第10話「三つ巴、恋の戦い」
「エルスリード王国が、国境に軍を集結させている……」
ジークハルトから告げられた衝撃的な事実に、谷の幹部たちが集まる会議室は緊張に包まれた。ゴードンはこぶしを握りしめ、セバスは厳しい表情で黙り込んでいる。
「奴ら、本気でこの谷を潰す気だ……!」
「なんてこった。俺たちの暮らしが、また脅かされるってのか」
領民の代表者たちが不安の声を上げる。無理もない。相手は一国の正規軍。いくら私たちの谷が豊かになり防衛設備を整えたとはいえ、まともに戦えば勝ち目はない。
だが、私は冷静だった。むしろ、頭の中は驚くほど冴えわたっている。
「ジークハルト陛下。あなたの帝国の軍は、どう動くのですか?」
私は、隣に座る皇帝に視線を向けた。彼は不敵な笑みを浮かべて答える。
「当然、国境を守るという名目でこちらも軍を出す。エルスリードの雑兵どもが、君の谷に指一本でも触れようものなら、即座に叩き潰してやろう」
その言葉は心強いが、素直に喜ぶことはできなかった。帝国軍と王国軍が衝突すれば、それは全面戦争に発展しかねない。そして、この谷がその最初の戦場となる。それは絶対に避けなければならない事態だ。
『面倒だ。本当に面倒くさい。なぜ私は、こんな国家レベルのいざこざに巻き込まれなければならないんだ』
私が頭を抱えていると、会議室の扉が勢いよく開かれた。
「失礼する!」
入ってきたのは、エルスリード王国の騎士団の鎧をまとったカイ・アーデルハイトだった。彼は単身で、帝国の護衛兵たちが固める谷に乗り込んできたのだ。その瞳には悲壮な決意が宿っていた。
「カイ殿! あなた、どうやってここに……」
「騎士団長の職を辞してきた。もはや、私はただのカイ・アーデルハイトだ。イザベラ様、あなたにお伝えしたいことがある」
彼の突然の登場に、誰もが言葉を失う。ジークハルトだけが、面白くなさそうに眉をひそめ、冷たい視線をカイに向けていた。
「アラン殿下は正気を失っておられる。聖女リリアナの力が偽りであったことが露見し始め、民からの支持を失いつつある焦りから、あなたの功績を力ずくで奪おうとなさっているのだ。この軍の動きも、その一環にすぎない」
「……知っています。それで、元騎士団長殿は私に何を伝えに?」
「私は、あなたと共に戦いたい。いや、あなたの力になりたい。この谷を、あなたの民を守るための、剣の一本として使ってほしい」
カイは、その場で膝をつき私に深く頭を下げた。彼の言葉は本心からのものだと分かった。学園時代から、彼はいつも私のことを見ていた。私がアランの隣でどれだけ孤独だったか、彼だけは気づいていたのかもしれない。
だが、彼の申し出は事態をさらにややこしくするだけだった。
「ほう。面白いことを言うな、エルスリードの負け犬が」
今まで黙っていたジークハルトが、嘲るような声で言った。
「この女は、私のものだ。貴様のような男の力など必要ない」
「黙れ、帝国皇帝! あなたが彼女に近づくのも、その類稀なる才覚とこの谷の富が目当てだろう! その邪な野心から彼女を守るのも、私の役目だ!」
カイが、ジークハルトに向かって吠える。一触即発。二人の男の間で、火花が散っているのが見えるようだった。片や、私を溺愛する冷徹皇帝。片や、私に忠誠を誓う元騎士団長。
そして、国境の向こうには私に異常な執着を燃やす、元婚約者の王太子。
『……何だこの状況は』
私は、こめかみを押さえた。私が望んでいたのは静かで穏やかなスローライフだったはずだ。なのに気づけば、三国を巻き込む巨大な渦の中心にいる。しかも、その発端が私を巡る男たちの恋愛感情なのだから、たまったものではない。
「あのう、お二人とも、少し落ち着いていただけませんか?」
私が割って入ろうとするが、二人は完全にヒートアップしており私の声など聞こえていないようだった。
「イザベラは、私の后として迎える。それが彼女にとって最も幸福な道だ」
「イザベラ様が望むのは、帝国の鳥かごの中ではない! この谷で、自由に生きることだ! 私は、そのための盾となる!」
「盾だと? その細腕で、何が守れる」
「貴様の傲慢な鼻を、へし折ってやろうか!」
言い争いは、もはや子供の喧嘩レベルだ。周りにいるセバスやゴードンたちは、どうしていいか分からずオロオロしている。
私は、深呼吸を一つすると、テーブルを力強く叩いた。
バンッ!
大きな音に、言い争っていた二人も、他の者たちも、びくりとして私を見た。
「いい加減にしてください!」
私は、できるだけ冷静に、しかし有無を言わせぬ覇気を込めて言い放った。
「ここは、私の領地です。痴話喧嘩をする場所ではありません。そして、私の進退は私が決めます。誰かの所有物になるつもりも、誰かに守ってもらうだけの弱い女になるつもりもありません」
私の言葉に、ジークハルトもカイも、はっとしたように口をつぐんだ。
「軍の件は、憂慮すべき事態です。ですが、戦争は避けなければなりません。陛下、あなたの軍は決して国境線を越えないと約束してください。カイ殿、あなたの覚悟は分かりました。ですが、今は軽率な行動は慎んでください」
私は、二人を順番に見据えて釘を刺す。そして、続けた。
「エルスリード王国との問題は、私が、私のやり方で解決します」
その宣言に、その場にいた誰もが息をのんだ。
「領主様、まさか……」
ゴードンが、心配そうな声を出す。
「ええ。少し、お灸を据えて差し上げるだけですわ」
私は、にっこりと微笑んでみせた。その笑みが誰よりも恐ろしいものであることに、ジークハルトとカイは気づいたかもしれない。
面倒だ。本当に、心の底から面倒くさい。だが、ここまで派手に事を荒立ててくれたのだ。ただで済ますつもりはない。
アラン・フォン・エルスリード。リリアナ・オーウェン。あなたたちが蒔いた種は、あなたたち自身で刈り取っていただく。
私の、静かで、そして徹底的な「ざまぁ」の舞台は、整った。




