番外編「氷帝の独白」
俺の人生は、常に氷の上を歩くようなものだった。
アストレア帝国の皇帝、ジークハルト・フォン・アストレア。その名の下に俺は幼い頃から感情を殺し、ただ帝国の利益のためだけに生きてきた。
政敵を蹴落とし、裏切り者を粛清する。血も涙もない、冷徹非情な氷の皇帝。それが俺に与えられた役割であり、俺自身が選んだ道だった。
心から笑うことも、誰かを信じることも、温かい食事を摂ることすら忘れて久しかった。俺の周りにあるのは権力に媚びる者たちの上辺だけの笑顔と、俺の命を狙う者たちの見えない刃だけ。
退屈で、色のない、モノクロの世界。それが俺の全てだった。
あの日、あの北の果ての忘れられた谷で、彼女に出会うまでは。
イザベラ・フォン・ヴァレンシュタイン。
エルスリード王国から追放された悪役令嬢。最初の興味は、彼女が作り出したという規格外の特産品に対してだった。だが、実際に彼女に会った瞬間、俺の世界は色づき始めた。
彼女は、俺が今まで出会ったどの女とも違っていた。
その瞳は凍てつく冬の湖のように、静かで澄み切っていた。俺の皇帝という肩書に臆することも、媚びることもない。それどころか、俺の素性を見抜きながらもただの「面倒な男」として、対等に渡り合おうとしてきた。
彼女の手で蘇った谷は活気に満ち、人々は心からの笑顔で彼女を慕っていた。彼女が振る舞う料理は、驚くほど温かい味がした。
彼女は、俺がとうの昔に失ってしまった、全てを持っていた。
欲しい、と思った。
彼女の、その類稀なる才能も、彼女が築き上げた豊かな谷も。
だが、何よりも欲しかったのは彼女自身だった。
彼女の、時折見せる無防備な笑顔。面倒くさそうにため息をつきながらも、決して民を見捨てないその優しさ。そして、俺の孤独を見抜いたかのように、そっと寄り添ってくれるその温かさ。
俺の猛烈なアプローチを、彼女は迷惑そうに、しかし決して本気では拒絶しなかった。そのことが、俺に今まで感じたことのない希望を与えてくれた。
彼女を、俺のものにしたい。俺の、冷たく色のない世界を、彼女という太陽で照らしてほしい。
初めて、心からそう願った。
エルスリードの愚かな元王太子が彼女に刃を向けた時、俺は生まれて初めて他人のために本気で怒りを感じた。俺が、この手で全てを排除してやろうと思った。
だが、彼女は俺の助けなど必要としなかった。彼女は己の力だけで全ての困難を乗り越え、完璧な勝利を収めてみせた。
その姿は、あまりにも気高く、美しかった。
ああ、やはり、この女しかいない。俺の、隣に立つに相応しいのは。
王都で、彼女が俺のプロポーズを受け入れてくれた時、俺の氷の世界は完全に溶け去った。彼女の唇は、春の日差しのように温かかった。
イザベラ。俺の太陽。
君と出会って、俺は初めて生きていることを実感できた。
これからも、君は俺に「面倒だ」とため息をつき続けるのだろう。だが、それでいい。君が、俺の隣でそうして笑ってくれるなら、俺はどんなことでもしよう。
この命に代えても、君と君が愛する全てを守り抜いてみせる。
それが、氷の皇帝の名を捨て、ただ一人の女を愛するジークハルトという男の、唯一にして最大の誓いだ。




