>>> 前編
ルイーゼ・ロッチ侯爵令嬢は第一王子の婚約者だった。
侯爵家の第一子として、第一王子の婚約者として、そして未来の王妃になる者として、自分を律して誰よりも素晴らしい令嬢となるように頑張っていた。
しかしそんな彼女の頑張りはいつも簡単に壊される。
皆に愛される義妹によって……
義妹は義母の連れ子としてロッチ侯爵家にやって来たが、間違いなくルイーゼの父の血を引いているという。義母はルイーゼの母が父の婚約者であった時から父の恋人だったらしい。
父の愛は元々義母だけに注がれていてルイーゼの母は所詮家の為の義務でしかなかった。
政略結婚で生まれた愛の無い娘。
それがルイーゼだった。
そして、そんなルイーゼとは対照的に『愛の結晶』として生まれてきたのが義妹のカミラだった。
義母に似て愛らしく、歳よりも幼く見える顔にフワフワと揺れる桃色の髪。ハートを連想させる桃色の瞳。ぷっくりと膨らんだ唇から紡がれる声は聞く者の心を癒やすと言われる程に可憐だった。
両親に愛され、その見た目で周りからも愛されたカミラは愛を独り占めする事が当然だと思う、自信に満ちた女性に育った。
ルイーゼもカミラと違った魅力を持った美しい女性だったが、カミラのように心から幸せそうに笑うことがなかった為に周りからは冷たい印象を持たれていた。
母を亡くしてからは父とは必要最低限の関わりしか持たず、周りの使用人たちはルイーゼに礼儀を尽くすが、侯爵家の使用人として家主の娘に必要以上に踏み込んで来ることはなかった為に、ルイーゼは母を亡くしてからは一人でいる時間ばかりが増えていた。誰かと関わる時は用事がある時だけ。そんなルイーゼが心から笑う機会など殆どない。
淑女の微笑みを顔に張り付けるルイーゼを父や婚約者は気味が悪いと嫌った。そしてそんなルイーゼをカミラはルイーゼだけに見えるように馬鹿にして笑った。
父が再婚したのはルイーゼが8歳の頃。
カミラは7歳。
侯爵家に来た途端にカミラはルイーゼの物を欲しがった。ドレスが素敵。宝石が素敵。靴が素敵。部屋が大きくて素敵。たくさんの物を持っていて素敵。肖像画があって素敵。専属侍女が優秀で素敵。メイドがたくさん居て素敵。素敵素敵素敵。
カミラは一度も『ズルい』とは言わなかった。しかしカミラを愛する父や母親からすればそれだけで十分だった。
直ぐにルイーゼの持っていた物はカミラの物になった。
母の形見でさえもカミラに取られた。
形見だけはと嫌がったルイーゼに父は言った。
「この家にある物は全て侯爵家の物だ」
と。侯爵家の物は全て当主である父にどうするかの権限があると言われればルイーゼには何もできなかった。
カミラに全て取られたルイーゼにその後与えられる物は全て、カミラの持っている物より劣る、価値の低い物ばかりとなった。
だが、だからといってルイーゼは安物ばかりを与えられたかと言えばそうではない。
この時すでにルイーゼは第一王子であるジャスティン・パルキアディオの婚約者であった。そんな“未来の王妃”に安物ばかりを身に付けさせる訳にはいかない。
ルイーゼは“人に会う時だけは”高級品を与えられた。カミラはそれに不満を訴えて暴れたが、さすがにこれに対しては父であるアントン・ロッチ侯爵当主も、家の体面がある為にカミラの言い分を退けた。その代わりに、カミラにはルイーゼに与えた物よりたくさんの物を与えたし、ルイーゼが与えられた物も『一度身につけたら二度身につけるのは見苦しい』としてカミラに譲るように言われていた。
ルイーゼの手元に残った物はやはり、下位貴族や平民が持っているような物ばかりとなった。
それでもルイーゼは前を向いて頑張っていた。
今は何も手元に残らなくても未来は違う。
第一王子の婚約者としてちゃんとしなければ。
──ジャスティン様の未来の伴侶として、この国の未来の王妃として……誇れる女性にならなければ──
ルイーゼはその気持ちを強く持ち、どれだけ家族から冷遇されようとも強く前を向いて生きていた。
◇ ◇ ◇
しかしある日、見てしまった。
自分の婚約者であるジャスティン第一王子殿下と……義妹であるカミラが抱き合っている姿を……っ!
その二人が何故そんな場所で抱き合っていたのかはルイーゼには分からない。
第一王子の婚約者としての教育を受けに通っていた王城で、たまたま窓の外を見た時その光景は目に入ってきた。
ルイーゼに見せる為に二人はそこで抱き合っていた訳ではないだろう。一応は隠れていたと思われる自分の婚約者と義妹を、ルイーゼは本当に偶然、運命の悪戯かのように目にしてしまった。
その時のショックは言葉にはできない。
ルイーゼはただただ呆然としてしまいその場から逃げるように離れてしまった。
見間違い。
そんな訳ない。
ありえない。
疲れていたから見てしまった幻。
人違い。
そう……きっとそう…………
一人で悩んでたルイーゼに追い打ちがかかる。
嬉しそうに微笑んだカミラが珍しくルイーゼに機嫌が良さそうに話しかけて来たかと思ったらこう言った。
「お義姉様、ジャスティン様って本当に素敵ね。
わたくし、あんなに素敵な殿方を他に見たことがありませんわ。細く見えるのに意外とガッシリとした身体をされているのよ?
あら? お義姉様は知りませんでしたの?
ジャスティン様のぬくもりを」
ニヤニヤと頬を染めて笑うカミラのその顔がとても醜くルイーゼには見えた。
カミラの言葉で自分が見たものが見間違いでも幻でもなかった事を自覚させられたルイーゼはショックのあまりその日の夜に熱を出した。
高熱に浮かされるルイーゼを心配するのはルイーゼ付きの侍女やメイドだけだ。
侍女は家令に医者を呼んでくれと伝えたが、家令からその話を聞いた父アントンはどうせ一時のもの虚言かもしれないから様子を見ろと言ってルイーゼは薬も貰うことができなかった。
氷嚢で頭を冷やして貰うことしかできなかったルイーゼは熱で朦朧とした頭で長い長い夢を見た。
それはどこか遠い異国の世界の話。
ルイーゼの知る世界とは全く違った世界に生きる一人の女性が経験した一生。
病気で亡くなってしまった彼女が見たもの触ったもの感じたこと覚えたことを『我が事』のように体験したルイーゼは、熱が下がると自分の考え方が前とは全く違ったものになっていることに気付いた。
「……世界って、広いのね…………」
ベッドの上でそう独り言ちたルイーゼのその言葉を聞いた者は居なかった……
◇ ◇ ◇
愛していたジャスティン殿下。
自分は彼に好かれてはいないと分かっていても、それでも彼が自分にとっては特別だった。
彼が王子だからじゃない。
彼が彼だから好きだった。
婚約者となり、彼の気持ちがどうであろうと、自分と一緒に居てくれるんだと思っていた。
どんな形であれ、『伴侶』になれるんだと思っていた。
家族に愛されないルイーゼはいつの頃からか、自分の婚約者であるジャスティン王子を『自分にとって特別な人』だと思うようになっていた。
それが恋かどうかは分からない。
もしかしたらただの依存なのかもしれない。
それでも、ルイーゼはいつかジャスティンのその身体のぬくもりを自分だけが感じられるようになるのだと思っていた。
そんな特別な存在を、またカミラに盗られた。
ルイーゼの心の中に悲しみと怒りと寂しさと色んなものがごちゃ混ぜになった感情が湧き上がった。
だが……だからといってルイーゼにできることなど何もない。
ルイーゼの言葉など、誰も聞いてはくれないのだから。
ルイーゼが、ジャスティンとカミラが抱き合っている姿を見てから2ヶ月も経たずに、ルイーゼとジャスティンの婚約は解消された。
そもそも二人の婚約はロッチ侯爵家と王家を繋ぐ政略結婚だった。ロッチ家から出る娘はルイーゼでもカミラでもどちらでもいいのだ。それならばジャスティンが求める娘の方が選ばれて当然だった。
愛しあうジャスティンとカミラを皆が祝福していつの間にかルイーゼは悪者となっていた。ルイーゼは別に拒絶など一度もしていないのに、『愛しあう二人を引き裂くなんて、なんて性格の悪い姉なんだ』と周りから思われるようになっていた。
愛されない癖に王子に縋る見苦しい女。
諦めの悪い女は誰からも愛されなくなるよ、と謎の助言をされる程にルイーゼはいつの間にか邪魔者にされていた。
そんなルイーゼをカミラが庇う。
お義姉様は悪くないの。ジャスティン様を愛してしまったわたくしが悪いの。ジャスティン様から愛されたわたくしがいけないの。お義姉様は可哀想な人なの。
そんな事を悲しげに言うカミラを皆が慰め、そんな風にカミラを悲しませるルイーゼを皆が責めた。
ルイーゼの反論など火に油なのは目に見えていたのでルイーゼはただ黙って全てが終わるのを待った。
カミラは何も言わないルイーゼに不満を感じているようだったが、ルイーゼはカミラの優越感を満たしてやる気にはならなかった。
何も言わないルイーゼにその内周りは飽きてルイーゼを話題に出すこともなくなった。
ルイーゼは所詮面白みのない残念な令嬢。
そんな風に世間は思った。
◇ ◇ ◇
婚約を解消されたルイーゼには時間ができた。
もう将来王妃となる為に必要な知識を詰め込む為に王城に行く必要はない。
侯爵家を継ぐことになるが今の当主が直ぐにルイーゼに家督を譲るとは思えないので今から慌てて当主としての勉強をする必要もない。ルイーゼはそこそこ優秀なので。
暇になったルイーゼは小説の中の物語を楽しむかのように、熱に浮かされた時に見た『夢』を思い出しては楽しんでいた。何故かその夢が『前世の記憶』だとルイーゼには分かっていた。きっと夢の中の女性が『自分』だからだろう。
前世に生きていた時はなんて自分の人生はつまらないんだろうかと思っていたのに、生まれ変わった視点から見てみると前世の自分はとても面白く映った。
そしてある記憶を思い出してルイーゼは動き出した。
最初は父への我が儘だった。
自分専用のキッチンが欲しい。時間ができたのでお菓子を作りたい。
そんなルイーゼの願いを父アントンは可哀想なものを見るような目で見返して、好きにしろと言った。
カミラが嫁に出ればこのロッチ侯爵家を継ぐのはルイーゼしか居ない。親族に任せる選択肢もあるが、『自分の血を継いだ子供』が侯爵家を継ぐ事は現当主としては当然の望みだった。『我が子』が次期侯爵家当主であり次期王妃となるのだ。こんなに自慢になることはないだろう。だから現当主であるアントンは、ルイーゼを愛してはいなくても、ルイーゼを手元に置いておく価値があるのだ。
突然平民のような事をしたいと言い出した娘に嫌悪感は感じたが、その程度のことを許すだけでルイーゼの気が済むなら邸にキッチンを増設することなど侯爵家としては安いものだった。
自分用のキッチンを手に入れたルイーゼは、直ぐに材料を取り寄せた。殆どの物は侯爵家に出入りしている商人に頼めば手に入るが、一番欲しい物は外国にしかなかった。
ルイーゼは商人の伝手を色々頼って目当てのものを手に入れる事ができた。
それは前世の物で言えばピーナッツの味に近い、外国にしかないナッツだった。
それをルイーゼが食べたのは王城だった。
ジャスティン王子とのお茶会の席で出された珍しいお菓子の味が気に入って、ルイーゼはその時支給してくれたメイドにこれはどんな物かと聞いていたのだ。
前世を思い出した今では懐かしいその味を凄く求めてしまう気持ちがあった。
ピーナッツのような味のその異国のナッツは『ココムナッツ』という名前だった。
ルイーゼは乾燥ココムナッツにココムナッツパウダーにココムナッツバターなど、手に入るだけ手に入れてお菓子作りを始めた。
ルイーゼは前世の記憶からいくつかのお菓子の作り方を知っていた。
主に焼菓子で、いつかは生クリームたっぷりのケーキを作りたいなんて夢を抱いてルイーゼはお菓子作りに没頭した。
できたものは侍女やメイドと一緒に食べた。
その内他の使用人たちも興味を持ち出したので欲しがる人に上げていった。だけど毎日お菓子を作っていたら食べる量より作る量の方が増えてきた。
どうしようかと悩んだルイーゼにメイドが
「教会や孤児院に配るのはどうですか?」
と聞いてきた。
ルイーゼはそれはとても良い案だと嬉しそうに笑って受け入れた。
◇ ◇ ◇
人に上げるのなら食べやすい物の方が良いだろうとルイーゼは作る物をクッキーに絞って作り始めた。
外国から取り寄せているココムナッツはさすがに高い物なので使わない。それでも甘い甘いクッキーは教会関係者や孤児院の子どもたちにとてもとても喜ばれた。
特に乾燥果物を小さく切って入れたクッキーは取り合いになる程に受けた。
ルイーゼは自分が使ってもよいと言われていたお金の殆どをお菓子作りの為に使った。
そんな事をしていれば家族や周りの貴族からは『王子に捨てられて頭がおかしくなったのかもしれない』と思われたりもしたのだが、そんな貴族たちの思いとは裏腹に平民たちの中でのルイーゼの知名度は上がっていった。
それに苛立ちを覚えたのがカミラだった。
自分が次期王妃となるのに平民はルイーゼ様ルイーゼ様と笑っている。いくらそれを言っているのが孤児や施しを求める程の下賤な者たちでも自国の国民には変わりはない。
本来ならば次期王妃であるカミラを賛美すべき口でルイーゼを称賛している人たちにカミラは不満を募らせていった。
ルイーゼは積極的に自分の足でクッキーを配っていた。
教会のバザーで自ら接客する侯爵令嬢を平民たちは心優しき聖女を見るような目で見守った。
街に出る時のルイーゼは自分の身分がバレないように侍女たちと一緒に平民の女性の服装をしていたのだが、その立ち振る舞いや肌や髪の美しさから見た人全員に直ぐにバレていた。直ぐ側に冒険者風の屈強な男たち──立ち振る舞いがどう見ても騎士──がいた事もバレる理由ではあったが。
だがそんな風に『貴族をひけらかして施しをする』のではなく、『皆に馴染む努力をして平民では手に入り難い物を格安で売ってくれる』ルイーゼの行いに、平民たちは親近感と感謝の気持ちを募らせていった。
「ロッチ侯爵家のルイーゼ様って素敵ね」
「ルイーゼ様のクッキーは世界一美味しいの」
「ルイーゼ様ほど優しい貴族様はいないんじゃないか?」
「え? ルイーゼ様が傷物? 何言ってんだ。それが本当なら相手の男は見る目がないな」
「ルイーゼ様が次期当主様になるならロッチ侯爵領に移り住もうかしら」
「ルイーゼ様は俺たちの目線に立ってくれるんだ」
人々の口から口に伝わるルイーゼの話はいつの間にかルイーゼを特別な存在のように語り始めた。ルイーゼはクッキーをメインに焼菓子しか配ってはいないのに、だ。
それには流石にルイーゼも持ち上げ過ぎだと、過大評価が過ぎると注意をしたのだが、そんな姿もまた控え目で高位貴族の令嬢とは思えないと言われて褒められた。
そんな風に周りに持て囃されてルイーゼは困ったように照れ笑いをした。
そんなルイーゼの顔を偶然見てしまったカミラはその不愉快極まりないルイーゼの照れ笑いに気分を害して顔を顰めた。
「お義姉様が褒めそやされるなんて、なんて悪い冗談なのかしら。
次期王妃であるわたくしに楯突く行為だと自覚はないの?」
持っていた扇子をギリギリと握りながらカミラは自分の存在には気付きもせずに侍女たちと馬鹿のように笑っているルイーゼを睨みつけた。
◇ ◇ ◇
その日ルイーゼは自分用のクッキーを焼いていた。
ココムナッツをふんだんに使ったクッキーはルイーゼだけでなく侍女やメイドたちにも好評だった。
今回は乾燥ココムナッツのスライスを載せたクッキーを焼いていた。
焼き上がったクッキーを侍女が一枚取って、そのまだ温かく柔らかいクッキーを口に入れた。
「ん〜、これもまた違った食感で良いですね〜」
「まあ、こら! 味見していいって言ってないでしょ!」
「すみませ〜ん。だって我慢できなくて」
「も〜!」
前世を思い出してからのルイーゼは、自分の専属侍女や自分のことを気にかけてくれるメイドたちと主従関係を越えた砕けた仲になっていた。友達と言ってもいい。
お菓子をせっせと作っているルイーゼの横でお菓子ができるのを楽しみにしている侍女たち、という変わった状況にも今は誰もおかしいとは思わない。
専属侍女の二人やお手伝いとしてキッチンに来ていたメイドの二人も、物を運んだり混ぜたり片付けをしたりはするが、ルイーゼが自分がしたくてお菓子作りをしているので、それを見守るのが彼女たちの仕事でもあった。
実のところ、侍女が二人居るのでメイドは一人でもいいのだが、こんな美味しい仕事を一人でやるなんてズルいという事で、ルイーゼがキッチンに入る時のお手伝いはメイドが二人付くことに決まったのだ。
そんな和気あいあいとしたキッチンに突然来訪者があった。
「まぁ! 良い匂いね、お義姉様!」
カミラだった。
「あら、カミラ。どうしてここに?」
突然押しかけてきたカミラとその侍女たちの登場にルイーゼは少し怯む。
まだ焼きたてのクッキーが並んでいるキッチンに大勢の人が来るのはホコリが立つから嫌だなと少しだけ眉間にシワを寄せてルイーゼはカミラたちを見た。
そんなルイーゼを鼻で笑ったカミラは侍女を横目で見て首を少し動かすとカミラの侍女たちはそれに頷いて動き出し、自分たちが持っていた布の敷いた平型のバスケットにキッチンテーブルの上に並んでいたクッキーを手に付くところから取っていった。
「まぁ!? 何をなさるの?!」
驚いたルイーゼよりも侍女がその行為に慌てて静止の声を上げる。しかしカミラの侍女たちは気にせずにバスケットを満たすだけのクッキーを勝手にバスケットの中へと入れてしまった。
「な、何のつもりなの、カミラ?」
困惑した声でルイーゼはカミラに問う。しかしカミラは厭らしく歪めた口元でルイーゼを見た。
「あらイヤだ。ルイーゼお義姉様こそ何を言っておられるの?
わたくしは、わたくしが作った物を取りに来ただけですわ?」
「え?」
ルイーゼにはカミラが何を言い出したのか全く理解できなかった。
◇ ◇ ◇
訳の分からない事を言い出したカミラにその場に居たルイーゼ側の全員が混乱した。
ルイーゼの侍女が焦りを顔に出したままでカミラに問う。
「な、何を言っておられるのですか?」
そんな侍女を座った目で見返したカミラが不機嫌を顔に出して答えた。
「貴女たちこそ何を言っているの?
このクッキーはわたくしが作ったものだと言っているのよ?」
その答えに侍女やルイーゼ全員が更に混乱する。
「な、何を言っておられるのですか?!
これはルイーゼお嬢様がお作りになられた物ですわ!?」
侍女の反論にカミラは一切動じることなく胸を張って鼻を鳴らした。
「いいえ。これはわたくしが作った物です。
わたくし、カミラが手作りしたクッキーですわ」
はっきりとそう自信満々に言い切ったカミラを、ルイーゼは唖然とした表情で見つめるしかなかった。
そんなルイーゼを一瞥してカミラは勝ち誇った笑みで立ち去った。あまりの出来事にその場に居た全員が追いかける気にもなれなかった。
意味が分からない。
何がどうなってカミラがあんな事を言い出したのか分からず混乱したルイーゼたちの居るキッチンに、カミラが出て行ったのを見計らったようにさらなる来訪者があった。
義母ナヴィアだった。
ナヴィアは厭らしい笑みを浮かべながらキッチンへと入って来た。
「お義母様……」
ルイーゼはナヴィアの登場に嫌な予感しかしなくて身を縮めた。ルイーゼを嫌っているナヴィアがルイーゼを前にして笑っていることがそれを証明している。
ルイーゼを見てナヴィアが笑う時は、それはルイーゼにとって良くない事をナヴィアが考えている時でしかなかった。
クスクスと笑いながらナヴィアがルイーゼに話しかける。
「聞いたでしょう? これは『カミラが』作った物です。
貴女は、『カミラが作った物を』さも自分が作ったかのように吹聴して平民たちに媚を売っていたのよ?
なんて恥さらしな姉なのでしょうねぇ?」
そのナヴィアの言葉にルイーゼの体は硬直する。さもそれが『事実』かのように語るナヴィアにルイーゼの顔はどんどん白くなっていった。
側で聞いていた侍女たちも聞かされた言葉に青褪め、怒りか恐怖か分からない震えで彼女たちの指先は震えていた。
そんなルイーゼたちの反応を見てナヴィアは更に口角を上げて笑った。
◇ ◇ ◇
義母ナヴィアは、到底家族に向けるものとは思えないような見下した目でルイーゼを見て語りかける。
「カミラは王子に捨てられた義姉を可哀想に思ってそれを許していただけよ?
それなのに、平民にチヤホヤされてそれを忘れてしまった義姉に、困ったカミラが自分の権利を取り戻すと言い出しただけなのよ。
分かる?
本来カミラが受け取るはずの称賛や礼賛を貰って、調子に乗ってしまった様だけれど、それもここまで。
下賤の民の声であっても、それは次期王妃のカミラに向けられなければいけないものなのよ。
だから分かるわよね?
ロッチ侯爵家で作られた焼菓子は全てカミラが作った物。
貴女はそれを自分が作ったと嘘を吐いていたの。
本来ならば罰を与えるところだけど、カミラの為に大目に見てあげるわ。
だから貴女も理解してわきまえなさい。
貴女はカミラを手伝っただけ。
これから誰に何を聞かれても、焼菓子はカミラが作ったものだと言いなさい。
いいわね?」
ナヴィアの圧の籠もったその言葉にルイーゼは反論することもできずに口を閉ざす。唇を噛み締めていなければ震えてしまいそうだった。
「…………」
悲痛な顔で何も言えなくなってしまったルイーゼを侍女やメイドたちが心配する。
「そ、そんな……お嬢様……」
しかしそんな使用人の態度にナヴィアは眉間にシワを寄せて不満を示した。
そして、侍女たちを見渡して声をかける。
「貴女たちも。使用人が誰に雇われているか思い出しなさい。
カミラの邪魔になるのなら、貴女たちなど直ぐにクビにしてやるから」
「「ヒッ……!」」
ナヴィアの言葉に侍女たちは恐怖に顔を引きつらせた。小さく上がった悲鳴にルイーゼは強張らせた顔を上げてナヴィアを見て叫んだ。
「お止め下さい! 彼女たちはただわたくしを手伝ってくれているだけです!」
「なら、全て貴女の責任ということね。
で? どうするの? 貴女の選択次第では彼女たちも無関係という訳にはいかないでしょう? だって彼女たちは『貴女の』手伝いをしているのですものねぇ」
目を細めてルイーゼを見るナヴィアの目を見ていられなくてルイーゼは視線を逸らす。心配げに自分を見てくる侍女たちの視線が痛いほど分かってルイーゼは一度目を閉じた。
そして眉間にシワを寄せたままで目を開けたルイーゼは、しっかりとナヴィアと目を合わせた。
「……わかりました。
“お菓子はカミラが作った物”です。
わたくしはただ“その手伝いをしていた”だけ……そうちゃんと、皆に伝えます……」
そう言ったルイーゼの言葉に、ナヴィアはニンマリと笑った。
「そうよ。分かっているわね。
素晴らしいのはカミラなの。
皆に褒めそやされるのはカミラただ一人。
貴女じゃないわ」
釘を刺すように言われた言葉にルイーゼは目を閉じる。
「はい」
弱々しく紡がれた返事を侍女たちは沈痛な面持ちで聞いていた。
キッチン内に満ちた悲愴感など全く意に介さずに、ナヴィアはルイーゼの返事を聞いて口元に弧を描いて笑っていた。
「分かっているのならいいのよ。
じゃぁこれからもカミラの手伝いとしてお菓子作りを頑張りなさい。
カミラの為にね」
「はい、お義母様……」
ルイーゼは去っていくナヴィアの後ろ姿に頭を下げて見送ることしかできなかった。
嫌がったところで勝つ見込みはないどころか、最悪侍女たちが解雇される恐れがあった。
侍女やメイドたちも頭を下げながら何もできない悔しさに顔を歪ませていた。
◇ ◇ ◇
カミラは自分の婚約者となったジャスティンに会う為に王城の庭園のガゼボに来ていた。
まだジャスティンは来ていない。
カミラは鼻歌を歌うように侍女やメイドたちに指示を出していた。
「お菓子はこのクッキーにして頂戴。
お茶はそうね……このクッキーならハニバリー茶が合いそうね。それを用意して頂戴」
そう言いながらカミラはルイーゼから奪ったクッキーを一枚食べていた。
あまりこの国では食べないような珍しいクッキーだった。味もカミラが初めて食べた味だった。
正直言って美味しい……悔しいけどクッキーはとても美味しくてカミラはイラッとした。
だがクッキーが美味しければ美味しいほどにカミラの株が上がる。今後はこのクッキーはカミラが作った物となるのだ。ルイーゼやその周りが何を言おうとも、ルイーゼが作る焼菓子の称賛は全てカミラの物となる。それか可笑しくてカミラは口角を吊り上げた。
「ごめん。遅れたね」
ジャスティンがガゼボに現れてカミラは優雅にお辞儀をする。
「ご機嫌よう、ジャスティン様。
わたくし時間など気にしませんわ。むしろジャスティン様を待っていられる時間が長くてわたくし心が浮き立って幸せですの」
心から幸せそうに頬を染めて微笑むカミラにジャスティンの頬も緩む。
「ふふ、そんな風に言ってくれると嬉しいよ」
手が触れ合う位置で向かい合って座る二人は、遠目から見ても仲がわかる程に幸せそうだった。
そんな、愛し合う二人のお茶会が始まった。
◇
「ジャスティン様。
お恥ずかしながら、今日のお茶請けはわたくしが作った物ですの……」
「これをカミラが?」
ジャスティンは自分の前の皿の上に置かれたクッキーを見て少し意外そうな表情を作って微笑んだ。
「はい。実はわたくし、昔からお菓子作りが密かな趣味でして……宮廷の料理人の腕には到底及びませんが、食べてくれた人たちみんなに褒められますのよ?
それを是非ジャスティン様にも食べて頂きたくて……」
「そんな趣味があったなんて知らなかったな。
そういえば、最近市井で何やらルイーゼのお菓子なるものが話題になると聞いたような気がするが」
ジャスティンの言葉を聞いて途端にカミラが暗い顔をする。それを見てジャスティンは驚いた。
カミラは泣き出しそうな顔でジャスティンを見ると少しだけ言い出すのを戸惑う様に唇を振るわせた後、意を決して口を開いた。
「実は……それはお義姉様がわたくしの作ったお菓子を孤児院などに配る時に、作った者をはっきりと伝えなかった所為で起きた間違いなのです!」
「え?」
「わたくしは最近忙しくて孤児院へ行く時間が取れなくて……代わりに時間ができたお義姉様に配っていただけるようにお願いしていたのです……
それがいつの間にか…………」
グスンッと鼻を鳴らして目を伏せたカミラをジャスティンは痛ましそうに見つめる。
「ルイーゼがそんなことを……」
カミラの言葉を聞いて、何が起きているのか想像できたジャスティンは我が事のように悔しげに顔を顰めた。
そんなジャスティンに眉尻を下げた笑みで弱々しく微笑んだカミラが、そっとジャスティンの手に自分の手を添えた。
「良いのです……
お義姉様は口下手なところがありますから……きっと誤解を受けてしまったんでしょうね……
わたくしは……気にしておりませんわ……」
フフッ、と笑ったカミラの笑顔にジャスティンの心が痛む。
「カミラは優しいね」
それに比べてルイーゼのなんて卑劣な事かとジャスティンは忌まわしく思った。
◇ ◇ ◇
「そんな事より、どうぞ食べてみて下さいませ!
ジャスティン様の為に焼きましたのよ!」
場の空気を変えようと、カミラが表情を明るくしてジャスティンにクッキーを勧めた。
テーブルの上にはカミラが持ってきたバスケットも置いてあり、その中にはまだ皿に載っていないクッキーも見える。その美味しそうな見た目にジャスティンの食欲もそそられた。
「私の為に作ってくれたのか。嬉しいな。
では、いただくとしよう」
そう言ってジャスティンは皿からクッキーを一枚取って食べた。
サクッといい音がした。
「ん! 美味いな!
……いつか……食べたことがある、味がするな……いつだったかなぁ……」
クッキーの味を堪能した後にそんな事を言いながら記憶を思い出そうと首を捻ったジャスティンにカミラは少し慌てる。
「そ、そうなのですか?」
不思議そうな顔をしながらもカミラは内心少しだけ焦っていた。万が一ルイーゼとの共有の記憶であれば、言い訳をするのが面倒臭くなるからだ。
だがジャスティンはそんなカミラには気づくことはなく、自分の遠い記憶を不思議がりながらまたクッキーを食べた。
口の中のクッキーが無くなるとお茶を一口飲んでジャスティンは納得するように小さく頷いてからカミラを見た。
「あぁ、前に味わったことのある味だ。
これは何の味なんだい?」
その質問にカミラは困ったように笑った。
「え?! あ、今日は何を混ぜたのだったのかしら……?! フフフ、ジャスティン様のことばかりを考えてしまっていた所為で、名前が直ぐに出てきませんわっ!」
苦し紛れにそうはぐらかすカミラにジャスティンは気付かない。
そうしてカミラはバスケットからまた数枚のクッキーをジャスティンの皿の上に載せて、ジャスティンに甘えるように微笑んだ。
「そんなことよりたくさん食べて下さいな! まだまだたくさんありますのよ!」
そう言って自分の分のクッキーを美味しそうに食べるカミラに釣られるように、ジャスティンも笑いながらクッキーを口に入れた。
カミラの用意してくれたクッキーは何枚食べても飽きることはなく、むしろ更に手が出る美味しさだった。用意されていたお茶と合わせて食べるとまた違った味わいがあって更に美味しくなった。
カミラもクッキーを食べて幸せそうに笑う。
ジャスティンはその時間がとても愛おしくなり、幸せに浸って微笑んだ。
◇
カミラとジャスティンが談笑を始めて少し経った頃、ジャスティンがなんだかソワソワとした感じで落ち着きがなくなった。
「ん、……ん?」
喉を気にした様子を出すジャスティンにカミラも不思議に思う。
「どうされたのですか?」
「いや……、なんでもない…………、と、思うんだけど…………ん〜? なんだろう……?」
ん、ん、と咳払いをするように喉の違和感を感じている様子を見せるジャスティンに、カミラも心配になってジャスティンの顔を窺った。
ジャスティンは大丈夫そうに振る舞うがそんな様子を見せるジャスティンを見るのは初めてだったので、カミラも不安になった。
そして、少しお茶を飲んで落ち着こうとお茶を飲んだジャスティンが、椅子の背もたれに背を預けて顔を上を向けて大きく息を吐いた。
そんなジャスティンを見ていたカミラがあることに気付く。
「あら? ……ジャスティン様、こんなところに虫刺されが……」
「え?」
カミラが見つけたのはジャスティンの首元に出来た少し平べったい感じの虫刺されの痕だった。
ピンク色のそれは一見ただの虫刺されにしか見えない。
「あれ? いつの間にこんなところを刺されたのかな?」
そう言いながら首を掻いたジャスティンのその額にまた虫刺されの痕を見つけてカミラは目を見張った。
「あ、ジャスティン様。こんなところにも……」
「え?」
え? え? ジャスティンとカミラがそんな反応をしている事を不審に思った侍女や執事がジャスティンたちのいるガゼボの中に入ってくる。
そして執事が目にしたのは、
顔や首筋や手の甲までもが赤い腫れで埋め尽くされたジャスティンの姿だった。
「で、殿下っ!?」
「キャァ!?」
「ジャスティン様っ?!」
一気に周りが騒ぎになるがジャスティンはそれどころではない。
赤くなっていると気付いて急に身体が痒くなったが、痒いだけではなくなんだか体中に違和感があった。
なんだか息が上がってきたのに、何故か息が上手く吸えない。自然とハッハッハッと短い呼吸を繰り返してしまうが、それでも空気が入ってこない。
「はっ?! は、……な、なに、が……?
か、カミ、ラ……?」
自分の向かいの席に座っていたカミラが自分の側に駆け寄ってきて身体を支えてくれていた。そんなカミラを見上げて、ジャスティンは心底混乱した顔を向けた。
カミラも何が起きたのかさっぱり分からない。
ただジャスティンを支えることしかできないカミラに王宮付きの侍女の声が耳に入った。
「ど、……毒……っ?!」
「えっ?!?」
驚いて声のした方を見たカミラの腕をジャスティンが強く掴む。
その痛みに顔を歪めたカミラが慌ててジャスティンを見ると、ジャスティンは困惑した表情でカミラを凝視していた。
そして……
「カミ、ラ……どうし…………、っ!?!」
ジャスティンは自分の両手で喉を押さえると、グッと身体を曲げてそのまま倒れてしまった。悲鳴が辺りから上がる。
慌てて執事がジャスティンの体を抱き上げ顔を上に向けると、ジャスティンは泡を吹いて気絶していた。
「!? 殿下っ!!!!」
短く急ぐようにヒュゥヒュゥと息はしている様だったがどう見ても危険な状態だった。
「ヒッ……! ジャ、ジャスティン様ぁ!!!」
カミラが半泣きになりながらジャスティンの名を呼ぶ。
執事は緊急事態に顔を白くして大慌てで周りに指示を飛ばした。
「早く医者を!!
殿下を室内へ運べ!!!」
体格の良い護衛騎士が急いでジャスティンを抱き上げて王城へと走って行った。他の使用人たちも全員青い顔をしてジャスティンに付いて行く。
「あ……、あ…………っ!」
混乱して腰の抜けたカミラがその場でしゃがみ込む。
何が起こったのか全く分からなかった。ただジャスティンが突然倒れたということだけがカミラには理解できて、ただただ混乱した。
そんなカミラを周りに指示を出していた執事が見下ろしていた。
「…………」
無言の中で残っていた王宮騎士たちが僅かに動く。
その事にハッと気付いたカミラ付きの侍女がお嬢様と声を掛けようとする前に、執事や騎士たちが動いた。
「カミラ様……
お話をお聞きしても宜しいですかな?」
「……え?」
カミラはそこでやっと、自分が王宮騎士たちに囲まれていることに気付いた。
「え? な? なんなの? 何のつもりです?!」
カミラはその場で王宮騎士たちに捕えられた。