1-4. 赤いロープの先にいたのは
透流は自覚していた。
自分の生まれた環境が金持ちの部類に入ること。
西洋の遺伝子が混ざって色素が少し薄いこと。
日本人の父親が根っからの自由人だということ。
自覚していたからなのか分からない。大学はレベルを下げて特大生として入り、父に与えられたひとり暮らし用のマンションを除いてなるべく親に頼らない生活を始めた。結局そのせいで女性に頼るヒモと化してしまったが。
とにかく大学生になってからは、日本の平均的な生活環境も把握しているつもりだ。
シルヴァに貸りた部屋は、小さなアパートの家具付きの一室。部屋の中を見回せば、シャワーやキッチンもあって、生活レベルは現代の日本と大して変わらないように見える。
「……完全に異世界なんだよなぁ」
知らない世界に来てからずっと思っていたことをひとりごちる。
言葉が通じて文字が読めて部屋も普通で住みやすそうな街。まるで都合のいい創作みたいで、それほど違和感がないのがむしろ違和感。
今のところ確実に違うのは、マフィアが気さくに話しかけてきたことや貴族がいるらしいこと、日本語を話しているのに純日本人らしき容姿をあまり見かけないことくらい。本当に異世界なら謎の自動翻訳機能が働いている可能性もゼロではないが。
「異世界……異世界ねぇ」
透流は埃っぽい床をモップで拭きながら考えを巡らせる。
あるいは平行世界、あるいは夢の中。
あの注目度MAXな公衆の面前で身体が消えるのは考えにくい。それなら意識を失い眠り続けている可能性の方がまだある。
ただ夢にしてはリアルだ。
夢の中で夢だと気づいたことは何度かあるが、五感と重力のリアリティが違う。
気になるのは突き飛ばされた瞬間の暗転。目を閉じたせいだと思っていたが、もし停電かなにかで店内が真っ暗になっていたとしたら。よく見えない状況で身体が消えたのだとしたら……?
そこまで考えて、長いため息を吐く。
どっちにしろ主な身内は父親だけ。他人に息子を任せきりで自由を謳歌する父がそこまで心配するとは思えない。21年間生きてきた場所も人生も正直あまり未練はない。
今更ながらに振り返れば、ヒモになるずっと前から女性には頼っていたような気がする。優しいシッター、事務的だけどしっかりしたお手伝いさん、それに父の恋人だったあの女性。数年の間、なぜか彼女だけは大して得もしないのに透流の面倒を見てくれた。母親がいたらこんな感じなのかと錯覚するほどに。
「まあ、考えても意味ないかぁ」
色んなことを諦めた途端に疲労感がどっと押し寄せる。
ベッド周りを軽く掃除して、ルチアーナが用意してくれた真新しいシーツの上に寝転んだ透流は、左腕を上げてぼんやりと自分の手首を見つめた。
そこには真っ赤なロープが結ばれている。
他の人から何の反応もないので、やはり透流にしか見えないのだろう。しかも触ることはできない。ARやVRのオブジェクトみたいだ、と透流は思う。
赤いロープが見えるようになったのは、あの子が視界に入った時からだ。
ルチアーナと名乗った女の子。
ゆるく波打つアッシュブラウンの髪とエメラルドに似た瞳が輝いていた。細いフレームの眼鏡をかけて一見クールだが、可愛い声は明るく響き、喋るとどこか抜けた印象に変わる。大きな商家の娘だというが、日本の企業で例えるならどれくらいの規模だろう。
あの時ふと見上げた先で、彼女の右手首に赤いロープが巻かれているのにすぐ気づいた。どこに繋がっているのか辿ってみれば、透流自身の左手首にたどり着いたのだ。
「なんだろうなぁ、コレ」
運命の赤い糸は聞いたことがある。が、手首にロープだ。ごつい。
『わたしは好きだよ。君みたいな人』
ずっと見ているうちにルチアーナの声を思い出した。ヒモという存在をあれだけ明快かつ純粋な好意で肯定されたのは初めてだ。
『働かなくても食べる権利はあるし、人と違うやりかたで生活できるのは才能だよ』
異世界だか何だか分からない場所でも成り行きでヒモ生活へ突入してしまったのは、ルチアーナの言うとおり才能なのかもしれない。
けれど正直どうでもいい。
嗅いだことあるようなシーツの香り、
手足に残るだるさ、
グラスワインの揺れる赤、
輝く緑の瞳、
朗らかな声、
転がる野菜、
沈む夕陽、
記憶の断片。
そのすべてが、刺されそうになった出来事を遠くへと追いやっていき、いつのまにか透流は深い眠りに落ちていた。