心から愛しているあなたから別れを告げられるのは悲しいですが、それどころではない事情がありまして。
「……どうか、落ち着いて聞いてほしい」
神妙な面持ちで、ミッチェルが呟く。目の前に座るエノーラが、はい、と答える。
(……想いを伝えてしまえば、きっと、エノーラは泣いてしまうだろうな)
ミッチェルの胸がずきりと痛む。告げる前から、罪悪感で押し潰されそうになる。
──けれど、言わなければ。
「……ごめん。ぼくは、きみではない人を愛してしまったんだ」
まともに顔が見れず、ミッチェルはうつ向いたままそう告げた。すると間を置くことなくエノーラが「はい」と返答した。その声色からは、悲しみとか、驚きとか、そういったものは一切感じられなかった。
「……えっと。それだけ?」
思わず顔をあげたミッチェルは、エノーラを見ながら、ぽかんと訊ねた。もう一度エノーラは、はい、と確かに答えた。
「婚約解消でも何でも受け入れます。何なら、お二人の幸せもお祈りします──心から、とは言いきれませんが」
言ってから、エノーラは後悔するように息を吐いた。このときはじめてミッチェルは気付いた。エノーラの顔色が、僅かながらに悪いことに。
「エノーラ……きみ、顔色が」
だが、ミッチェルの科白に被せるようにして、エノーラは驚くべきことを言ってきた。
「……いえ、きっとわたしがこうだから駄目なのでしょうね。ミッチェルが愛する方と結婚できるよう、おじさまとお父様に、わたしからもお願いしてみます」
ミッチェルは、目を見張った。エノーラと会うのは、王都にある王立学園に入学してからはこれで二度目。前に会ったのは、三ヶ月前のことだった。そのときエノーラは、確かに、ミッチェルのことを愛してくれていた。帰省に誰より喜んでくれて、一日中、くっついて離れなかった。そのときにはすでに、アグネという愛しい存在がミッチェルの心にいたものの、まだエノーラと別れてまで一緒になろうという深い想いも、決意もなかった。
「ちょ、ちょっと待って」
あまりに呆気ない、というより、聞き分けがよすぎる。どころか、まるで──。
「ショ、ショックじゃないの?」
言える立場ではない。わかってはいたが、ミッチェルは問わずにはいられなかった。もしやこの三ヶ月の間に、何らかの理由で、ミッチェルへの愛情がなくなってしまったのか。それともミッチェルと同様、誰か別の人を愛してしまったのか。
勝手過ぎるとは理解しているものの、その二つの可能性に、ミッチェルの胸が痛んだ。でも。
「ショックでしたよ。泣きわめきたいほどに……」
返ってきたのは、そんな言葉で。
ミッチェルはますます、混乱した。
♢♢♢♢♢
十六歳の伯爵令息であるミッチェルには、一つ年下の婚約者がいた。
伯爵令嬢である、エノーラだ。親同士が親しいこともあり、小さな頃から親交があった。長男であるミッチェルのもとに、兄がいるエノーラが嫁いでくる。それをミッチェルもエノーラも疑ってはいなかったし、エノーラが王立学園を卒業すると同時に、結婚することは決まっていた。
ミッチェルもエノーラを愛していたし、エノーラもまた、ミッチェルを愛していた。
けれど、一年早く王立学園に入学したミッチェルは、出逢ってしまった。これまでいかに狭い世界で生きてきたかを実感し、痛感した。
エノーラを愛していると思っていた。でもそれは、言ってしまえば妹に対する情に近かった。
同じクラスの、子爵令嬢であるアグネとはじめて言葉を交わしたのは、入学式の日。エノーラと一つしか違わないのに、妙に大人っぽく見えた。けれど笑顔は可愛らしくて、はじめて胸の高鳴りを覚えた。
まるで運命であったかのように、二人は惹かれ合った。僕にはエノーラがいるのだから。いくら否定しようとも、更に心は燃え上がった。
『例え家を追い出されたとしても、あなたと二人なら、何処ででも生きていけるでしょう』
涙ながらに、アグネが訴える。地位や名誉などいらないと。愛しくてたまらなかった。ここまで愛してくれる女性が、どれほどいるだろう。
もう駄目だと思った。心に嘘はつけない。一人の女を愛するとは、惹かれるとは、こういうことかとはじめて思い知った。エノーラに対する情とはあまりに違いすぎて。こんな想いのまま、エノーラと一緒になどなれない。このままでは、エノーラを傷付けてしまうばかりだ。
そう考えたミッチェルは、学園の休みを利用して、地方に住むエノーラに会いにいった。馬車に揺られながら、どう告げよう。どう言えば、傷付けずにすむか。そんなことばかり考えていた。
ミッチェルは別に、エノーラを嫌いになったわけではない。ただ単に、本当の愛を知ってしまっただけなのだ。
(……泣く、よな。それに父上とブラート伯爵からも、きっと叱られる──どころじゃすまないだろうな)
それでも、決めたのだ。この先の道を、アグネと共に歩いてゆくと。
「……ぼくと別れるなら自害します、とか言わないといいけど」
一人、ため息をつきながら呟く。
昼過ぎに訪れたブラート伯爵の屋敷にいたのは、使用人を除けば、エノーラだけ。ブラート伯爵も伯爵夫人も出掛けていて、留守だった。
エノーラの自室に通されたミッチェルは、重く、口火を切った。頼むから、自害だけはしないでくれ。そう願いながら。
──けれどエノーラの反応は、まるで予想だにしないものだった。
『ショックでしたよ。泣きわめきたいほどに……』
先ほどのエノーラの科白を、頭で繰り返すミッチェル。そうか。ミッチェルはとある可能性を見いだした。
「……三ヶ月前に帰省したとき、きみは、ぼくの様子がおかしいことに勘づいたんだね」
エノーラは答えない。ミッチェルは続けた。
「ブラート伯爵に頼んで、探偵でも雇った? そして王都でのぼくの様子を、逐一報告してもらってたの?」
ミッチェルは、はあ、とため息をついた。
「……そうか、知っていたんだね。アグネとのこと。ということは、ブラート伯爵もこのこと、知ってるんだね?」
これにエノーラは、いいえ、と一言。ミッチェルは瞠目した。
「え……じゃあ、ぼくの推理は間違いってこと? じゃあどうして……」
エノーラは、膝の上に置いてある両こぶしをぐっと握った。
「……そんなこと、どうだっていいじゃないですか。それよりあなたは、アグネという方と幸せになることだけを考えてください」
「そんなわけにはいかないよ。ねえ、エノーラ。本当にどうしたの? 顔色も悪いようだし」
「……わたしを想う心が少しでも残っているのなら、ほうっておいてくれませんか?」
吐き捨てられた言葉に、ミッチェルは焦った。
「──待ってくれ。ぼくはエノーラを嫌いになったわけじゃないんだ。ただ」
「ただ、アグネという方を愛してしまっただけなのですよね? わかっています」
エノーラはすっと立ち上がった。
「もうすぐ、お父様とお母様も戻られると思います。このお話、先にお父様たちに伝えますか? それともおじさまたちからにしますか?」
「……エノーラ。ぼくにはきみが、とても冷静に見える。きみはぼくのこと、本当に愛していたのか?」
はっとしたときには、もう遅い。ミッチェルはその思いを、口に出していた。
(……しまった。ぼくが言える立場ではないのに)
恐る恐る、ミッチェルは目の前に立つエノーラを見上げた。エノーラは表情を変えることなく沈黙し、しばらく経ってから、
「……愛していましたよ」
と、目を細めた。
♢♢♢♢♢
「ふざけるなよ、貴様!!」
──夕刻。
帰宅してきたエノーラの父親と母親は、応接室にいるミッチェルの姿に驚きつつ、ミッチェルの神妙な面持ちに気付き、何かあったのかと心配してくれた。ミッチェルは心苦しくはあったが、エノーラに語った内容そのままに、二人に伝えた。隣に座るエノーラの表情は、あえて見ないようにして。
エノーラの様子がおかしいことも、この二人なら何か知っているかもしれない。そう僅かに期待していたが──結果は、この屋敷を訪れる前に予想していた通りのものになった。
応接室中に響くブラート伯爵の怒号。覚悟はしていたものの、思っていた以上の剣幕に肩がびくっと揺れたが、ミッチェルはどこか安堵していた。
(……そうだ。これが当然の反応なんだ)
憤慨したブラート伯爵が叫ぶ。続けて、ブラート伯爵夫人も声を荒げた。
「別の女を好きになったから、エノーラと別れたいだと?! 貴族同士の婚約をなめるな!!」
「あなたを心から愛するエノーラに何てこと……っ。勝手にもほどがあります!!」
はい。その通りです。
前に座る二人に向かって、ミッチェルが深く深く、頭を下げる。ミッチェルはひたすら、謝罪するしかないと思っていた。
──なのに。
「よいのです、よいのです、お父様。お母様」
焦ったように間に入ってきたのは、エノーラだった。ミッチェルはむろん、ブラート伯爵とブラート伯爵夫人も、驚愕に目を見開いていた。
「……何がよいと言うの、エノーラ。まさかあなた、こんな勝手な男を許すつもりですか?」
ブラート伯爵夫人が席を立ち、エノーラにゆっくり近付く。エノーラは、はい、と頷いた。
「はいって……だってあなた、ミッチェルのこと、大好きだったじゃないですか……なのにどうして、そんなに冷静なの?」
──ああ、やはり。親から見ても、エノーラはどこかおかしいのだ。
ミッチェルはエノーラが心配になり、たまらず口を開いた。
「……エノーラ。ぼくが勝手なのはわかっている。きみを裏切った、ひどい男だ。お願いだから、ぼくを責めてくれ。どれだけ罵られようと構わないから……っ」
これに顔を真っ赤にして怒ったのは、ブラート伯爵とブラート伯爵夫人だった。
「か、勝手なことばかりぬかしおってっっ」
「こんな身勝手な男だったなんて……っ」
二人のこぶしがわなわなと震える。だがそんな二人の怒りをしずめるように口を開いたのは、またもやエノーラだった。
「けれど。お父様、お母様。心とは、自身でもどうにもならないものです。ミッチェルはその気持ちを隠さず、わたしたちに伝えてくれたのです。こうしてみなから責められることも覚悟して」
エノーラが必死に訴える。それは嫌味とか、何かを企んでのことだとは、とうてい思えなかった。
「……エノーラ」
ブラート伯爵夫人が、そっとエノーラを抱き締める。ブラート伯爵はそれを見ながら「──いいのか。ミッチェルと別れても」と問うた。エノーラが頷く。
「お前と婚約中の身でありながら、他の女を好きになったこいつを、許すというのか」
「はい。許します」
「怒りはないのか。悲しくはないのか」
「……悲しくはありますが、怒りはありません」
ブラート伯爵は、再度、念押しするように訊ねた。
「こいつを許し、こいつの願いのままに、おとなしく別れるというのだな?」
エノーラは迷うことなく「はい」と、ゆっくり首を上下に動かした。ブラート伯爵は右手で顔を覆い、背もたれに体重を預けた。
「……お前の気持ちはわかった」
「ちょっと、あなた!」
目をむくブラート伯爵夫人。ブラート伯爵は落ち着け、というように軽く右手をあげた。
「──ミッチェル。このこと、まだヴォルフ伯爵には伝えていないのだな?」
ブラート伯爵に、怒りとも、憎しみともとれる双眸を向けられたミッチェルが、姿勢を正しながら、はい、と答えた。
「……誰より先に、エノーラに伝えなければと思ったので」
「そうか。なら、今すぐにヴォルフ伯爵の屋敷に向かうとしよう」
吐き捨てるようなブラート伯爵の科白に、ミッチェルは目を丸くした。
「え……ブラート伯爵も一緒に、ですか?」
ブラート伯爵はくわっと「貴族の婚約は当人たちだけの問題ではないのだ!!」と、目を吊り上げた。
「この腹の立つ話し合いを一刻も早く終わらせ、貴様の顔を二度と見なくてすむように行くのだ。そのぐらい察せんのか。阿呆が」
馬車の用意をしろ。ブラート伯爵が傍に控えている侍従に命じた。すると。
「お父様。わたしも同行します」
エノーラが、そう声をあげた。
「駄目だ。お前はここで待っていなさい。どう転んでも、お前にとっては辛い話し合いになるだけだ」
「そうですよ、エノーラ。お母様とここで待ちましょう?」
諭すような両親の口調にも、エノーラは頭をふった。
「いいえ、行きます。わたしは決して怒ってはいないことと、ミッチェルとの婚約を取り止めることに合意していることをおじさま──ヴォルフ伯爵に伝えなくてはなりませんので」
これには、この場にいる三人が瞠目した。
「ば、馬鹿を言うな、エノーラ! これのどこが合意だ。ミッチェルの身勝手な理由によるこれは、どう考えても婚約破棄だ!」
ブラート伯爵がエノーラの両肩に手を置き、声をあげる。一方のブラート伯爵夫人は、ミッチェルに鋭い視線を向けていた。
「……あなた、エノーラに何を吹き込んだのです」
ミッチェルが青い顔をしながら「な、何も……していません」と混乱しながら答える。そう問われても仕方ない、という思いはあるものの、本当にわからないから答えようがないのだ。
「お母様。わたしは何も吹き込まれてなどいません。全て、わたしの意思です。言ったでしょう? ミッチェルは誠実に気持ちを打ち明けてくれたのですから、罰など必要ありません」
真剣に、真っ直ぐな双眸でエノーラが語る。それは罵られるよりも、喚かれるよりも、ミッチェルの心をより深く抉った。
「……エノーラ。裏切り者のぼくのことなんか、庇わなくていいんだ。責めてくれよ……頼むから」
懇願しても、エノーラは「できません」と首を左右にふるだけ。ブラート伯爵はこれ以上押し問答しても無駄だと、ため息をついた。
「──もういい。日も沈みはじめた。早く出かけるぞ」
ミッチェルが一人、馬車に揺られる。前を走る馬車には、ブラート伯爵とブラート伯爵夫人。そしてエノーラが乗っている。お前はどちらの馬車に乗るんだ。ブラート伯爵の質問に、エノーラは迷うことなく「もちろん、お父様たちと同じ馬車です」と答えた。これにミッチェルは勝手だと知りながらも、密かにショックを受けていた。
(二人で馬車に乗れるのは、これが最後だったかもしれないのに……)
思う資格もないのは理解していたが、それでも感じる寂しさは、否定できなかった。
♢♢♢♢♢
ヴォルフ伯爵の屋敷に着いたのは、午後九時が過ぎたころだった。
「夜分にすまない、と言いたいところだが。原因は貴殿の息子にあるからな。謝罪はなしだ」
ブラート伯爵の第一声に、ミッチェルの両親はそろって怪訝な顔をした。約束もなしに突然訪ねてきた四人にただならぬ雰囲気を感じ、立ち話もなんだからと、ヴォルフ伯爵は応接室へとみなを案内した。
「──それで。我が息子が原因とは、いったい」
エノーラの両親の機嫌が最悪なのが見てとれ、ヴォルフ伯爵が困惑しながら質問する。隣に座るヴォルフ伯爵夫人も、訳がわからずそわそわとしている。二人の目の前にはエノーラとエノーラの両親が座っていたが、ミッチェルは立ったままだ。
ブラート伯爵がミッチェルに向かって、くいっと顎を動かした。さっさと言え。暗にそう促され、ミッチェルは腰を折り、口火を切った。
「──父上。母上。お許しください。ぼくは、エノーラ以外の女性を愛してしまいました」
ミッチェルの両親がはち切れんばかりに目を見開く。ミッチェルは頭を下げたまま続けた。
「期待を裏切り、申し訳ございません。ただぼくは、知ってしまったのです。一人の女性を、恋愛対象として愛するとは、こういうことなのかと。愛する人と一緒になれないのなら、ヴォルフ伯爵家から出る覚悟もしています」
ヴォルフ伯爵が声をなくす。ヴォルフ伯爵夫人は「ミッチェル……あなた、何てひどいことを……それはあまりにエノーラに対して失礼すぎますよ……」と、顔面蒼白になりながら震えはじめた。これでは婚約者のエノーラを女として見たことなど一度もない、と言っているようなものだ。失礼ではすまされない。
「──ご理解いただけたか。ヴォルフ伯爵」
静かな怒りを含ませた低い声色で、ブラート伯爵は吐き捨てた。
「そんなわけで、こいつはエノーラとの婚約を取り止めたいそうだ。貴族同士の婚約をなめているとしか思えんが、私としても、もはやこんな馬鹿に大事な娘をやろうとは思わん。喜んで、婚約破棄してやろう」
「……っ。待ってください、お父様。わたしは」
口を挟もうとするエノーラの肩に、ブラート伯爵は優しく手を置いた。
「エノーラ。あとは私に任せて、黙っていなさい。悪いようにはしないから」
「嫌です。だってわたしは、婚約の取り止めに合意しています。だから此度のことは、婚約破棄ではなく、婚約解消です」
?!
寝耳に水のようなエノーラの科白に、ヴォルフ伯爵とヴォルフ伯爵夫人は、思わず立ち上がっていた。
「ど、どういうことなの? もしやあなたにも、他に好きな人が……?」
おろおろするヴォルフ伯爵夫人に、エノーラは、否定するように首を左右にふった。
「いいえ。わたしは今でも、ミッチェルのことを愛しています。けれどミッチェルの中にはもう、別の愛する人がいる。それはもう、仕方のないことなのです」
「仕方ない……?」
「だってそうでしょう? それにミッチェルは、誠実だと思います。こうして正直に、みんなの前で気持ちを打ち明けてくれたのだから。だからわたしも、誠実にミッチェルと向き合いたいのです。罰など何も望んでいません」
エノーラはそのまま、必死に自身の気持ちを訴え続けた。
「婚約破棄だと、慰謝料を支払わなくてはいけませんよね? それだと、ヴォルフ伯爵に負担をかけてしまいますし……ミッチェルもきっと、ずっと責められてしまいます。わたしはそれを考えるだけで、とても辛いのです」
どうしてそこまで。その場にいる全員が思ったことだろう。たまらず口に出したのは──エノーラの母親であるブラート伯爵夫人だった。
「エノーラ……どうしてそこまでミッチェルを庇うの? あなたを裏切った男なのよ? あなたには、誰より怒る権利があるのよ?」
エノーラは少し黙考したあと、ゆっくりと口を開いた。
「……それは、ミッチェルを誰より愛しているから。だから誰より、幸せになってもらいたい。愛する方と、一緒に生きてほしい。わたしの願いはただ、それだけです」
「エノーラ……」
ミッチェルの視界がにじむ。ぼくはこんなに愛されていたという喜びと同じぐらい、胸が痛んだ。重く、深く、エノーラの言葉が突き刺さる。
「──こんなに心優しい娘に想われながら、この馬鹿息子が……っっ」
ヴォルフ伯爵が俯きながらうなるように吐露する。隣ではヴォルフ伯爵夫人が、ハンカチで涙を拭っていた。
「……相手の女は、貴族令嬢なのか」
ヴォルフ伯爵が頭を抱えながら問うと、ミッチェルは、はい、と答えた。
「子爵令嬢です」
「……いずれ爵位を継ぐお前には、相応しくない家柄だな」
「わかっております。ぼくは爵位など、欲しくはありません。ですから」
物語の主人公にでもなったつもりなのか。ミッチェルの瞳は、腹が立つほどに澄んでいた。貴族の長男という立場を馬鹿にし、蔑ろにするにもほどがある。ヴォルフ伯爵が「き、貴様という奴は……っ」と拳を震わし、その腕を振り上げた。
咄嗟に目を瞑るミッチェルを庇うように、ヴォルフ伯爵の目の前に立ちはだかったのは、エノーラだった。胸の前で祈るように「お願いします、ヴォルフ伯爵。わたしを憐れに思うのなら、どうか二人が幸せになる道をお示しください」と手を組んだ。
「…………っ」
言葉をなくしたのは、ミッチェルだけではない。ヴォルフ伯爵も同じだった。拳をおろし、顔を横に背ける。
しばらくして。
「──爵位は、弟のネイサンに継がせる。学園を卒業するまでは面倒を見てやるが、そのあとはヴォルフの姓を捨て、その愛する女とやらと結婚でも何でもして、好きに生きればいい」
ヴォルフ伯爵が吐き捨てるように呟いた。え。ミッチェルとエノーラの声が重なった。
「父上、それって……学園を卒業するまでは、父上の息子であることを許してくれるということですか?」
最悪、今すぐに屋敷を追い出されることすら覚悟していたミッチェルは、身体から力が抜けていくのを感じた。
「言っておくが、お前のためではない──それでいいか、エノーラ」
エノーラの顔がぱっと輝く。
「は、はい!」
「ただ、愚息がきみを傷付けた代償はせめて支払わせてくれないか……お金の問題ではないと承知しているが、他に償いが思いつかない──頼む」
ヴォルフ伯爵が頭を下げる。ヴォルフ伯爵夫人も、同様に。エノーラは迷う仕草を見せたものの、やがて、わかりました、と小さく笑った。
それからエノーラはミッチェルに顔を向け、視線を交差させた。
「ミッチェル。どうか、愛する方とお幸せに──さよなら」
ゆっくりと腰を折るエノーラ。ミッチェルはエノーラの名を小さく呼び、無意識に手を伸ばしていた。それを見逃すことなく「近付くな!」と、ブラート伯爵が割って入った。
「ブ、ブラート伯爵……」
「エノーラの別れの言葉を聞いただろう。いいか。じきにエノーラも、貴様と同じ学園に入学する。だが、決して話しかけるな。他人のふりをしていろ。ああ、もう婚約者ではないのだから、まさに他人だったな」
「で、ですが……エノーラが大切な幼馴染みであることはかわりありません……ですからっ」
ブラート伯爵が舌打ちする。
「──だ、そうだが。どうだ、エノーラ」
「いいえ。こうなった以上は、もうミッチェル様を頼ろうとは思いません。ですからわたしのことなど、気にかけてもらわなくてもかまいません。幼馴染みという関係も、どうか忘れてください」
「エ、エノーラ……?」
何があろうとミッチェルを愛し、味方であろうとしたエノーラから、急激な拒絶を感じたミッチェルが戸惑う。
「そんな寂しいことを言わないでくれ……ぼくがきみのことを、本当の妹のように大切に想っていたのは本当なんだ。だから」
「今日を限りに、その想いは忘れてもらってかまいません。それでは」
エノーラは頭を下げ、もはや何の未練もないように、応接室からブラート伯爵夫人と共に出ていった。ブラート伯爵は「書類ができたら連絡を」とヴォルフ伯爵に一言告げ、同じように応接室から出ていった。
「──言っておきますが。この屋敷にはもう、あなたの居場所などないですからね」
母親の言葉に、ミッチェルが、はい、と答える。それぐらいのことは、想定済みだ。将来のことも、ちゃんと考えている。勉学が好きなので、もし学園にまだ通わせてもらえるのなら、文官を目指そうと考えていた。
それが無理なら、例えどんな職だろうと、アグネのために死ぬ気で働こうと考えていた。
(……エノーラ。すべて、きみのおかげだよ。ありがとう)
ああは言っていたが、おそらく学園で度々顔を合わせることがあれば、話す機会などいくらでもおとずれるだろう。王都暮らしが寂しくて、きっと頼ってくるはずだ。そのときに改めて、礼を言おう。そして今度は、ぼくがエノーラの絶対的な味方になるのだ。
穏やかな表情の息子に、ヴォルフ伯爵とヴォルフ伯爵夫人が苦虫を噛み潰したような顔をする。
「……貴様も、早く出ていけ」
「ええ。一刻も早くね」
両親の冷たい言葉にミッチェルの顔が歪む。けれど自業自得なのは理解していたので、ミッチェルは深く頭を下げた。
「……はい。親不孝な真似をして、申し訳ありません。学費や慰謝料も、将来、少しずつ返していければと……」
「──いらん! とっとと出ていけ!!」
ばたん!
勢いよく応接室の扉を閉めたヴォルフ伯爵の足音が遠退いていく。ヴォルフ伯爵夫人は最後に射るような双眸をミッチェル向け、静かにその場を去っていった。
「お母様……わたし、うまくやれたでしょうか。これで全てがうまくいくのでしょうか」
隣に座る母親の肩に、疲れたようにもたれかかり、馬車に揺られるエノーラが吐露した。母親は眉根を寄せた。
「……それは、ミッチェルのことですか?」
「はい……これでミッチェルは、幸せになれますか?」
答えたのは、正面に座るブラート伯爵だった。
「少なくとも、お前の必死の訴えがなければ、もっと悲惨なことになっていただろうよ。あの場でヴォルフ伯爵家から除籍され、学園にも居られなくなり、路頭に迷う、とかな。あいつはそれも覚悟していたのかもしれんが、その先の見通しが甘すぎる。世間知らずの貴族令息のあいつが、一人で生きていけるほど、世の中は甘くない」
そうですか。
エノーラが力なく呟く。母親はそんなエノーラの手を優しく握った。
「疲れたでしょう。少し眠りなさい。屋敷に着いたら起こしてあげますよ」
「……けれどお母様。わたし、眠るのが怖いのです」
「ミッチェルが夢に出てくるかもしれないからですか?」
「……はい」
それでもエノーラの両瞼は、とろんと重く閉じていく。逆らえない。
──ああ、けれど。
と、エノーラは胸中で思う。
いっそ全てが夢だったら、どんなに良かったか。それとも気付いていないだけで、わたしはいま、夢をさ迷っている最中なのだろうか。
その想いを最後に、エノーラの意識は途切れた。
♢♢♢♢♢
「……どうか、落ち着いて聞いてほしい」
神妙な面持ちで、ミッチェルが呟く。目の前に座るエノーラが、はい、と答える。
突然王都から戻ってきた、愛しいミッチェル。三ヶ月ぶりの再会に喜ぶエノーラとは違い、ミッチェルのまとう空気は重い。
「……ごめん。ぼくは、きみではない人を愛してしまったんだ」
ミッチェルはうつ向いたままそう告げた。エノーラは、何を言われたのか、すぐには理解できなかった。
「あの……それはどういうことですか?」
呆然としながら訊ねる。ミッチェルは頭を下げたまま「きみとの婚約を取り止めたい……つまりは、別れたいんだ」と言った。しばらくの沈黙のあと、エノーラはゆっくりと立ち上がった。
「……嫌です」
拒否するエノーラに、ミッチェルが「ごめん……ごめん、エノーラ」とひたすら謝罪する。エノーラの頬に、一筋の涙がこぼれた。
「…………っ」
エノーラが部屋を飛び出す。ミッチェルが慌てて追いかける。
「エノーラ! 待ってくれ!」
「嫌です! わたしは絶対に別れたくありません!」
涙で視界が滲む。一階に続く階段を駆けおりる。後ろでミッチェルがエノーラの名を呼ぶ。焦り、エノーラは階段を踏み外した。
「──エノーラ!!」
残り半分の階段を、転げ落ちるエノーラ。床に落ち、やっと身体が止まった。とたんに身体中を、痛みが走った。
「……痛い……痛い、よお……」
ぼろぼろと涙を流すエノーラ。ミッチェルが真っ青な顔で駆け寄ってくる。エノーラの顔を心配そうに覗き込むミッチェルの身体は、小刻みに震えていた。
(……わたしのこと、そんなに心配して……)
嬉しい。エノーラが胸中で呟く。でも。
「……こんな。こんなことが父上やブラート伯爵に知られたら、どうなるか」
もはやパニック状態なのだろう。エノーラが傍にいることも忘れ、ミッチェルが震えながら吐露する。
エノーラの涙が、感情と共にふっと止まった。そこから急に意識が遠退いていき──気付けばエノーラは、自室の寝台の上にいた。
窓から差し込む光は、紛れもなく、朝のものだった。エノーラはあのまま気を失ってしまったのかと考え、寝台をおりた。上着だけをはおり、部屋を飛び出す。
「ああ、驚いた。何です、エノーラ。レディがそんな格好で」
ちょうどエノーラの部屋の前を歩いていた母親が、目を丸くしながら、エノーラを窘めた。あまりにいつもと変わらない様子に、エノーラは母親以上に目を丸くした。
「あの、お母様……ミッチェルは」
「ミッチェル、ですか? あの子なら王都でしょう? それがどうかしたのですか?」
「で、でも。昨日、わたしを訪ねてきて……それで」
「? 昨日は一日、わたくしもあなたも屋敷にいましたが、ミッチェルは訪ねてきてないでしょう?」
そんな。
声をあげようとして、エノーラはようやく気付いた。
(……そうだ。わたし、階段から落ちたはずなのに、身体のどこも痛くない)
どうして。自問自答しながら首を傾げる娘に、母親は苦笑した。
「ミッチェルが恋しくて、ミッチェルの夢でも見たのですか?」
言葉に、はっとした。何だか妙にそれがしっくりきて、エノーラは思わず笑ってしまった。
(そっか、そうだよね。ミッチェルが他の人を愛してしまったあげく、階段から落ちたわたしの心配もせずにあんな自分勝手なことを言うなんて、ありえないもの)
エノーラは姿勢を正し、頬を緩めた。
「お母様、ごめんなさい。どうやらそのようです。でも、あまり良い夢ではなかったですけど」
「それは残念でしたね。けれどもう、ミッチェルとは三ヶ月も会っていないのですから、寂しく思う気持ちもわからないではないです。あなたはミッチェルが大好きですからね」
エノーラは照れながらも「ありがとうございます、お母様」と、安心したように小さく笑った。
けれど昼過ぎにエノーラを訪ねてきたミッチェルは、夢の内容そのままに「……ごめん。ぼくは、きみではない人を愛してしまったんだ」と言った。
夢の中、そのままの流れ。科白。表情。エノーラは目を見張った。
(あれは正夢だったの……?)
別れを告げられ、その場にいることが辛くて、苦しくて。この場から逃げようとした。けれど夢の中のミッチェルを思い出し、自分の心配だけをするミッチェルの姿を絶対に見たくなくて、エノーラは何とか部屋に止まった。
静まり返る部屋。沈黙にたえられなくて、エノーラはたまらず「あ、あの……」と声を絞り出した。
「……なに?」
優しく、ミッチェルが答える。それがたまらなく悲しくて、頬に一筋の涙がこぼれた。
「……どうしても、駄目ですか。別れる以外の道は、ないのでしょうか……」
ミッチェルは苦しそうに「……ごめん」と答えた。
「ぼくも、悩みに悩みぬいた結論なんだ。きみだって、他に愛する人がいる男と一緒になるなんて、嫌だろ? これはきみのためでもあるんだ」
「……わたしのため?」
「そうだよ」
そうなのだろうか。わからない。わかるのは、胸が張り裂けそうなほど、痛むことだけ。
「……しばらく、一人にしてください」
うつ向いたまま呟くと、ミッチェルは、わかった、と部屋を出ていった。
玄関の扉が開く音はしなかったので、おそらくは応接室で、両親の帰りを待つつもりだろう。
エノーラは寝台に倒れこむと、枕に顔を埋め、声をあげて泣きはじめた。
大好きなミッチェル。そんなミッチェルに愛された女性が妬ましく、憎かった。そんな女に出会わなければ良かったのに。そしたらミッチェルと、ずっと一緒にいれたのに。醜い感情に包まれながら、気付けば、エノーラは意識を手放していた。
目を覚ませば朝で、エノーラは流石に寝すぎたと驚いた。何せ、ミッチェルが来たのは昼過ぎ。それから数時間と経たず、眠ってしまったのだから。
──でも。
上半身を起こし、気付いた。自身がきちんと、寝間着を着ていたことに。
(……侍女が着替えさせてくれたのかしら)
しかし、全く覚えがない。いくら何でも深く眠り過ぎだろう。それほど心にダメージを負ったということか。
コンコン。コンコン。
扉がノックされ、エノーラ付きの侍女が名前を告げる。はい、どうぞ。答えると、侍女が扉を開いた。
「おはようございます、エノーラお嬢様」
いつもと変わらぬ侍女の笑み。彼女なりの気遣いなのだろう。変に同情されるよりよっぽど良いと、エノーラも笑って見せた。
「本日、旦那様と奥様はお芝居を見に出かけられますが、エノーラお嬢様はどうされますか?」
エノーラの髪を櫛でときながら、侍女が何の気なしに質問してきた。とたん、エノーラは小首を傾げた。
「昨日行ったばかりなのに、今日も行くのですか?」
侍女は驚いたように、え、と声をあげた。
「昨日は確か……旦那様はお仕事で、奥様は屋敷に居られました、よね?」
確かめるように問う侍女。エノーラは「そ、そんなはず」と、混乱した。またわたしは夢を見たのだろうか。そんな可能性を模索しながら、エノーラは、はっと思いついた。
「今日は、何月何日ですか?」
「え、ええと」
侍女が答えた日付に、エノーラは目を見張った。ミッチェルが三ヶ月ぶりに訪ねてきた日付と一致したからだ。
まさか。
思いつつ、昼を待った。そして訪れてきたミッチェルはまたエノーラに、愛する人ができたと告げてきた。
三度目ともなると、流石に夢だと笑い飛ばすことはできなかった。
「……エノーラ、平気?」
別れを告げたショックからエノーラが黙りこんでしまったと思い込み、ミッチェルが小さく声をかけてくる。でも、とてもじゃないが、平気だと答えるのは無理だった。
(……わたし、ミッチェルから別れを告げられる日を繰り返しているの?)
どうして。なぜ。こんなことが、はたして現実に起こりえるのか。
エノーラの頭がパニックになる。混乱したまま、ミッチェルにそのことを伝えてみる。でも、ミッチェルは信じてくれなかった。
「──エノーラ。悪いけど、そんなことでぼくの気を引こうとするのはやめてくれ。ぼくは真剣なんだ」
ため息をつきながら、そう言われてしまった。エノーラが絶望する。どうして信じてくれないの。泣きながら訴えるが、ミッチェルは取り合わない。そうこうしているうちに、両親が帰ってきた。
「──ブラート伯爵にも、このことを話してくるね」
ミッチェルは逃げるように、部屋を出ていってしまった。エノーラが涙を流しながら、背中を丸め、両腕で自身の身体を抱き締める。
怖い。怖い。怖い。
意識を手放して目が覚めたとき、また今日を繰り返すかもしれない。ずっと、ずっと繰り返すことになったら、どうしよう。ミッチェルや母親。侍女の様子からすると、それに気付いているのは、どうやらエノーラだけ。それが何より恐ろしかった。
──それに。
(……どうして今日なの?)
よりによって、ミッチェルから別れを告げられる日を繰り返すなんて、酷すぎる。
これは何かの罰?
だとしたら、わたしは何をしてしまったのだろう。そして、どうすれば許されるのだろう。
『ぼくは真剣なんだ』
ふっと過った、ミッチェルの真剣な顔。愛する人と共にいたいという純粋な想いを、叶えてあげようとしなかったから。自分が悲しいから。ミッチェルと別れたくないから。
それが、身勝手だと神の怒りにふれてしまったのだろうか。
『これはきみのためでもあるんだ』
ズキズキと痛む頭に、ミッチェルの科白が過る。ミッチェルはわたしを想って全てを打ち明けてくれたのに。わたしは悪い子だ。だから神様が怒っているんだ。そんな考えがエノーラの中にぐるぐる流れる。
『……こんな。こんなことが父上やブラート伯爵に知られたら、どうなるか』
──ああ。だとすれば、あれも夢ではなく、現実に起こったこと。
『──エノーラ。悪いけど、そんなことでぼくの気を引こうとするのはやめてくれ』
──そう。あなたはそんな風に考えるのね。わたしのこと、信じてはくれないのね。
エノーラの心が、ぐちゃぐちゃになっていく。
「……神様。わたしが醜い心を捨て、ミッチェルの幸せを願えば、明日をくれますか」
小さく囁きながら、エノーラは背もたれに体重を預け──静かに目を閉じた。
目が覚めるとそこは、やはり、ミッチェルに別れを告げられる日だった。
エノーラは両親に頼み込み、一緒にお芝居を見に行くことにした。ミッチェルが訪れてくる昼に、屋敷にいたくなかったから。何より、これで何かが変わればと淡い期待をしたからだ。
でも、無駄だった。
夕刻に屋敷に帰宅すると、ミッチェルが待ち構えており、結局は別れを告げられた。わかりましたと諦めに似たかたちでそれを受け入れ、ヴォルフ伯爵家に向かう父親とミッチェルを見送った。そして夜は眠らずに、朝を待つことにした。けれど日付をまたぐころには意識を失っていて、気付けばまた、ミッチェルが屋敷を訪れる日の朝となっていた。
「……逃げても無駄なのですね」
窓からもれる朝日を浴びながら、エノーラが頭を抱える。どうすればいいのだろう。ただ別れを受け入れるだけでは許されないのだろうか。
ヴォルフ伯爵家に向かったあとのことは知らない。もしそこで、愛する人との仲を引き裂かれていたとしたら。そこでミッチェルが絶望したとしたら。
「もしかして、それが原因……?」
ミッチェルを愛する気持ちは、まだエノーラの中に残っていた。でも、この日を繰り返すごとに、それが薄れていくのがわかる。
──ミッチェルと明日。どちらが欲しいか。
答えはすでに、エノーラの中では決まっていた。
「……もし、ミッチェルが愛する方と幸せになりたいという強い願いが、この繰り返しを無意識に作り出しているのだとしたら」
一つの可能性を口に出してみる。例えそうにしろ、神の罰にしろ。どちらにしても、しなければならないことは、きっと同じ。
──ミッチェルが愛する方と幸せになれる道を示さない限り、きっとわたしは、この日から抜け出すことはできないのでしょう。
ならば、例えどれほど滑稽でも、二人が幸せになれるように全力を尽くそう。
ミッチェルを失うよりも、明日を失うことの方が、よほど恐ろしいことだと知ってしまったから。
♢♢♢♢♢
パッと目が覚めたエノーラは、寝台の上にいた。上半身を起こし、きょろきょろとあたりを見回す。最後の記憶は、夜の馬車内。そこからの記憶がない。
──ということは。
「……また、戻ってしまった」
エノーラが絶望する。あれだけ、あれだけ自分なりに頑張ったのに。正直、ミッチェルに対して腹の立つことも何度かあったが、それもこれも明日を迎えるためと必死に我慢したのに。
「……もう、どうすればいいの……っ」
寝台の上で頭を抱え、丸まるエノーラ。少しして、侍女が部屋を訪れてきた。ああ、同じだわ。ますますエノーラは落ち込み、涙をこぼした。
「エノーラお嬢様……」
許しを得て部屋に入ってきた侍女が近付いてくる。きっと、どうしたのですかと聞かれるだろう。でも、答えられるわけがない。だって、きっと信じてくれない。
「……お話は、奥様からうかがいました。ご立派でしたね、エノーラお嬢様」
優しく、慈しむような、六歳年上の侍女の声音。エノーラは呆然としながら、ゆっくりと顔を上げた。
「え……?」
「すみません。昨夜、屋敷に戻られたエノーラお嬢様が、いくら奥様たちが起こしても目を覚まされなくて。とても疲れているようで……ヴォルフ伯爵のお屋敷で何があったのかどうしても気になって、聞いてしまいました」
目を丸くするエノーラに、侍女が慌てる。
「あ、あの。とてもデリケートなお話なのに、いくら何でも失礼でしたね。申し訳ありませんっ」
頭を下げる侍女の服の袖を、エノーラは軽く引っ張った。
「……今日は、何月何日ですか?」
「え? 今日は、ですね」
侍女が困惑しながら答えた日付に、エノーラは目を見開きながら、またぼろぼろと涙を流しはじめた。
「お、お嬢様? どうされたのですか? 今日が何か?」
エノーラは寝台からおりると、侍女に飛び付いた。ふふ。泣きながら、エノーラが笑う。
──良かった。わたしは間違っていなかった。
ミッチェルを失った悲しみなど忘れ、エノーラはただ、明日を迎えられたことに歓喜した。
♢♢♢♢♢
──数ヶ月後。
「エノーラ!」
王立学園の入学式を終えた次の日。はじめての授業を受けるべく、学園に登校したエノーラ。はじめてブラート伯爵家の領地から出たエノーラは、期待と不安に胸を膨らませていたのだが──。
視線の先には、こちらに向かって笑顔で手をふるかつての婚約者の姿があった。廊下を足早に歩き、エノーラに近付いてくる。エノーラは何とも言えない顔をした。
「──約束をお忘れですか。ミッチェル・ヴォルフ」
ミッチェルが「ん?」と小首を傾げる。
「お父様に、決してわたしに話しかけるなと言われたこと、覚えていないのですか? そしてわたしも、幼馴染みであることはお忘れくださいと申したはずです」
ああ。ミッチェルが笑う。
「そんなこと、気にしなくていいんだよ」
「いえ。気にしなければいけないのはあなたです」
そんなことより。聞く気がないのか、ミッチェルが話を勝手に進める。
「喜んでくれ、エノーラ。ぼくはやっと、本当の愛に気付くことができたんだ」
「はあ。存じていますが……」
何を今さら。そんなエノーラの思いを読み取ったように、ミッチェルは笑った。
「勘違いしないでくれ。ぼくが本当に愛しているのは、アグネではなかったんだ」
エノーラはたっぷり間をあけたあと「──は?」と、目を見張った。
「そう。ぼくは、ぼくに対するきみの深い想いを知ってから、ずっと考えていたんだ」
「…………」
目の前の男は何を言っているのだろう。エノーラの理解が追い付かない。
「遠回りをしてしまったけど、おかげでようやく気付けたよ。ぼくがきみを、本当に愛していることにね」
「いえ、あの。アグネという方はどうされたのですか?」
とたん、ミッチェルはあからさまに「……聞いてくれるかい?」と顔を曇らせた。
エノーラとは別れてきたよ。そう報告したとき、アグネはとても喜んだ。けれど──。
『学園を卒業すれば、ぼくは平民だ。最初は大変だろうけど、二人ならきっと頑張れるよね』
そう言うやいなや、アグネの表情が固まった。どういう意味ですかと問われ、ミッチェルはありのままを説明した。
──そして次の日。
『あの……お父様が、いずれ平民となる男との婚約など認めないとおっしゃって……』
アグネの言葉に、ミッチェルは激怒した。
『は? きみが言ったんじゃないか。家を追い出されてでも、ぼくと生きたいって!!』
『……だって……まさか本気にされるとは誰も思わないではないですか……』
すみません、そういうわけですので。
アグネはそう言って立ち去った。それから学園でミッチェルと顔を合わせるなり、慌てて逃げるようになったそうで。
「あんな女だったなんてね。ぼくが間違っていたよ。ぼくにはやっぱり、エノーラしかいない」
真剣に、真面目な顔でミッチェルが語る。エノーラは呆れから、何も言えない。
「ぼくはまだ、ヴォルフ伯爵家の長男だ。きみと結婚するのなら、父上も、ぼくが爵位を継ぐことを許してくれるだろう。小さなころからそう教育されてきたのだから、やはり父上たちも、ぼくに家を継いでほしいと望んでいるはずだ」
ミッチェルはエノーラの両手を、そっと掴んだ。
「エノーラ、愛しているよ。やり直そう。そしてヴォルフ伯爵家を、一緒に支えていこう」
カーンコーン。カーンコーン。
鐘の音が、校舎内に響いた。
──夕刻。
学園から帰宅するやいなや、エノーラは紙とペンを用意した。机に座り、地方にいる父親とヴォルフ伯爵宛の手紙を書き、使用人に頼んで、早馬にこの手紙を託してもらった。
内容はもちろん、ミッチェルのことについて。本日学園で、ミッチェルが語ったこと全て、覚えている限りのことを書き記した。
エノーラの両親とミッチェルの両親は馬車を飛ばし、三日後には王都に来てくれた。身勝手にもほどがあるとミッチェルを叱りとばし、すぐさまミッチェルを除籍するとヴォルフ伯爵は言い捨てた。
「何故ですか?! エノーラ、ぼくを愛しているのなら助けてくれ!!」
全員の視線がエノーラに注がれた。けれど、とっくにミッチェルへの愛などなくなってしまったエノーラは、
「いえ、もう愛していませんけど。それにあのときは、やむにやまれぬ事情があっただけです」
と、あっさりミッチェルを見捨てた。
学園からミッチェルの姿がなくなってから、ふた月経った頃のこと。エノーラに、想い人ができた。相手は、クラスメイトの伯爵令息。後に婚約者となる彼の姿を見かけると、身体が熱くなり、胸が高鳴ってしかたない。なるほど。ミッチェルが経験したのはこれかと、エノーラは妙に納得した。確かにこれは、ミッチェル相手ではなかった感情だ。
余談ではあるが、伯爵令息と伯爵令嬢との婚約を破談にしたとの噂がたったアグネは、学園でも社交界でも居場所をなくし、学園を卒業後、年老いた貴族の元に嫁いだそうだ。
それにしても。と、エノーラはふとあの日を思い返し、考えてみることがある。
あの繰り返しは、実はミッチェルの本性を暴くために、神様が気紛れに与えてくれた奇跡だったのでは──なんてことすら、思えたりする。
もしあの繰り返しがなければ、復縁を受け入れていた可能性も、なくはないと思えるからだ。
あんなに大好きだったはずのミッチェル。けれどエノーラの中に残るミッチェルの印象は、もはや、ひたすら身勝手だったことしか残っていない。
──まあ。事実は、神のみぞ知る、といったところだろう。
─おわり─