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信号は守って

 忌引休暇を終えた私は心の糸が複雑に絡まったまま仕事に復帰する事となった。


 しかし、ここ数日の心労のせいであまり眠れていなかった私は、会社の階段の途中でクラっとなり、そのまま踊り場に落下してしまった。

 そんな高い段数から落ちた訳ではないので、私自身は尻餅をついただけだった。

 しかし、身重である私を気遣ってくれた会社のオバさん達が「念の為」と言って病院で検査をして来るように、とタクシーを手配してくれた。


 と、言うか誰も口にはしなかったが、朝の化粧のノリからして顔色があまり良くなったのだと思う。


 掛かりつけの産婦人科で検査をしてもらい、お腹の子供には何の異常もなく無事であった。

 先生から話を聞いていると、突然、診察室のドアが勢いよく開いた。


「すいません! 一ノ瀬さゆりはこちらに居ますでしょうか!」


 声にビクッと振り返ると、息を切らした晋作君が入って来た。


 タクシーで運ばれて来た私を見て、気を利かせた病院のスタッフさんが父親である彼にも連絡を入れたようだ。


 晋作君は私の隣にある丸椅子に腰掛け、二人並んで先生の話を聞いた。その間、晋作君は一度も私の方を見なかった。

 私は俯きながら、何度か彼をチラッと見た。

 夜はまだ肌寒い季節だが、スーツの上にチェスターコートを羽織ったままの彼の首筋を汗が伝って落ちて行った。呼吸がまだ整っていない彼の胸の辺りは何度も膨らんだり縮んだりを繰り返している。


 生きてる。


 彼の横で、当たり前の事を噛み締めた。

 一昨日、電話で別れを告げた事で、彼はこの世からいなくなったと錯覚していた私は、それが衝撃的に感じられた。


──殺して良かった──


 その瞬間、一昨日、母が言っていた父の事を思い出してハッとした。

 二日経って改めて考えてみると、父がそんな事を言っている姿、全く想像できなかった。


 なんか……少し引っかかる言葉だと思った。でも、何が引っ掛かるのかは、よく分からない。

 

 でも、凄く大事な事な気がする。


 診察を終えると、私と晋作君は二人で産婦人科の外に出た。どちらが「行こ」とも言わず、私達は無言で歩き出した。

 一昨日、結婚できないと言ってスグにこのザマでは、どのツラ下げて彼の隣を歩けば良いのか分からず、晋作君が歩く三歩後ろを足音も立てずに着いて行った。


「ごめん」とすら言える立場にない。何故なら両親が人殺しだったのは確かな事実だったのだから。

 この気まずい空気を解決する方法どころか、議論を一歩前へ進める為の手札すら私は持ち合わせていなかった。


 空気中に鉛でも入っているのかと思うほど、足取りが重いまま彼の後ろを黙って着いて行った。


 ピリリリ


 その時、彼のポケットのスマホが鳴った。

 彼が電話に出ると、突然、仕事の時の言葉遣いに変化した。


「はい。お陰様で何ともありませんでした……大変ご心配をお掛けしました。明日、改めて謝罪に伺わせていただきます」


 彼は「失礼します」と言って、営業マンらしくお辞儀をしながら電話を切った。


「仕事の、電話?」

「急に病院から連絡が来たから、打ち合わせの途中だったけど、早退したから」

「あ、ごめん。その……病院の人に言うの忘れてて」


 そう言うと、彼がキリッと顔をこちらに向けて来た。真顔だったけど、怒りが頂点に達してるのが伝わって来て、私はビクッとなった。


「あの、ごめんなさい」


 ただ、彼が何に怒っているのかが分からず、当てずっぽうに謝罪の言葉を発するしかできなかった。


「君さ、勘違いしてない?」

「え?」


 彼に言われ、私はキョトンとしてしまった。思えば、私が別れを告げてから、彼が初めて発した言葉だ。


「君が結婚を破棄しようがさ、僕と君が赤の他人になっても、そのお腹の子は僕の子供なんだよ」


 私は「あっ」と声を漏らした。

 それを見て彼は呆れた様にため息を漏らした。


「自分のお腹にいるから、自分だけの子供だと思ってたの? 僕だってお腹の子供の親だってわかってる? あんな上の空の電話一本で『もうアナタはこの子の親じゃありません』なんて子供みたいな言い分、通る訳ないだろ!」


 道端で突然発した彼の大声に通りすがりのオバちゃんが目を見開いてこちらを見た。

 多分、それ以上に私は驚いていた。

 彼に真剣に怒られるのは、それが初めてだった。


「ごめん」


 私は子供の様に俯いて、か細い声で謝った。


「言っとくけど。僕はその子の親を降りる気は無いから。これだけはハッキリ言っておくよ」

 

 彼はそう言って、私の前をまた一人歩き出した。

 彼に言われたわけでは無いが、私も彼の三歩後ろを着いて行った。まるで明治時代の夫婦のようだ。


 スタスタと大通りを目指して歩いて行く彼の後ろ姿をボーっと見ていた。

 ふと「お父さんも、前の奥さんとこんな時期があったのかな」と思った。晋作君くらいの頃のお父さんは、前の奥さんのお腹にいる子供が生まれる事に胸を膨らませていたんだろう。


 さっき、診察室に血相を変えて入って来た彼。

 普段は少し事なかれ主義で、一度も怒る姿を見せた事がなかった彼の怒鳴り声。


 男の人って生き物には、まだまだ私の知らない部分がいくつもある。


 目の前の信号が赤で彼は立ち止まり、目の前を車の流れが通り過ぎて行く。


「晋作君」


 信号が青になっても彼は歩き出さず、私の呼ぶ声に振り返った。


「何?」

「あの……教えて欲しい、んだけど」


 きっと、晋作君は私が謝ると思ったんだろう。肩透かしを食らった私の返答に「え?」と顔を歪ませた。


「教えるって……何を?」

「あの、真剣に考えて」


 私が想像以上に興奮している事に彼は戸惑ったらしく、近寄って来る私にみじろいだ。


「もし……もし、だよ。私が今、横断歩道を渡って、そこを走ってくる車に轢かれたら、どう思う?」

「ちょっと、何、縁起でもない事言ってるの!」

「真剣に考えて、お願いだから!」


 私たちの目の前の横断歩道の信号が青から赤に変わった。


 晋作君はため息をついて、私から背を向けて、目の前の車道を行き交う車を眺めた。


「さゆりちゃんが渡る信号が青だったって事でいいの?」

「うん」

「それで、信号が赤なのに突っ込んで来た車に轢かれて……お腹の子供も、諸共ってこと?」

「うん」


 晋作君はしばらく無言でその場に突っ伏した。「し」っとだけ言って、大きく咳払いをした。


「二人とも……死んじゃうってこと?」

「……うん」


 私の返事を聞くと、晋作君は頭を掻きながら、再び無言になって流れて行く車を見ていた。


 その後、大きなため息が一つ聞こえた。


「多分。頭おかしくなって、運転手の人、殺しちゃうかもね」


 それを聞いた途端、呆然と道路を眺めている父の後ろ姿が頭に浮かんだ。


「どうやって?」

「知らないよ、そこまでは! 流石に良い加減に……」


 私は振り返った彼の体に無理やり抱き付いた。

 腕を強く体に巻き付ける程に、この数日の疲れが彼の皮膚の方へ溶けて行く様だった。


「今のでいいの?」

「うん。最高だった」


 彼は「そう」と心無く言った。何が私の琴線に触れたのかは分かってない様だったが、私の背中に腕を回してくれた。


「結婚破棄は、無しでいい?」

「一個、条件がある」

「まだあるの!」


 彼のぞんざいな声での「なに?」が背中に響いた。


「晋作君は信号を絶対に守って」

「は? 何それ?」

「たとえ、深夜に車が一台も通ってない二メートルくらいの狭い道路でも……絶対に信号は守って」

「……それでいいの?」

「うん」


 何度目だろう。

 私達の目の前の信号がまた赤から青に代わった。「いい加減、渡らない?」と彼が提案して来たので「うん」とそれに乗っかる事にした。


 それからはどっちが言うでもなく、私達はいつもの歩幅で帰り道を歩いた。


「さゆりちゃん、男の子と女の子どっちが良いとかあるの?」

「絶対、男の子」

「なんで?」

「私、鼻高いのコンプレックスだから。男の子なら鼻高いとイケメン率高いし」

「僕の遺伝子も入るって分かってる?」

「ああ!」

「また忘れてるよ」


 晋作君が呆れてため息をついた。


「ごめん。ごめん」


 私は笑いながら、彼に謝った。

 こんなに安心した人とのやり取り、いつぶりだろう。


──お父さんね。前の奥さんの事、愛してたの、ずっと─


「あ」


 安心したらお腹が空くように、私は父の言葉の違和感の正体に気付いた。

 スッと脳裏に蘇って来た火葬場での母の言葉に私は立ち止まった。


 隣にいる晋作君の「どうしたの?」という声が凄く遠くに感じた。


──殺して良かった──


 お父さんがそんな事、言う筈がない。


 だって、それを言ったら、前の奥さんが殺された事まで肯定する事になるのだから。


 もしかして、まだお父さんには私が知らない別の顔があるんじゃないだろうか?








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