隣は何をする人ぞ
ここに引っ越してきて半年。僕が住んでいるのは、築三十七年という、自分と同い年のマンションだ。外観はそれ相応の年季を感じさせるものの、内装はリノベーションしてあり、新しい感じを醸し出している。
仕事の異動で、急にこちらに来たのが去年の九月。新しい職場の雰囲気にも慣れ、同僚の性格や付き合い方を一通り覚えたところだ。
ベランダからは河原にある桜の木が見える。三月に入って、日差しが幾分温かくなってきた。桜の開花宣言も、後少しで出されるだろう。
川面に降り注いだ日差しが柔らかく光っている。
最後にTシャツをハンガーに干した。
ふと、仕切りの向こう側のベランダを想像する。
と言っても変な想像ではない。
壁に耳をつけ物音がしないか確かめる。仕切りの向こう側は今日も、しん、と静かだ。
僕がこの部屋に入居したのは八月の下旬。
九月一日付で今の職場に配属されたため、大慌てでの引越しだった。
そのすぐ後に、右隣の人も引越してきた。
しばらくは僕もバタバタしていたし、隣人のことなんて大して気にしていなかった。
このマンションは五階建で、ワンフロアに三部屋ある。僕の部屋は真ん中だった。
左隣の部屋からは、時々人の話し声、物を派手に落とす音といった生活音が聞こえる。
一方で右側の部屋からは一切物音がしない。
そのことに、ここに住んで二ヶ月ほど経ってから気づいた。
何曜日でもどの時間帯でも静かなのだ。確かに人は住んでいる。女性が。
右隣りの住人が、女性だと知ったのは、生活音が一切しないことに気づいたのと同じ頃だった。
ある日曜日。出かけるためにマンションのエントランスを出ると、その前に黒色の車が停まっていた。見るともなく車内が見え、六十代くらいの男性が運転席にいるのがわかった。
怪しい雰囲気ではなく、紳士的な雰囲気の漂う人だった。その時は何も考えず、その場を離れたのだった。
それからも、一ヶ月に一度、第二週の土曜日か日曜日のどちらかに、その車がエントランスの前に停まっているのを見かけるようになった。それで、このマンションに知り合いがいるのだと思った。
ある第二日曜日。その日、僕は仕事で、午後七時頃家に戻った。
エントランスに例の車が泊まっている。
「誰の知り合いだろ」とひとりごち、エレベーターに乗る。ガコガコと音をたてながら、エレベーターは動いた。
部屋に戻りテレビを見ていると、突然右隣の部屋の扉がバタン! と閉まる音がした。僕の部屋の前を通り、エレベーターに向かう足音がした。
思わず外の気配に集中する。
そして十分程経ち、また物音がした。何かを運ぶような音。時々、床を引きずるような音もする。そして、僕の部屋の前で、一度荷物を下ろしたようだ。
次の瞬間、
「しほ! 開けてくれ」
と、男性の声がした。若くはない。どちらかというと年配の男性の声だ。
その時、思いついた。あの車に乗っている男性ではないかと。
その声に応えるように、部屋の扉が開く音がした。けれど、女性の声はしない。
「ほら、そっち持って」と男性が言う。何か荷物、しかも大きな物を運び込んだようだ。
その後はまた静まり返る。荷物を解いたり、組み立てたり、そんな物音どころか気配すら感じない。
それからしばらくして、また誰かがその部屋から出て行く音がした。それっきり人の気配がしなくなったので、例の車の男性が帰ったのだと推察した。
そういう一件があり、右隣の部屋には〝しほ〟という名前の女性が住んでいると知ったのだ。名前がわかって以来、僕は勝手に〝しほさん〟と呼んでいる。
去年の夏は残暑が厳しかった。九月の中旬が近づいても、日中は暑いほどで、休みの日は、クーラーがないと過ごせなかった。そんな日でも、しほさんはクーラーを使っていないようだった。
ベランダに出た時、クーラーの室外機の音が聞こえないことに気づいたのだ。ベランダの左側に行けば、仕切り越しに左隣の人の部屋の室外機の音が微かに聞こえた。でも、右側の仕切りに耳を付けてみても、何の音もしない。
隣人が壁に耳を付け、物音を聞いているとしほさんが知ったら、気持ち悪がって即、引越すだろう。
でも、彼女の気配がなければないほど、気になって仕方がなかった。ベランダに出た時は、右側の壁に耳を付けて様子を伺うのが習慣になった。
しほさんは、出勤時間と帰宅時間も、毎日全く同じ時間だ。そして、土日は休み。
朝は七時十五分に必ず、バタンとドアが閉まり、カチャリと鍵をかける音がする。帰宅は夜の十時十五分。これも必ず決まっている。
通勤時間が長いのだろうか。それとも早めに職場に行き、仕事の段取りをし、毎日残業しているのだろうか、それなら働きすぎではないか。
また妄想が膨らむ。まるで、ストーカーだ。
半年の間にわかったのはそれだけだ。部屋に入り窓のサッシを閉める。時刻は午後三時。休日はあっという間に時間が過ぎていく。
明日の月末の日曜日は、年に四度ある催事のため、社員総出で出勤する。
勤務先の会社は、スーパーの小売業界では、まぁまぁ名前が知られている。全国展開されているスーパーなので、異動もあちこちある。
その催事では、人気の会員制高級スーパーの商品を、特別なルートで会社に卸してもらって、自社のスーパーで販売するのだ。
この催事は大人気で、開店時間のだいぶん前から長蛇の列ができる。社員としては、喜ぶべきなのだろうなのだろうけれど、僕個人としては、憂うつでしかない。
人気会員制高級スーパーの商品を、手に入れようとする人の熱気は凄まじいものがある。
催事当日の日曜日はよく晴れていた。青空が清々しい。この時期らしく、遠くに見えるビルや山並みは霞んで見えた。
スーパーの近くまで来ると、遠目にもすでに列ができ始めているのがわかる。思わずため息がもれそうになって、慌てて飲み込んだ。
昨日出勤だったスタッフが、商品をほとんど陳列してくれていた。けれど、一番人気のアメリカンクッキーが発注ミスで、予定より二箱少なく届いていた。
何とか今日の朝一で、その二箱が届く手筈になっていたので、商品を確認し、それを陳列することから始めた。
そのクッキーは、アメリカ国旗のような色合いの、プラスチックケースに入っている。掌より少し小さめのサイズのクッキーが、八枚入り。値段は一ケース、千二百円。やはり高い。
でも、その値段がするだけあって味は格別だ。僕も一度、試食で食べたことがあるけれど、確かにバターの香りがして、チョコチップがアクセントになっていて、ほろほろさくさくと、おいしかった。
開店三十分前に全員で一旦集まり、今日の流れや持ち場の確認をする。周りの雰囲気がピリピリしているのも、気を重くさせる。
僕の持ち場は整理券の番号順に、順次店内に案内する入り口での業務だった。
「ある程度お客様が入店したら、そこから番号順に入店する形にしてね。店内の担当と相談して、臨機応変にお願いします」
と痩せぎすの店長に言われ、僕は「はい……」と呟くように返事をした。やる気がないと思われたのか、大丈夫か、コイツという眼差しを向けられ、いたたまれなくなり、持ち場へと向かうため店長に背を向けた。
入り口の前には、テーマパークの人気アトラクションに並んでいるかのような列ができていた。列の誘導担当が整理券を配っている。いよいよだ。とりあえず、やるしかない。
開店と同時に、先頭に並んでいたお客様から入店していく。店自体広くはないので、二十人も入れば混雑してくる。
「梨木さん、一旦ストップ!」
と言われ、お客様の流れを止める。
大人しく待ってくれる人もいるが、「何でストップなのよ!」「売り切れるだろ!」と文句を言う人もいる。こういう時に人間性がわかるのだ。
それに対して「申し訳ありません」「ご協力お願い致します」と、マニュアル通りの言葉を口にし、場をもたせる。
ぺこぺこと頭を下げていた時、強烈な視線を感じた。睨まれているような、監視されているような。思わず顔を上げ、お客様の中に視線を移す。
でも、誰とも目が合わないし、知っている顔がいるわけでもなかった。気のせいか……と店内に目をやると、従業員が両手を上げ、前に押し出すように動かし、十という数字を表現していることに気付く。
十人入店可能ってことかな、と思いつつ
「お待たせ致しました。整理番号二十一番から三十番の方、お入り下さい」
と案内した。
開店早々に感じた、何とも言えない強烈な視線を、その後も度々感じながら、必死でお客様の案内をした。
誰か知り合いがいるのか? と列の中に視線をさまよわせるが、やっぱり知り合いはいない。一体何なんだ?
店内を確認し、整理番号を読み上げ、をひたすら繰り返す。朝一番がピークだったけれど、夕方になっても客足は途切れなかった。
何とか催事は無事終了した。ずっと立ちっぱなしだったので、腰も痛いし足も痺れたようになっている。体を引きずるようにして帰宅した。
明日も仕事だ。そう思うと、何もかもが嫌になりそのままベットに倒れ込んだ。
月曜日。この街では、プラスチックゴミの回収日だ。前に住んでいた街では、全て燃えるゴミで出せたので、最初は面倒だな、と思った。
でも、いざ分別を始めてみると、すぐに慣れた。そして一週間でプラスチックゴミが意外と出ることに驚いた。
先週の月曜日は休みだったので、わざわざ起きて、ゴミ出を出すのが面倒で、出さなかった。二袋のゴミ袋が、玄関に置きっぱなしになっている。今日は出さないと。ゴミ屋敷の始まりになりそうな気がする。
このマンションにはゴミ捨て場が設置されていない。面倒だけれど、近くの収集場所まで持って行かなければならない。
その場所は駅と反対方向だから余計に面倒だ。珍しく、いつもより早く目が覚めた僕は、出勤前に先にゴミを出しに行くことにした。
一番近い収集場所は、マンションの前の道路に沿って百メートルほど離れた場所にある、公園の前だ。
まだ、七時過ぎだというのに、結構な量のゴミが出されている。両手に持ったゴミ袋をその中に置き、マンションへと戻る。
公園の桜の木には、いくつか花が咲いていた。
ガコガコと不安定な音を立てるエレベーターに乗り、三階で降りる。扉が開き、部屋が並ぶ廊下へ向かった時。僕の部屋の一つ奥、つまり右隣にあたる部屋のドアの鍵が、内側から開けられる音がした。そう、しほさんの部屋だ。
思わず歩みをゆるめる。会ってみたい、と思った。
ドアが薄く開き、その間から小柄な女性が出てきた。
――しほさん!
思わず心の中で叫ぶ。引っ越してきて以来、何の音も立てないしほさん。生活感のないしほさん。
黒いショートカットの髪に、化粧はほとんどしていない顔。眉毛がしっかりしているからか、意志が強そうに見える。そして、眉のすぐ下には、少しつり気味の一重瞼の瞳。
僕の想像とは全く逆の、尖った印象の人だった。
左手にはゴミ袋を一つ持っている。その袋には僅かなゴミしか入っていない。一人暮らしとはいっても、少なすぎる量だった。一番小さいタイプの袋の半分も入っていない。
そのゴミの中に、やたら色鮮やかなものが混じっている。遠目に見ても、どこかで見たことがあるもののような気がした。
じっと彼女を見続けるわけにはいかないので、適当なところで、視線を逸らし「おはようございます」と挨拶した。
すると、こちらを見て、会釈を返してくれた様子が何となくわかった。残念ながら声は聞けなかった。ベージュのトレンチコートの裾を翻すようにして、僕の後ろを通りエレベーターへと向かう。
彼女の視線は、僕を迷惑だと思っているようにも、睨んでいるようでもあった。
鍵を開け部屋に入る。ズボンのポケットに入れていたスマホを取り出すと、七時十六分だった。いつも通りの出勤時間だ。
朝ご飯を食べると、なぜかお腹の調子が悪くなる僕は、朝は何も食べない。八時過ぎに家を出るから、いつもはその二十分前に起きる。
でも、今日はまだ出勤時間まで、三十分以上あった。
コーヒーでも飲もうかと思い立ち、電気ケトルでお湯を沸かす。
マグカップにインスタントコーヒーを入れながら、何かが心の中に引っかかっているのに気づく。何なのだろう。
頭の中にぱっと映像が浮かぶ。
しほさんが持っていた、ごみ袋。その中に入っていた鮮やかなもの。確か
――赤色と青色のストライプ模様のプラスチックケース
そう思ったところで、僕は「あっ!」と声をあげた。
ちょうど電気ケトルのお湯が沸き、パンっと軽快な音を立てて、スイッチが上がった。
ゆっくりコーヒーを飲もうと思っていたのに、慌てて飲むと家を出た。確認したかったのだ。しほさんのゴミ袋の中に、赤色と青色のストライプ模様のプラスチックケースが入っているかを。
人のゴミを確認するなんてことは、してはいけないとわかっている。でも、どうしても。
今朝、ゴミを出した収集場所に向かう。しほさんが同じ場所に出しているとは限らないけれど、同じマンションの住人のほとんどは、公園の前の収集場所に出しているようだった。
公園が近づいてくる。ゴミの山の前まできた。そして見つけた。一番手前に置かれたゴミの中に、それを。
袋の中のゴミの量を見ても、しほさんが出したものにちがいない。
透明のゴミ袋の中に、赤色と青色のストライプ模様が入っていた。
それは、昨日スーパーで販売された、アメリカンクッキーの容器だった。僕自身が遅れて納品されたそれを、陳列したのだから見間違えるはずはない。
しほさんは昨日スーパーに来ていたのだ。
そう思ったところで、もう一つ思い出した。
お客様を案内している時に、何度か感じた強烈な視線。今朝部屋の前で僕に向けられたそれとリンクする。
もしかして、しほさんが僕を見ていたのか?
何となく薄気味悪さを感じ鳥肌が立つ。
今までは、どちらかというと、しほさんに対して好意的な関心を持っていたのだけれど。
今はその逆だった。僕がベランダに出た時、しほさんの気配を確認するように、しほさんもどこかで僕のことを同じように見ていたとしたら……
コーヒーを飲んだせいなのか、胃の辺りに鈍い痛みが走り始める。しばらくぼんやりとその場に立ちつくしていたけれど、踵を返し駅へと向かった。
わからないことを考えていても仕方がない。そう言い聞かせ、駅へと向かう人の波に紛れ込んだ。まるで、自分の気配を消すように。
読んでいただき、ありがとうございました。




