嫉妬?!
豊かな商業都市の中心部に建つ豪壮な屋敷。その広大な敷地内には、手入れの行き届いた庭園が広がり、夜空に浮かぶ月の光を受けて、池の水面がかすかに揺らめいていた。庭園には、季節ごとに咲く花々が植えられ、石灯籠や小さな橋が配置されていた。これらは全て、屋敷の主の審美眼と富の象徴であった。
屋敷の主は、かつて一介の行商人に過ぎなかったが、今や都市随一の大商人として名を馳せる人物だった。彼の成功物語は、多くの若い商人たちの憧れの的となっていた。しかし、その成功の裏には、時に非情な決断と、他者を踏み台にする冷徹さがあったことを、誰も口にはしなかった。
屋敷の奥にある書斎では、その大商人が一人、燭台の柔らかな光に照らされながら、机に向かっていた。書斎の壁には、彼の成功を物語る数々の絵画や書が飾られていた。中でも目を引くのは、彼が若かりし頃に描かせた自画像だった。そこには、今の彼からは想像もつかないほどの、野心に満ちた眼差しが描かれていた。
彼の前には幾つもの帳簿が広げられ、筆を持つ手は絶え間なく動いている。帳簿には、彼の商売の全てが記されていた。取引先との契約内容、商品の仕入れ値と売値、さらには競合他社の動向まで、細かく書き込まれていた。しかし、その表情には何か暗い影が漂っていた。成功を収めた今でも、彼の心は決して安らかではなかった。
大商人は深いため息をつくと、筆を置いて椅子から立ち上がった。その動作には、長時間の作業による疲労が滲んでいた。窓辺に歩み寄り、月明かりに照らされた庭園を眺めながら、彼は独り言を呟いた。
「この繁栄も、いつまで続くのだろうか...」
その言葉には、成功を収めた者特有の不安が滲んでいた。確かに、彼は一代で莫大な富を築き上げ、都市の有力者たちとも肩を並べるほどの地位を得た。彼の商会は、この都市の経済を動かす重要な存在となっていた。しかし、その成功ゆえに、常に背後の影を気にせずにはいられなかった。
特に、彼の心を悩ませていたのは二人の男の存在だった。かつての仲間であり、今や彼と同じく成功をおさめたことがある二人。その二人の知恵と才覚が、再び自分の地位を脅かすのではないかという恐れが、大商人の心の奥底に根を張っていたのだ。
彼らの名前を聞くたびに、大商人の心臓は早鐘を打った。今までの二人の急速な台頭は、まるで自分の若かりし頃を見ているようで、それゆえに恐ろしかった。彼らもまた、自分と同じように頂点を目指しているのではないか。そう考えると、夜も眠れぬほどだった。
大商人は再び机に向かうと、ある特定の帳簿を開いた。そこには、二人に関する詳細な情報が記されていた。彼らの開拓した力、コネクション、さらには日々の行動パターンまでもが克明に記録されている。これらの情報は、彼が雇った諜報員たちが命がけで集めたものだった。
「やはり、このままでは...」
大商人は眉をひそめながら、帳簿の内容を見つめた。二人に協力したものが出た時、事業が順調に拡大していく様子が、大商人の頭の中には明確に表れていた。特に目を引いたのは、彼らが新たに手を広げようとしている事業の詳細だった。それは、大商人自身も狙っていた新たな市場への進出計画だった。
このままでは、あの二人がいずれ自分の地位を脅かすことは避けられない。そう考えた大商人の頭の中で、ある危険な考えが芽生え始めていた。それは、彼がこれまでの人生で何度か実行してきた、競合相手を排除する方法だった。
そのとき、扉をノックする音が静かに響いた。その音は、大商人の物思いを中断させた。
「入れ」
大商人の声に応じて、扉が開き、中年の男が恭しく頭を下げながら入室してきた。彼は大商人の右腕として長年仕えてきた執事だった。灰色がかった髪と、几帳面に整えられた髭が、その長年の忠誠を物語っていた。
「ご主人様、お休みの時間です」
執事の言葉に、大商人は顔を上げてゆっくりと首を振った。彼の目には、まだ仕事への執念が燃えていた。
「今日はまだ眠れそうにない。少し付き合ってくれないか」
「はい、承知いたしました」
執事は丁寧に応じると、静かに大商人の傍らに立った。彼は長年の経験から、主人の心の動きを察することができた。今夜、何か重大な決断が下されようとしていることを、彼は直感的に感じ取っていた。
大商人は再び窓の外を眺めながら、重い口調で語り始めた。その声には、普段は決して見せない弱さが混じっていた。
「私たちが築き上げてきたこの繁栄を脅かす者たちがいる。そのことを考えると、夜も眠れぬほどの不安に襲われるのだ」
執事は主人の言葉を静かに聞きながら、その表情に浮かぶ苦悩を読み取っていた。彼もまた、主人の成功の影で多くの犠牲があったことを知っている。しかし、それが商売の世界の厳しさであることも、彼は理解していた。
「ご主人様、どなたのことでしょうか」
大商人は一瞬ためらったが、やがて決意を固めたかのように口を開いた。その瞬間、書斎の空気が一層重くなったように感じられた。
「あの二人だ」
執事の表情が一瞬曇った。彼も噂には聞いていた。あの二人が急速に力をつける可能性を。彼らの名前は、最近の商人たちの間で頻繁に話題に上がっていた。彼らの革新的な商法や、誠実な取引姿勢は、多くの人々の支持を集めていた。
「彼らの存在が、このまま大きくなれば...いやちょっとしたきっかけ、協力者が出たら?」
大商人の言葉が途切れた。しかし、その意図するところは明確だった。執事は慎重に言葉を選びながら尋ねた。彼は、これから交わされる会話の重大さを十分に理解していた。
「ご主人様、彼らに対して何かご指示はございますでしょうか」
大商人は長い沈黙の後、ゆっくりと振り返って執事の目を見つめた。その眼差しには、これまでにない冷たさが宿っていた。それは、商売の世界で生き抜いてきた男の、最後の決断とも言えるものだった。
「彼らがいなくなれば、私たちの地位は安泰だろう」
その言葉に込められた意味を、執事は即座に理解した。彼は一瞬たじろいだが、すぐに平静を取り戻し、深々と頭を下げた。彼もまた、この世界で生き残るためには時に非情な決断が必要だということを、長年の経験から学んでいた。
「かしこまりました。私どもにお任せください」
大商人はうなずくと、再び窓の外に目を向けた。その表情には安堵の色が浮かんでいたが、同時に何か後ろめたさのようなものも垣間見えた。彼の心の中では、商売人としての冷徹さと、人間としての良心が激しく葛藤していた。
執事は静かに部屋を出ると、廊下で待機していた数人の部下たちに目配せをした。彼らは無言で頷き、それぞれの持ち場へと散っていった。彼らは皆、主人の意図を理解していた。これから行われることの重大さも、十分に承知していた。