同じ船の上
母はバスタオルを頭に巻いたまま私に近寄って来て、スマホを奪い取ろうとした。しかし、母が伸ばした手を私は無意識に払い除け、そのまま部屋の隅に逃げた。
「何をしてるの、返しなさい!」
昼間の穏やかな母とはかけ離れた怒号が部屋に響いた。
「お母さんのスマホの、このアプリは何?」
私はスマホの『same boat』のアイコンを母に見せつけた。母は驚いて目を見開いて、動きが一瞬止まった。
そして、私とスマホを何往復も交互に見た。私がこのアプリの事をどこまで知っているのかを考えている様子だった。
「私のスマホに何のアプリがあっても、アナタには関係ないでしょ!」
「お父さんのスマホにも同じアプリが入ってた!」
私は、あまり確信をつかない様に慎重に喋った。
お母さんの口から、私を納得させてくれる言い訳が出て来て、安心させてくれるのを待っていたのだ。
「あ、アナタには関係ないでしょ! いい加減に返して!」
しかし、母は私からスマホを奪い取ろうと、もう一度私に掴み掛かって来るだけだった。
「関係なくないよ!」
私は大声を吐くのと同時に、母の腕を振り払った。母の体は体勢が崩れてふらついた。
「これ、交換殺人をする人をマッチングする為のアプリなんでしょ?」
私の言葉に母は「えっ!」と言う顔で私を見た。
「それで、交換殺人をした相手とは、その後に結婚しないといけない。つまり、お父さんとお母さんのスマホにこれがあるって事は……」
母は何も言い返さず、お風呂上がりの紅潮は消え、蒼白した顔で呆然としていた。
「両親が人殺しの娘が、結婚なんかできるわけないじゃん」
私がお腹をさすると、母の顔も赤ん坊の方に向いた。
「この子だって、人殺しの娘の子供になるんだよ」
「違う!」
「じゃあ、殺してないの? 殺してないなら、なんでこのアプリが二人のスマホに入ってるの!」
「それは……」
母はそれ以上言葉が出てこず、私から目を逸らした。
「殺したの?」
母は無言で、俯いたまま、動かない。
「『殺してない』って、何で言ってくれないのよ! どうせ、もう時効じゃん!」
私の人生の音を立てて崩れ落ちていく。
今までの家族との関係や、晋作君との結婚、そしてこれからの人生……母が嘘を吐いてくれれば守れた物が一瞬で私の目の前で崩壊してしまった。
自分の人生の瓦解と連動する様に、私は床に崩れ落ちて、泣き出した。
「お願いだから、殺してないって言ってよ!」
母は何も言ってくれず、泣いている私を見下ろしているだけだった。
部屋には私の泣き声だけがしばらくの間、響いていた。
少しして、母の口から「ごめんなさい」という小さな声が漏れた。
「ごめんなさい。嘘でも、言えない」
「なんでよ! 私の人生がどうなっても良いの!」
私が母に掴み掛かろうと立ち上がった瞬間、母の行動に私は「えっ」と驚き、流れていた涙が全て引いてしまった。
「ごめんなさい。どうしても、言えません。ごめんなさい」
母は私に向かって、土下座をして、何度も「ごめんなさい」と呟いていた。
そんな母の姿を見ていると、これが現実に起きている事に思えなくなり、怒りも悲しみも、スッと何所かに行ってしまった。
「なんで……」
お母さんは何でそこまでして、人を殺したと認めたいんだ? その疑問だけしか私の頭に浮かばなくなった。
もう、この人が何を考えて行動しているのかが、全くわからない。
「誰も得しないよ、そんなの。私もお母さんも、晋作君も、赤ん坊もみんな損するだけって、わからない?」
私の声は怒りから、聞き分けのない子供を諭す声にいつの間にか変わっていた。
「でも、お父さんだけは、どうしても裏切れないの」
「……愛してないんでしょ? お父さんの事」
母は無言で地面に額をつけたまま、返事もしなかった。
「好きでもないのに、なんでそんなに肩持つの?」
「ごめんなさい」
「もう、『ごめん』は聞き飽きたよ!」
それでも、母は何を言っても「ごめんなさい」としか言わなくなった。
こっちの熱が冷めてくると、ただ私が母をイジメている様に見えて来て、バカらしくなり、私はリビングを出て行った。
もう、全然意味が分からない。
何をすれば良いのかも、何にも思い浮かばない。
自分の部屋のベッドの上に倒れ込み、「晋作君になんて言えば良いんだろう?」と、ずっと考えた。
彼に「same boat」のことを聞いたのが間違いだった。言わなければ、揉み消せたかもしれないのに。
むしろ、言わなければ、こんな不幸な真実にまで辿り着かず、今頃、「何のアプリなんだろう?」とモヤモヤしたまま終わっていたはずなのに……。
翌日。
私は掛け布団の上で目を覚ました。どうやら、あのまま眠ってしまった様だ。
起きてスマホを見ると、既に昼過ぎになっていた。そして、スマホを見ると晋作君からメッセージが届いていた。
『どう?』
『大丈夫?』
『何かあった?』
『会える日、ある?』
1時間おきに彼からメッセージが来ている。
どう返せば良いのか分からない。
かと言って、無視をすればそれは『ビンゴだった』と言っている様なものだ。
このままだと、確実に結婚は破談になる。
そうなったら、お腹の子はどうやって育てていけば良いんだろう?
お母さんも当てにできない。
私、一人で育てて行くしかない。
「なんでこんな事になっちゃったんだろう」
動き出した大きな岩は崖を転げ落ちて、下の村の民家まで大破しても依然として止まる気配を見せない。
ブゥゥゥゥ
ビクッと目を開けて、スマホを見ると『武藤晋作』の文字が表示されていた。
脳の奥が私に警告して来た。
この電話に出ないと……本当に終わる。でも、わかっているけど……出たところでどのみち終わるのも目に見えている。
どっちの終わりが潔いかの話だ。
「も……もしもし」
電話に出ると、スマホから「あっ」と気まずそうな晋作君の声がした。
「ごめん。寝てた?」
「ううん」
「お葬式の翌日なのに、ごめんね」
「うん」
晋作君に言われて「そういえば、昨日はお葬式だったんだ」と思い出した。
「一度さ、会って話したいって思って、明日実家から帰るんだっけ?」
電話の向こうの彼は初めて連絡先を交換した時よりも辿々しい。その、よそよそしい態度が私を追い込んでくる。
「ごめん」
「やっぱ、忙しい?」
「会えない」
「え?」
「結婚もできない」
「何で?」
「ごめん」
「子供はどうするの?」
「……ごめん」
「謝ってるだけじゃ、分からないよ」
「両親は人殺しでした。だから結婚できません」って正直に言わなくちゃいけないけど、これ以上を自分から好きな人に言うなんて、口が全く言う事を聞いてくれない。
人殺しの娘って白い目で見られるくらいなら、無責任な人間だと呆れられた方がマシだ。
「ちょっと、一回、会って、話そうよ」
「ごめん」
食い下がって来る晋作君に対して、今度は自分が昨日の母の様になってしまった。
「ちょっと聞いてる? 何があったの、さゆ……」
私はそこで無理矢理、通話を切った。
私は急いでベッドから起き上がり、家から逃げる準備をした。
彼の家から私の実家はそんなに遠い距離じゃない。きっと彼は今頃、この家に車で向かっている。
終電まで帰らないつもりで、私は競馬場とか彼が来そうにない場所をぶらぶらして時間を潰した。
日付を跨いでから家に戻ると、玄関に彼らしき靴は無く、ひとまずホッとする。しかし、リビングの電気がまだ点いている。
そういえば、あれから一度もお母さんの顔を見ていない。
どうしようと玄関で少し考え、私は二階の自分の部屋に逃げ込む事にした。
「さゆり」
しかし、階段を上がっている途中、リビングからお母さんが顔を出した。
「夕方、晋作君が来たわよ。アナタがいないって言うと、スグに出て行ったけど」
私は足は止めたが、返事はしなかった。
「それと……話が、あるの。ちょっと、良いかしら」
返事をせず、私はリビングに向かった。
だけど、今更言い訳なんて聞きたくない。
どうせ、晋作君から私とのイザコザを聞いて「お父さんお母さんとアナタは関係ない」とか言うつもりなんだろう。
「お母さんは両親が人殺しじゃないから、わからないんだよ!」って怒鳴り返してやる。
「何?」
リビングのソファに座ると、そっけなく向かいのお母さんに言った。
「話しておきたい事があるの」
「結婚の事?」
しかし、予想外にもお母さんは首を横に振った。
「じゃあ、何?」
「お父さんとお母さんが人を殺した時の事」
「えっ」
虚をつかれて、私は一瞬で防御の構えを崩された。それ以上の言葉が出て来なくなった。
「聞きたくなくなったら、すぐに出て行って良いから。お母さん、勝手に話してるから」
「なんで、そんな事、娘に話すの?」
「分かってあげて欲しいの、お父さんの事」
「昨日からさ、お父さんお父さんってさ……」
母は反論しようとする私に構わず「あと……」と言って話を続けた。
「アナタがどうして生まれたのかも」
「私?」
なんで、二人の殺人と私が関係あるの?
「もう、三十年近く前だけど、私とお父さんは人を殺したの」
私に問う暇も与えず、お母さんは話を始めた。