃を与えた。それまで私たちを遠巻きに見ていた少数の領民たちが、恐る恐るといった様子で拠点に近づいてくるようになったのだ。
彼らは元々、王都で罪を犯したり借金で首が回らなくなったりして、この谷に流れ着いた者たちだった。痩せて生気の無い目をしていたが、私が振る舞ったボアフェンリルのシチューを口にした彼らの目に、わずかな光が宿った。
「う……うまい……! こんなうまいもん、何年ぶりに食ったか……」
「この味付け、一体どうなってるんだ?」
口々に上がる感嘆の声。私は澄まし顔で答える。
「ハーブを数種類使っただけですわ。臭み消しと、風味付けに」
『前世で覚えたサバイバル料理の知識が役に立ったな。乾燥肉とレーションばかりの生活はごめんだ』
私は皆の前で、手際よくボアフェンリルを解体してみせた。硬い皮は剥いでなめせば防具になる。鋭い牙や爪は武器や道具の素材に。内臓は薬の材料になるものもある。そして肉は燻製にして保存食にする。捨てるところはほとんどない。私の淀みない作業に、領民たちはただただ感心するばかりだった。
「あんた、一体何者なんだ……? 貴族のお嬢様じゃなかったのか?」
髭面の男が、警戒しながらも問いかけてくる。彼がこの谷のリーダー格のようだった。
「私はイザベラ。今日から、この谷の領主になった者です」
私の言葉に、男たちは顔を見合わせ、やがて嘲るような笑みを浮かべた。
「領主だと? こんなクソみたいな土地の? あんたみたいな嬢ちゃんに、何ができるってんだ」
「ええ、何もできないかもしれません。ですが、少なくとも皆さんが今よりマシな生活を送れるようにはできます」
私は自信を持って言い放った。そして、一つの提案をする。
「私に協力してください。そうすれば、毎日温かい食事と安全な寝床を保証します。まずは、この谷を人が住める場所に変えることから始めましょう」
最初は半信半疑だった彼らも、飢えと寒さには抗えなかった。私が提供する食事、私が設計した頑丈な住居、そして何より魔獣を一人で倒す圧倒的な実力が、彼らの心を少しずつ動かしていった。
こうして、私とセバスたち、そして元々の谷の住人たちによる、本格的な領地開拓が始まった。
まず最初に取り組んだのは、安全な居住区の拡大と農地の開墾だ。地形を読み、最も日当たりが良く水を引きやすい場所を選んで開墾作業を進める。クワやスキといった道具は、街で買い揃えたものだ。
しかし、問題は土壌だった。ゴツゴツとした岩が多く、土地も痩せている。普通の作物を育てても、まともな収穫は見込めないだろう。
『こういう時は、土壌改良からだな。手間はかかるが、やるしかない』
私は皆に指示を出し、森から腐葉土をかき集めさせ、家畜のフンと混ぜて堆肥を作った。さらに、この寒冷な気候と痩せた土地でも育ちやすい作物を、前世の知識から選んだ。ジャガイモに似た根菜『ロックポテト』、蕎麦に似た穀物『グレイウィート』。これらは栄養価も高く、保存も効く。
開拓作業は困難を極めたが、私は率先して働いた。ドレスを脱ぎ捨て動きやすい作業着に着替えると、男たちに混じってクワを振るい、石を運んだ。その姿に、最初は遠巻きに見ていた者たちも次第に手を貸してくれるようになった。
「お嬢様! そのような汚れ仕事は我々が!」
セバスが慌てて止めに来るが、私は汗を拭いながら笑った。
「いいのよ、セバス。じっとしているのは性に合わないの。それに、領主自ら汗を流すからこそ、皆もついてきてくれるのでしょう?」
私の言葉に、周りで作業していた男たちの顔つきが変わるのが分かった。彼らは今まで、貴族というものを搾取するだけの存在だと思っていたのだろう。だが、私という前例のない領主の姿に、戸惑いと、そして微かな期待を抱き始めていた。
農作業と並行して、私はポーションの製造にも取り掛かった。谷に自生する月光草と清らかな泉の水を組み合わせ、独自の製法で精製する。出来上がったのは、市販のものより遥かに純度と効果が高い、特製の回復薬だった。
『これで安定した収入源が確保できる。このポーションをブランド化して、交易ルートを開拓すれば……』
私の頭の中では、すでにこの谷を中心とした壮大な経済圏の構想が練られていた。王都を追放された悪役令嬢が、辺境の地で一大商圏を築き上げる。面白いじゃないか。面倒事は嫌いだが、自分の城を自分の手で作り上げるという作業は、存外に性に合っていた。
ある日のこと、農地の見回りに出ていると、アンナが慌てた様子で走ってきた。
「お嬢様! 大変です! 高熱を出して倒れた者が!」
駆けつけると、簡素な小屋のベッドに幼い少年が苦しそうに横たわっていた。顔は真っ赤に火照り、呼吸も荒い。額に手を当てると火のように熱かった。
「医者はいないのか!?」
「この谷には……薬師の一人もおりません」
母親らしき女性が涙ながらに訴える。このままでは、この子は朝まで持たないかもしれない。
『……仕方ない』
私は一つため息をつくと、懐から小さな革袋を取り出した。中には、私が密かに調合していた数種類の薬草が入っている。解熱作用のある『氷結草』、炎症を抑える『清流苔』、そして滋養強壮効果のある『太陽の実』の粉末。
「アンナ、お湯と杯を持ってきて。セバスは、この子の体を冷たい布で拭いてあげて」
的確に指示を出し、私は薬草を手早く調合していく。その手際は熟練の薬師のようだった。出来上がった緑色の薬湯を、少年の口にゆっくりと流し込む。
周囲の皆が、固唾をのんで見守っている。数時間後、少年の荒い息が少しずつ穏やかな寝息に変わっていった。真っ赤だった顔色も平常に戻りつつある。
「熱が……下がった……」
母親が、信じられないといった様子で呟き、その場に泣き崩れた。彼女は私に向かって何度も何度も頭を下げた。
「ありがとうございます……! 領主様……! この御恩は、一生忘れません!」
この一件が、谷の住人たちの心を完全に掴む決定打となった。彼らはもう私を「お嬢様」とは呼ばず、心からの敬意を込めて「領主様」と呼ぶようになった。
面倒なことだとは思う。人の命を預かるというのは重い責任が伴う。だが、感謝されて悪い気はしなかった。裏社会では、誰かを救うことなど一度もなかったのだから。
『まあ、悪くない』
夜、完成したばかりの見張り台の上で、私は一人、谷を見下ろしていた。開拓された農地、灯りがともる家々、そして人々の笑い声。数週間前まで不毛の地だった場所が、少しずつだが、確かに人の営みが感じられる場所に変わりつつある。
ここが、私の国。私の城だ。誰にも邪魔されず、自分の思い通りに作り上げることができる、私の楽園。
「ふふっ」
思わず笑みがこぼれた。前世でも、今世の王都でも、一度も感じたことのない充実感が胸に満ちてくる。追放されて、本当によかった。心からそう思える夜だった。




