住処の中の父
父はいつもソファで本を読んでいた。
私が話しかけると、いつも本から顔を上げて、フッとだけ笑って私の話に付き合ってくれた。そして私が去ると、父はまた無表情に戻り、本に顔を落とす。
宿題を教えて欲しいと言うと、本のページ側をテーブルの上にして、私に勉強を教えてくれた。
そして、宿題を終えると、父はまた無表情の顔で本を読み出す。
私は無表情に戻る瞬間の父が、どこか自分の住処に戻って行く様で、小さい頃から寂しい気持ちになった。
でも、どんなに夢中に読んでいる最中に話しかけても、いつもフッとだけ笑い、顔を上げる。決して大笑いはしない。「楽しくないのかな?」って不安になる時もあったけど、なんだかんだで最後まで付き合ってくれる。
自分だけの住処があっても、私にとっては優しい父だった。
仕事からいつも定時で帰宅して、家族と無言で夕飯を食べて、お風呂に入って本を読む。
それが私の知っている父。
それ以外の父の顔なんて知らないし、「あった」と思いたくもない。
晋作君に家まで送って貰ってから、父の故郷であるN市で三十五年以上前に起きた交通死亡事故の記事をネットで検索した。
時期的にインターネットが家庭に普及し始めた頃らしいので、ネットニュースはギリギリ存在していた筈だ。
何とか検索ワードを試行錯誤する事で、それらしきニュースが三つ出て来た。しかし、大昔なので画像などは一切ない、SNSも無かった時代なので、感情の篭っていない寂しいテキスト文が数行だけだった。
とりあえず、その数行の候補の記事を自分のスマホの中に保存した。
その後、会社に子供は無事だった事と「今週いっぱいはお休みする」と連絡した。色々な事件が立て続けに起きたので「ゆっくりしな」と簡単に許可が得た。これで来週の月曜日までは自由の身になった。
私は簡単な身支度を整え、翌朝、父が住んでいたN市へ一人で向かった。
今回の両親の交換殺人。母の話を聞いた時は、二人とも両方とも同じ交換殺人だと思っていた。でも、よくよく考えると父と母は厳密には違う。
母は過去に自分を虐めていた同級生の殺害を依頼した。それは自分の身にまたあの頃の地獄が戻ってくると言う恐怖からだ。
だから、お母さんが「殺して良かった」と自身の殺人を肯定するのは、倫理観を度外視すれば、筋は通っている。
でも、お父さんは違う。
お父さんにとって殺人と言うモノは最も愚かな行為だったんじゃないか?
お父さんの愛する妻と子供を奪ったのは紛れもない殺人だったのだ。
その男を殺し、恨みを晴らしたとしても、お父さんが「殺して良かった」なんて言うのはおかしい。
それは大事な人を自分から奪った一番愚かな行為を肯定する事になるからだ。
私の知っている父なら、たとえ復讐の為とはいえ、殺人に手を染めた事を後悔しているはずだ。
特急と在来線を乗り継ぎ、駅前にビジネスホテルがある駅で下車し、まずチェックインをして荷物を置いた。
その後、駅から出ている市営バスに乗り、N市の中心部を目指す。
父の故郷だけど、初めて訪れる場所だ。
私の知る限り、父がN市を訪れた事はないし、父の口から名前が出て来た事もない。
「本当にここにお父さん、住んでたんだろうか?」と全く想像すら湧かない。
まず、市営の図書館に行き、過去の新聞記事から、父の元奥さんの事故の記事を探す事にした。
見たくはない父の姿に近付いていく恐怖と、自分の知っている父でいて欲しいという勇気があいまり、図書館の最寄りでバスを降りた時、心臓の鼓動が激しく高鳴った。
自分でも何をしているのか良く分からない。
もう四十年近くも前の事だ。
当の父も、運転していた男も、父の元奥さんも子供も、みんな死んでいる。
ネットの膨大な情報の宇宙の中で、たった数行しか無かった地球上の出来事相手に、私なんかが何かを掴めるのだろうか?
でも、今やらないと、一生この気持ち悪いモヤモヤを抱えたまま私は生きていく事になる。
父の真実の顔に靄がかかったまま生きて、父との思い出が味気ないものに変わってしまうのはどうしても嫌だ。
その時、私の頭にフッと笑顔から無表情に戻る時の父の顔が浮かんだ。
私がこれから向かうのか、父が長年たった一人で隠していた住処の中なのかも知れない。
図書館の司書の方に、調べて来た三つの交通事故の日付の前後一週間ほどの地元の新聞をまとめて出して貰った。
しばらくすると四十冊近い新聞の束が私の目の前にズドンと置かれた。首をコキコキされている司書の方にお礼を言い、一ページづつ目を通していく。
最初の事件の人は「ヒカリ」と言う名前だったが男性の方だった。そして二人目は女性であったが、新聞記事に書かれていた当時の年齢が少し上の人だった。
「あっ」
そして、三人目の事故死の記事を見た瞬間、私のページを捲る手はピタッ止まった。
『一ノ瀬佳奈さん(28)』
地元版には、ご丁寧にも顔写真まで載せられていた。センターで分けたスラっと長い髪をした綺麗な女性の笑顔。
「……」
一目で分かった。
お母さんには悪いけど、知的な雰囲気で頭も良さそう、お父さんの隣にいる姿がシックリきた。
そして、彼女の横を歩く私の頭の中のお父さんは笑っていた。
私やお母さんに見せていたフッと笑うクールな笑みではなく、歯を見せてお腹から声を出して笑っている父がそこにはいた。
私の中に流れているお父さんの遺伝子が反応したみたいに、彼女の写真を見た瞬間、全てがピタリと一致した。
「この人だ」
きっと、この人が神様がお父さんに与えた運命の人だったんだ。
そう思った瞬間、笑顔の父の姿と同時に、火葬場での母の寂しそうな後ろ姿が私の脳裏を再び過ぎった。
「お母さん。知ってたのかな、この人の事?」
記事の内容を読んでいくと、お腹に子供がいた事も書かれており、直感だけでなく間違い無いと確信できた。
「あっ」
私は彼女の事故の記事の下の方のインクが少し滲んでいるのに気付いた。誰かが何か水気のモノを落とした。でも、図書館は水分の持ち込みも、飲食も禁止だ。
「涙かな」
その掠れたインクに私のもう半分の遺伝子が反応するみたいに、この記事を読んでいる母の姿が想像できた。
想像だけど、なぜか凄くしっくり来る。
この記事を読んでいる時、お母さんも私と同じ気持ちだったのかもしれない。
ただ、凄く寂しい。
お父さんの絶対に足を踏み入れられない領域の外で、ただポツンと立っているしかない私とお母さん。
私達の視線の先には、本来の運命の女性とその子供と手を繋ぎ、私たちに見せない笑顔で笑っている父の姿がある。
きっと、それが本来、父が歩む筈だった人生なんだ。
お父さんが失った幸せを私とお母さんで、どれだけ取り戻せたんだろう?
火葬場の寂しそうな母の背中。
私もお母さんと同じ、全然自信無いよ。
自分がいなかった世界の方が、きっとお父さんは幸せだった。そう思ったら、涙が新聞に落ちそうになり、咄嗟に顔を上げた。
「お父さんもお母さんも、凄く辛かったんだ」
お父さんは一人だけの住処で、いつもその寂しさと向き合っていたのか。
ここに来て本当に良かったんだろうか?
余計に父が遠くに感じてしまっただけなんじゃないか?
図書館のトイレの個室で考え込んでしまった。
お父さん、天国で奥さんに会えたかな?
なんか、お父さんの娘って名乗る自信、無くなっちゃったよ。
「もう、帰ろうか」
──殺して、良かった──
父の声を思い出し、私はハッと顔を上げた。
感情的に追い詰められてて、大事な事を忘れていた。
父が幸せだったなら、尚のこと「殺して良かった」なんて言うはずがない。
「じゃ、なんでお父さん、そんな事言った……」
まだ、父の素顔に辿り着いてない。
私は図書館を出て、新聞記事に載っていた事故現場に足を運ぶ事にした。なんでも良い。小さな手がかりでも、父の面影がどこかに無いか、探す事に決めた。
事故現場は大きな国道にぶつかる二車線の比較的細い道。周りは田畑が多く視界はいい。ただ、道路の舗装が今でもされておらず、歩行者が歩くスペースはない。その割に通行している車は比較的スピードを出している。
ここから大きな道に出ようとした一ノ瀬佳奈さんは、国道から猛スピードで入って来た車に轢かれた。
事故が起きた現場には流石にもう花などは置かれていない。もう四十年近く前の事件だ。
今、私の視界に当時を知っている物は入っているのだろうか?
私は国道から、一ノ瀬佳奈さんが歩いて来た細い道に入り、しばらく散歩した。
事故がある前は、お父さんもこの道を歩いていたのかも知れない。
途中、向こうから来るお年寄りの女性とすれ違う時、どちらかが道路に出ないといけない程、歩道が細い。
すれ違うお婆ちゃんが私のお腹に気付いて、道を譲ってくれた。私はペコっと会釈をして、彼女の隣を通り過ぎた。
え
すれ違う時、か細い声が聞こえたような気がした。
気にせずに私が歩を進めると、
「あのっ!」
すれ違ったお婆ちゃんの声に私は振り返った。
「あの。もし間違えてたら、悪いんですけど。もしかして、一ノ瀬浩さんの血縁の方じゃないですか?」
「え?」
父の名前を呼ばれ、私は体をそちら側に向けた。
「父を、知ってるんですか?」
そう言うとお婆ちゃんは「やっぱり!」と言いながら、私の方に駆け寄ってきた。
「やっぱりそうだ! もしかして、浩さんの娘さんか! もう、目と鼻が浩さんそっくりだから、もしかしてって思ったら……」
捲し立てて来たお婆ちゃんの喋り声が「あっ」と突然止まった。
「そうか……アンタ、あの時の娘さんか!」
「え」
私の体に稲妻が走った。
この人、私の事を知ってる。
「あの時、って」
「あ、そっか。アンタは知らんのか」
「あの、なんで私を知ってるんですか?」
気付いたら、私はお婆ちゃんの体にぶつかる勢いで歩み寄っていた。
「アンタがな、お腹の中にいる時、お母さん、ここに来たんよ。私の妹の命日に」
「えっ!」
「その時、お母さんが『浩さんの赤ん坊だ』って言っててな。本当に生まれてたんだな!」
その一ノ瀬佳奈さんのお姉さんらしき女性は、興奮気味に私に抱きついて来た。
「妹が死んだ時、浩さん、本当に抜け殻みたいになっててな。『これからどう生きてくんだろう』って、みんな心配してたんよ!」
お姉さんは「元気に育って、まぁ」と私を隅々までを観察するように全身を見回した。そして、私のお腹を見て顔を上げた。
「子供かい?」
「あ、はい。結婚するんです、今度」
「じゃあ、浩さんの孫かい?」
「あ、はい」
「そっか。元気な子を育てて、立ち直ったんだな、あの人!」
「立ち直った?」
私の心にその言葉が引っかかった。
「あの人な。妹とお腹の娘が一緒に死んでな。しばらく、その事を受け入れられなくてな。『佳奈は死んでない』って塞ぎ込んじゃってな。仕事も行かんし、お墓参りも行かんしで……元々、佳奈がいないと何もできない弱い人だったけどなぁ」
「お父さん、が、ですか?」
そんな情けない父、想像もできなかった。
父はいつも寡黙で、どんな事があっても受け入れる強い心を持った人……それしか、浮かばない。
その時、風が吹いて、近くの茂みの草木がサーッと音を立てた。
人を殺して良かった
「えっ」
その草木の音に紛れて、お父さんの声がした。
「どうしたん?」
「今、お父さんの声が、したような」
「なんや、それ?」
「父は亡くなったんです、この前」
「あ、そうだったんかぁ!」
「屋根を修理しようとして、落ちちゃって」
「そっか」
お姉さんはすぐにふっと笑った。
「なら、お父さんがアンタの事、見てるんちゃうか?」
「え?」
「娘やろ? 世界でアンタ一人しかおらんやろ。大事だから、見守っとるんよ」
「私を、ですか?」
優しい風が私の髪を揺らして行った。
「でも、浩さん、自殺とかじゃないんやな。ちゃんと生きたんやな。結婚して、孫までできて、あんたのお陰やわ!」
お姉さんは「なぁ!」と私の肩を強く叩いた。
ちゃんと生きたんやな
人を殺して、良かった
お父さん、もしかして、佳奈さんの事故の事を受け入れようとしてたの? 運命から外れた人生になっても生きて行こうって、決意したの?
だから、一番言いたくない言葉を頑張って口したの?
お父さんの一人だけの住処にいたのは、本当は凄く弱いのに、少しでも強くなろうともがいているお父さん。
いつも、穴が開きそうなくらい寂しいのに、私達と生きていこうと頑張ってた人。
「あの!」
「何、急に大声で、どうした?」
「私、お父さんの事、好きなんです」
「そりゃ、娘なんだから、当たり前やろ」
「お父さん、笑ったりしなくて、ムスッとしてる事多いけど、優しくて、大好きだった」
お葬式で泣けなかった涙が、今頃、大きな粒になって溢れて来た。
「良かったな。お父さんもアンタのこと好きだったんやな。好きで他の好きは埋めらんけど、アンタがいたから生きてられたんやって」
お父さん、私が知らない所でもがいて、必死で生きていく為に息をしてたんだ。
「お父さんの娘で良かったです」
あんまり笑わなくて、ムスッとしてて、人殺し、でも、私は大好きだよ。誰がなんと言ったって、私はお父さんの娘で良かった。
ホテルに戻ると、ロビーの所に晋作君が立っていた。
「急に車で迎えに来いって、どうしたの?」
晋作君は不思議そうに普通のビジネスホテルのロビーを見渡した。
「ここで何してたの?」
私は返事もせず、晋作君の胸に抱きついた。
「え、何?」
「……幸せになろ」
私がそう言うと「うん」と晋作君の腕が強く私を押し付けた。
お父さん、私、幸せになるよ。
お父さんが生きた人生の続きで。