黒猫
俺は貧乏だったが、一匹の愛猫のおかげで毎日楽しく暮らしていた。猫の名前は『勘太郎』という。勘太郎は俺によくなついていた。毎日俺が働きに出かけるのと同時に長屋を出てどこかにふらりと遊びに行くが、夕方にはちゃんと戻ってくる。そして俺と一緒に晩飯を食べ、同じ薄い布団で眠るのだった。とりわけ冬は勘太郎がいてくれてとても助かった。長屋の壁の隙間から木枯らしが吹き込んでくるからだ。
勘太郎は黒猫だ。ほんの一点も白いぶちがない。道を歩いている勘太郎を見て、鴉と間違える人もいる。同じ長屋で他に猫を飼っている者はおらず、勘太郎は皆に可愛がられていた。
ところが、ある時から不穏な噂が町に流れるようになった。
『夜な夜な黒猫が人を襲い、食い殺している。その猫は人間の言葉を話し、不気味な声で人をおびき出す』
真っ先に疑われたのは俺の勘太郎だった。身に覚えのないことだ。勘太郎は毎晩俺と一緒に寝ているし、人の言葉を話したこともない。第一、人をひっかいたことも噛みついたこともない大人しい猫なのだ。
噂を聞きつけた顔見知りの同心が、勘太郎を調べにきた。だが勘太郎が言葉を話したりするはずもなく、同心は勘太郎とたっぷり遊んだだけで帰って行った。
噂が流れ出してから一月ほど経って、長屋の差配人が死んだ。夜道で黒猫に食い殺されるところを見たという町人が何人も名乗り出た。町内の黒っぽい野良猫が何匹も殺された。だが、一番名を知られている黒猫はやはり勘太郎だ。彼に対する心ない言葉が俺に投げかけられた。俺は勘太郎を昼夜部屋に閉じ込め、決して外に出てはならないと言い含めた。町人に見つかりでもしたら、勘太郎は打ち殺されてしまうだろうから。俺はその時、勘太郎を露ほども疑っていなかった。
またある日の夕方、長屋に帰ってきた俺は、勘太郎が大人しく待っているのを見て安堵した。差配人が死んで以来被害者はいなかったが、新しい差配人から勘太郎を殺すように度々促されていたからだ。そんなことができるはずもない。俺は勘太郎が一歩も部屋から出ていないことを何度も説明し、難を逃れてきた。
ただいまと勘太郎に言うと、勘太郎は一つ欠伸をして、ああと答えた。その時俺はどきりとした。今、言葉をしゃべらなかったか?
勘太郎は前から、俺の言うことをよく理解しているようだった。だが勿論人間の言葉で答えたことはない。
もう一度彼に尋ねる。今言葉を話したか? 勘太郎は再びああと答えた。俺は惨憺たる気分になった。
勘太郎が人を食い殺すはずがない。何かの間違いだ。そう思おうとしたが、彼に対する疑心は膨らんで行った。
その夜、暑さでなかなか寝つけずうとうとしていた。足下で寝ていたはずの勘太郎が起き上がる気配がする。俺は横になったまま、薄目を開けて勘太郎の動きを窺っていた。
勘太郎はのびをして、戸を前足で開けた。そして、細い月明かりを浴びて外へ出て行った。
俺は布団をはねのけた。勘太郎は今までもこうしてこっそり外へ抜け出していたに違いない。では外で、一体何をしているのだろう?
勘太郎が戻ってきたのは一時ほど経った後だった。足音もたてずにそっと入ってきた勘太郎は、布団の上であぐらをかく俺の前に座った。彼の賢い、黄色い瞳が俺を見返した。
屋根に空いた穴から、一際強い月の光が差し込んだ。その光の下で俺は確かに見た。
勘太郎の口元にべっとりと血がついている。
噂は本当だったのだ。俺はとっさに転がっていた天秤棒を取り上げ、力の限り勘太郎を殴りつけた。勘太郎はうめき声をたてて倒れた。これでおしまいだ。当たり前のことをしたはずなのに、涙があふれ出して止まらなかった。
夜が白んでから、暗い気持ちで長屋を出た。あれから一睡もできず、冷たくなっていく勘太郎の体を抱いて泣いた。隣の住人は迷惑していたことだろう。
勘太郎を懐に入れて、今から彼の墓を作ってやるつもりだった。町は静まり返っていた。まだ夜明け前だ。動き出している者は少ない。
塀の上で真っ白な猫が箱座りしていた。あの猫は白いから、虐殺の憂き目に合わずに済んだ。勘太郎が死んだのにその猫が生きているという事実に、理不尽な腹立ちが起こった。
白猫は俺を見ていた。
「お前を守っていた勘太郎が、死んだんだって?」
そう白猫が確かに言った。はっとした俺の目の前で、白猫は立ち上がる。前足がひどく傷ついて、血が滲んでいる。
そいつの腹は墨を塗ったように真っ黒だった。