2-1. 夢見る貴族令嬢
「……車なんだよなぁ」
目の前に止まった黒い乗り物をまじまじと見つめて、透流がつぶやく。
どこをどう見ても車だ。しかも黒塗りで長くて高級そうなやつ。
「はやく乗って」
後部座席の窓が半分下がり、急かす少女の声。隙間からちらりと見えた姿はいかにも深層の令嬢っぽい身なりをしている。
(……貴族なんだよなぁ)
今度は口に出さず、心の中でつぶやいた。
ここ数日行き交う人を観察し、会話に耳を傾けて、ノリのよさそうな女性に声をかけ、透流が理解したのは、この街でセレブなオーラを出している者はおおよそ外からきた中流以上の貴族だということ。
「乗りなさい。レイゼン・トール」
少女の声が命令口調に変わる。
ここに来てからフルネームを名乗ったことはない。ましてや初対面の人が知っているはずはない。
色んな意味で、透流にはひとつの選択しか残されていなかった。
*
とくにボディチェックなどされることもなく、急かされるまま透流は車に乗り込んだ。自分の置かれた状況をざっとチェックする。
向かい合わせのシートの間にはテーブル。透流が腰掛けたのは進行方向と逆側のシート。運転席は仕切られていた。大きな声を出さない限り運転手には聞こえないだろう。
「あとで俺刺されない……?」
貴族のお嬢様と二人きりだ。自己防衛も兼ねて冗談まじりに探りを入れると、向かいに座る少女は悠然として口を開いた。
「最新の防犯機能を搭載していますの。害をなす者は入れないように」
抽象的な説明に、透流は引っ掛かりを覚える。異世界のブラックボックス的な高機能システムといえば魔法だけれど、この世界にあるかどうか。
「……魔法みたいっすね」
「ええ本当に」
つまり魔法ではないということか。
少女は一呼吸おいて緩く微笑み、伏せていた瞼を上げて、透流を真正面に捉える。
「日本にはありませんものね」
普通に同意しかけた透流が不自然に動きを止める。観察するブルーの瞳が、その反応を映し取って確信の光を宿す。
「今からおかしなことを言うけれど、許してちょうだいね」
絹糸のようなゴールデンブロンドが、首を僅かに傾けるだけでさらりと流れる。
「誰にも信じてもらえないことを貴方は信じると思ったの」
返事など期待していない物言いは、妙な説得力を持っていた。ついでのように少女は名を名乗る。カサンドラ、と。
「わたくし、違う世界で違う人間として生きたことがあります」
最初にフルネームを呼ばれた時から何を聞かされてもおかしくなかった。透流は面倒そうに腕を組み、目線を窓へを逸らした。
話の流れに沿うならば、『違う世界』とは日本を示し、『違う人間として生きた』時代は今のカサンドラが生まれる以前ということになる。
「信じるかしら」
「んー。そういうこともあるかもしれない」
透流は曖昧にはぐらかす。まず自身に起きている現状がすでにおかしいわけで、カサンドラが日本を知っているのなら信じるも何もない。
「貴方は霊泉透流でしょう」
「なんで知ってるの」
「夢を渡ることができるからよ」
「夢?」
透流は窓に向けていた視線を、反射的にカサンドラへと戻した。
「正確には分からないけれど、眠っている間にそれが起こるものだから。夢だと思うことにしているの」
「……夢で俺の名前を知ったとでも?」
カサンドラの青い瞳は、夢のディテールを思い出そうと遠くを見ている。じっとしていると精巧なお人形のようだった。
「ええ知りました。あなたがその世界から身体ごと消えたということも」
薄い唇が澱みなく言葉を紡ぐ様子を、透流は黙って眺める。
「なぜその夢に招ばれたのか、何某かの意図があるのか、消えたのなら他の場所にいるのか、と考えを巡らせていくつかの仮説を思いついた」
そこまで淡々と述べてから、カメラのシャッターみたいな瞬きをひとつ。透流にピントを合わせる。
「……なるほど」
心当たりがありすぎる透流は、まったく想定外の人物によって自分が『身体ごと消えた』のだと知らされる羽目になった。
「数日前に街へやってきて、この世界の硬貨の価値も知らないトールと言う名の外国人。消えたのは霊泉透流、あなたではなくて?」