第12話「最後の断罪、返礼の舞台」
雪だった。まだ冬には早いはずなのに、忘れられた谷へと続く山道には季節外れの雪が降り積もり始めていた。アラン率いるわずかな手勢は、慣れない寒さと吹雪の中でみるみるうちに体力を奪われていった。
「くそっ……! なぜ、こんな時期に雪が……!」
アランは、馬上で悪態をついた。彼の隣でリリアナは寒さに震え、青い顔をしている。彼女の聖なる力は、この異常気象の前には何の役にも立たなかった。
この雪は、偶然ではない。私が、谷の周辺にいる雪の精霊と契約し、降らせてもらったものだ。精霊たちはこの谷の豊かな魔力に惹かれて集まってきていた。彼らに少しばかりの魔力と、『北の涙』を貢物として捧げたところ、喜んで協力してくれたのだ。
『地の利はこちらにある。焦る必要はない』
私は谷を見下ろす岩山の上から黒装束に身を包み、吹雪の中を進むアランたちの姿を冷静に観察していた。その数は、もはや軍と呼ぶのもおこがましい、百人にも満たない疲弊した集団であった。
「イザベラ! 出てこい、イザベラ・フォン・ヴァレンシュタイン!」
谷の入り口にたどり着いたアランが、なりふり構わず叫んだ。その声は吹雪にかき消され、虚しく響くだけだった。
私が合図を送ると、谷の入り口を塞いでいた巨大な岩が、ゴゴゴという音を立てて動いた。その奥から現れたのは、武装した谷の民たちだった。先頭にはゴードンと、エルスリード王国の騎士の鎧を脱ぎ捨てたカイが立っている。
「アラン殿下。いや、アラン。ここから先へは一歩も通さん」
カイが、静かに、しかし力強い声で言い放った。彼の腰には、かつての騎士団の剣ではなく私が贈った『魔鋼』の剣が差されている。
「カイ! 貴様、裏切ったのか!」
「裏切ったのは、あなたの方だ。国を、民を、そして……何よりも大切なものを見誤った」
カイの言葉に、アランは逆上し剣を抜いた。
「ええい、問答無用! かかれ! あの女を捕らえ、この谷の財宝を奪い尽くせ!」
アランの号令で、傭兵たちが雄叫びを上げて突撃してくる。だが、彼らはすぐに自分たちが足を踏み入れた場所が、ただの谷ではないことを思い知らされた。
地面に巧妙に隠されていた落とし穴が開き、何人もの兵士が悲鳴と共に落ちていく。木々の間からは麻痺毒を塗った矢が正確に傭兵たちの手足を射抜き、次々と戦闘不能にしていく。
これらは全て、私が前世の知識を活かして仕掛けたトラップだ。ゲリラ戦において、地の利を活かした罠ほど効果的なものはない。
「な、何だこれは……!?」
アランは混乱の中で立ち尽くす。その時、彼の頭上から一つの影が舞い降りた。
私だ。
音もなくアランの背後に着地した私を見て、彼も、そしてリリアナも息をのんだ。
「お久しぶりですわね、アラン殿下。リリアナ様。ようこそ、私の谷へ」
私は、顔を覆っていた布を外し、にこりと微笑んでみせた。だが、その目は全く笑っていない。
「イザ……ベラ……!?」
アランは、信じられないものを見るような目で私を見つめた。彼の知る、無表情で従順な令嬢はどこにもいなかった。そこにいたのは、絶対的な強者の風格を漂わせる見知らぬ女だった。
「な、なぜお前がそんな格好を……」
「これが、本当の私ですので」
私は、腰の短剣に手をかけながらゆっくりと彼らに近づいていく。
「さて。あなた方は、私の大切な場所に土足で踏み込み、私の大切な民を傷つけようとしました。この落とし前、どうつけてくださるおつもりかしら?」
私の言葉に、リリアナが悲鳴のような声を上げた。
「いやっ! 来ないで! この悪魔!」
彼女は震える手で、胸元から小さな魔道具を取り出した。それは、聖なる力を増幅させるための神殿から与えられたお守りだった。
「聖なる光よ! この邪悪なる者を打ち払いたまえ!」
リリアナが叫ぶと、お守りからか弱々しい光が放たれた。だが、その光は私に届く前にふっと掻き消えてしまった。
「な……なぜ……?」
「無駄ですよ、リリアナ様。あなたの力は、人々の信仰心があって初めて成り立つもの。今のあなたを聖女だと信じている者など、どこにもいませんから」
私は、冷たく事実を突きつけた。絶望に顔を歪めるリリアナ。その隣で、アランは最後のプライドを振り絞るかのように剣を構え直した。
「うるさい! お前さえ……お前さえいなければ、全てうまくいっていたんだ!」
彼は、狂乱したように私に斬りかかってきた。だが、その剣筋はあまりにも素人じみていた。
私は、彼の剣を短剣一本で軽々と受け止めると、もう一本の短剣の柄で彼の鳩尾を正確に打ち抜いた。
「ぐふっ……!」
アランは、カエルのような呻き声を上げてその場に崩れ落ちた。私は、倒れた彼を見下ろし静かに告げた。
「いいえ、アラン殿下。あなたは、最初から何もかも間違っていたのです。人の価値をその肩書や見た目だけで判断し、本質を見ようとしなかった。その愚かさが、あなた自身とあなたの国を滅ぼしたのですよ」
これが、私の『ざまぁ』だ。暴力で屈服させるのではない。相手が、自らの過ちと愚かさを心の底から理解させ、絶望の淵に叩き落とす。
「さようなら、殿下。二度と、私の前に現れないでください」
私は、彼らに背を向けた。残されたアランとリリアナはカイたちによって捕らえられ、後日、王都からやってきたヴァレンシュタイン公爵率いる貴族たちに引き渡された。彼らのその後がどうなったのか、私は知らないし興味もなかった。
吹雪が、いつの間にか止んでいた。空には美しい夕焼けが広がっている。
私は、集まってきた領民たちに向かって高らかに宣言した。
「皆さん、私たちの勝利です! もう、誰も私たちの平穏を脅かす者はいません!」
おおーっ!という歓声が、谷中に響き渡った。皆が私の名前を呼び、その勝利を讃えてくれている。
面倒な戦いは終わった。だが、不思議と疲れてはいなかった。むしろ、胸の中には晴れやかな達成感が満ちていた。
その時、背後から大きな腕が私を優しく抱きしめた。
「見事だった、イザベラ。さすがは、私が見込んだ女だ」
ジークハルトの声だった。彼は、いつの間にか私の隣に来ていた。
「……見ていたのですか」
「ああ。君が、誰の助けも借りずに己の力で全てを終わらせるのを、信じて見ていた」
彼の言葉に、なぜか胸が熱くなる。私は、彼の腕の中でただ黙って、領民たちの歓声を聞いていた。
ようやく、手に入れられそうだ。私がずっと夢見ていた、静かで穏やかなスローライフが。愛する者たちに囲まれた、最高の楽園での毎日が。




