領主の死
「領主様が...」
震える声が、城の廊下に響き渡った。
早朝、まだ朝靄が立ち込める中、城内は異様な緊張に包まれていた。侍従たちが慌ただしく行き交い、女房たちの泣き声が聞こえてくる。
タケルは、急ぎ足で主君の居室へと向かった。彼の隣には、同じく藩の重臣である澤北が息を切らせながら歩を進めている。
「まさか...」タケルは小声で呟いた。
「覚悟はしていたが、こんなに早くとは...」澤北も同じように言葉を絞り出した。
二人が部屋に到着すると、そこにはすでに藩医や他の重臣たちが集まっていた。皆、沈痛な面持ちで主君の寝台を取り囲んでいる。
タケルは恐る恐る近づき、主君の顔を覗き込んだ。
そこには、もはや生気の感じられない冷たい顔があった。
「ご逝去...されたのですね」タケルは声を震わせながら言った。
藩医が静かに頷いた。「はい、未明に息を引き取られました」
一瞬、部屋中が静寂に包まれた。誰もが、この瞬間が来ることを予期しながらも、現実を受け入れられずにいるかのようだった。
澤北が咳払いをして、沈黙を破った。「我々は、主君の遺志を継ぎ、藩政に励まねばなりません」
その言葉に、皆が我に返ったように頷いた。
しかし、タケルの胸の中には、不安が渦巻いていた。主君の死は、単に一人の人間の死を意味するだけではない。それは、藩全体の運命を左右する大事件なのだ。
そして彼の予感は、的中することになる。
それから数ヶ月が過ぎた。
藩主の葬儀は厳かに執り行われ、新たな藩主が就任した。しかし、新藩主はまだ若く、実質的な藩政は重臣たちによって運営されることになった。
タケルと澤北は、主君の信頼厚い家臣として、引き続き重要な役職に就いていた。しかし、彼らを取り巻く空気は、徐々に変化し始めていた。
「タケル殿、このたびの米の配給について、お前の采配は少々軽率ではなかったか」
ある日の会議で、年長の重臣が厳しい口調でタケルを糾弾した。
「いえ、私としては民の苦しみを少しでも和らげようと...」
タケルが弁明しようとするも、周囲からは冷ややかな視線が注がれるばかりだった。
「民のためと言って、藩の蔵を空にされては困る」
別の重臣も同調するように発言した。
タケルは唇を噛みしめた。確かに、彼の決定は大胆すぎたかもしれない。しかし、凶作に苦しむ農民たちの窮状を見過ごすこともできなかったのだ。
会議が終わると、澤北がタケルに近寄ってきた。
「気にするな。お前の判断は間違っていなかった」
「澤北...ありがとう」
タケルは感謝の念を込めて頷いた。しかし、二人とも薄々気づいていた。かつての主君がいれば、こんな風に責められることはなかっただろう。時代が、確実に変わりつつあるのだ。
それから数年が経過した。
タケルと澤北は、徐々に重要な案件から外されるようになっていった。
「タケル殿、このたびの城の改修工事の監督は、若年寄の山本殿に任せることになりました」
ある日、老中から言い渡された。
「しかし、私はこれまで城の管理を任されてきたはずですが...」
タケルが困惑の表情を浮かべると、老中は冷ややかに言った。
「お前も年だ。少しは若い者に仕事を任せるのも良いだろう」
タケルは、自分がまだ働き盛りの年齢であることを主張したかった。しかし、老中の冷たい目を見て、それ以上の抗議は控えた。
一方、澤北も同じような経験をしていた。
「澤北殿、今回の年貢の取り立ては、新たに抜擢された佐藤殿に任せることにいたしました」
「はい...承知いたしました」
澤北は、心中穏やかではなかったが、表情には出さずに応えた。
二人は、かつての主君から受け継いだ政策を守ろうとしていた。しかし、新たな勢力は、そうした「古い」考えを快く思っていないようだった。
ある夜、タケルと澤北は密かに会合を持った。
「このままでは、我々は完全に藩政から排除されてしまうぞ」
澤北が苦々しい表情で言った。
タケルも深くため息をついた。「わかっている。しかし、我々にできることは何だろうか」
「主君の遺志を守ること。それが我々の務めだ」
澤北の言葉に、タケルは強く頷いた。
「そうだな。たとえ役職を失っても、民のために働き続けよう」
二人は、互いの決意を確認し合った。しかし、その後の日々は、彼らの予想以上に厳しいものとなった。
「タケル殿、このたび藩主様のご意向により、お前の役職を解くことになった」
ついに、その日が来た。老中からの冷たい言葉が、タケルの耳に突き刺さった。
「私に、何か落ち度でもございましたか」
タケルは必死に冷静を装おうとしたが、声は震えていた。
「特に落ち度があったわけではない。ただ、新しい時代には新しい人材が必要なのだ」
老中の言葉に、タケルは何も言い返すことができなかった。
同じ頃、澤北も同様の通達を受けていた。
二人は、長年仕えてきた城を後にする日、互いに顔を見合わせた。
「こうなることは、薄々感じていたがな」
澤北が苦笑いを浮かべる。
「ああ。しかし、これで終わりではない」
タケルの目には、強い決意の光が宿っていた。
城を去ったタケルと澤北は、しかし諦めなかった。
彼らは、自分たちの知識と経験を活かし、民間での活動を始めた。
タケルは、困窮する農民たちに新しい農法を教え始めた。
「この方法なら、少ない労力でより多くの収穫が得られるはずだ」
彼の指導の下、荒れ果てた田畑が少しずつ蘇っていった。
一方、澤北は、藩校で教鞭を執ることになった。
「諸君、学問とは単に知識を得るだけではない。それを如何に実生活に活かすかが重要なのだ」
彼の熱心な指導に、多くの若者たちが感銘を受けた。
二人の活動は、徐々に評判を呼び始めた。
「あのタケル殿と澤北殿のおかげで、我が村の収穫が増えたのです」
「澤北先生の教えのおかげで、息子が藩の役人試験に合格しました」
そんな声が、あちこちから聞こえてくるようになった。
しかし、そんな二人の活動を、藩の上層部は快く思っていなかった。
「タケル、澤北の両名の影響力が強まりすぎている。このままでは、民衆の心が彼らに傾いてしまう」
ある日の会議で、そんな意見が出された。
「しかし、彼らの功績は否定できません。農民たちの生活は確実に向上していますし...」
若い家老が弁護しようとしたが、
「黙れ!彼らは、すでに藩から追放された身だ。そんな者たちに民を従わせるわけにはいかぬ」
老中の怒声に、若い家老は黙り込んでしまった。
そして、ついに藩は動き出した。
ある日、タケルが農民たちに指導をしていると、藩の役人たちが現れた。
「タケル殿、申し訳ありませんが、あなたの活動は藩の秩序を乱すものとして、以後禁止とさせていただきます」
「何だと?私はただ、民のために...」
タケルが抗議しようとするも、役人たちは聞く耳を持たなかった。
同じ頃、澤北も藩校から追い出されていた。
「先生、どうか行かないでください!」
生徒たちが必死に引き留めようとするが、
「諸君、心配するな。学びとは、場所を選ばぬものだ」
澤北は、最後まで毅然とした態度を崩さなかった。
追い詰められた二人は、ついに城を去ることを決意した。
「ここにいては、もはや何もできん」
澤北が重々しく言った。
「そうだな。しかし、どこへ行けば...」
タケルが途方に暮れた表情を浮かべると、
「心配するな。この国には、まだまだ我々の力を必要としている場所があるはずだ。いったん村に戻ろう」
澤北が力強く言った。
そして、二人は旅立ちの準備を始めた。
出発の日、多くの農民や元生徒たちが見送りに来ていた。
「タケル殿、澤北殿、どうかお元気で!」
「先生方のおかげで、私たちは希望を持てるようになりました」
涙ながらの別れの言葉に、二人も胸が熱くなった。
「皆、心配するな。我々は必ず戻ってくる」
タケルが力強く宣言した。
「そうだ。その時まで、しっかりと学び、働き続けるのだ」
澤北も頷いた。
こうして、タケルと澤北の新たな旅が始まった。
その後の二人の村への帰郷は、決して平坦なものではなかった。
彼らは各地を転々とし、その土地その土地で人々を助け、教え導いた。
ある村では、タケルが新しい灌漑システムを考案し、長年の水不足問題を解決した。
「タケル殿、あなたは我が村の恩人です」
村長が涙ながらに感謝の言葉を述べた。
また別の町では、澤北が貧しい子供たちのための私塾を開いた。
「先生、あなたのおかげで、私たちにも未来があると信じられるようになりました」
生徒たちの目は、希望に満ち溢れていた。
しかし、彼らの名声が高まるにつれ、再び権力者たちの反感を買うことになった。
「あの二人は厄介だ。民衆の心を掻き乱している」
「早々に追い払わねば」
そんな声が、あちこちで聞こえるようになった。