絶望の黒
ジウイに抱き締められたレイファ、インデックスの様子はけれども変わることはなかった。視線は一点に定まらず揺れている。間近にあるジウイの瞳すら映していない。体の震えも止まらず、呼吸も不規則。
「こんのっ、小僧が!」
袖振りにされた左丞相が怒る。男の声にインデックスの肩がはねる。忌まわしい男から大事な友を隠すように抱き締める。甘い瞳が嘘のように男を睨めつける眼は高圧的で鋭く嫌悪感を露わにしていた。
「もぉう、あたくしを無視するなんてあんまりですわぁ」
バチバチと視線を交わす二人を遮るような女の声が響き渡る。その声の主、フーコが憤慨していた。癇癪を起こす子供のような言動だった。
フーコの声に幾分か冷静さを取り戻したジウイは感じていた違和感の正体に気が付く。静か過ぎる。帝の御前であるにも関わらず傍若無人な態度のジウイと左丞相を咎める声が聞こえない。
周りを見渡すと信じられない光景が広がっていた。参列していた臣下たちに蟲が這いより、その身を蝕んでいた。白目を剥き、口を開け、穴から蟲が出入りしている。身の毛がよだつほど恐ろしい光景だった。そしてそれは臣下だけではなかった。
「帝……」
貴き御方ですらも例外ではなかった。
「な、なんだこれは!? ひぃ来るなッ、やめろー!!」
左丞相もまた蟲に襲われる。蟲の手がもう近くまで迫っていた。ジウイは男から距離を取る。
「うふふー、あたくしの蟲はお気に召しましてぇ。ああ、まだ一人残っているんでしたわぁ」
フーコは愉しげに嗤う。この部屋は彼女の蟲で埋め尽くされていた。その数は数百数千を優に超える。
「殺さず絶望させろ、だなんて退屈ですわぁ。なんでボスはあんな奴を生かすのかしらぁ。怯えてばっかだしぃつまんなぁい。ああ、毒の魔女が恋しいですわぁ。もう一度、今度こそ二人だけで毒殺し合いたいですわぁ」
「レイファ逃げるぞ……レイファ!」
ガタガタと震えるレイファは動かない。焦るジウイは周りを見渡す。全方位を包囲されている。彼を抱えながら突破するのは不可能だった。蟲は二人を囲う。その輪はジリジリと狭まる。
カァー
バサバサと羽ばたく音が聞こえる。烏がインデックスの上空を旋回し、一鳴きする。旋回するように滑空し、インデックスの目の前で留まる。首を細かく動かしながらインデックスを凝視する。真っ黒な瞳がインデックスを映す。
「なっ、烏?」
ジウイが追い払おうとする手を止められた。インデックスがジウイの腕を掴んだ。ジウイから離れて烏の方に一歩出て両手を広げる。それはジウイを烏から庇っているようだった。ジウイから彼の顔は見えない。けれどその体はまだ震えていた。
「烏!」
インデックスは前を向いて叫ぶ。その声は震えていなかった。その瞳は揺れ動いていなかった。烏の眼を一身に見つめている。心の内を見透かすような眼差しから視線を逸らさなかった。カァーと鳴いた烏は羽ばたく。インデックスの周りを低空飛行で飛び回る。烏の通り道、真下にいた蟲が消えていく。旋回する範囲を広げ、次々と蟲が消えていく。
「な、なんですの……? あたくし、あたくしの蟲が……!」
驚き、怒りを顕にしたフーコが蟲に命令する。あの烏を殺せと憎悪に塗れる。蟲は一斉に烏に向かった。そして、霧散した。烏に近付くこともできない。フーコは何が起きたのか理解できなかった。自慢の蟲たちが手も足も出せずに霧になって消えていく。
「イヒヒ。だから言ったでショウ」
「ボスっ!」
怒りに震えるフーコの隣に男が現れた。顔を多彩に彩り歪に嗤う男。その顔は見たことがあった。ヘクセで最優先殺生対象と知られている元魔女、ジェスター。
「道化」
「初めマシテ、占の魔女インデックス。会いタカッタよ」
ジェスターの嗤い声が響き渡る。不快な気分にさせるような耳障りな声だった。思わず顔を顰める。直接刺さる視線も怖かった。
インデックスにとって顔を覆う黒い布は心の守る盾だった。弱く醜い自分を隠す魔法のようなものだった。その魔法は今はない。それでも弱い心を奮い立たせる。弱い自分と決別するために。今度こそ、大事なものを守るために。
「から……す……?」
視線がブレる。口から血を吐かれた。烏の鳴き声が遠くに聞こえる。体が沸騰しているみたいに熱い。
「じ……い」
どうして、という声は出なかった。倒れる最中インデックスは彼の顔を見た。冷たく温度の感じられない表情。地に伏せたインデックスは血だまりをつくる。息を吸うのも苦しい。視界が霞んでいく。
インデックスはジウイに胸を貫かれた。ジウイはもう、死んでいた。すでにジェスターの操り人形になっていた。道化の嗤う声が木霊する。ポロポロと涙が零れる。
瞬きしてクリアになった視界でジウイが消滅した。目の前に烏が止まる。視界いっぱいの黒の端に緑色が横切った。シアノスの伝書鳥だとすぐに気付いた。インデックスに、烏に近付いて消えてしまった。
(あなたと……)
インデックスは事切れた。
視力を奪われ動けぬ体のレイファは森に捨てられた。息も絶え堪えで意識も虚ろ。失明して何も見えない彼には些細な音でも怖かった。暗闇の中でこのまま死ぬんだと思った。頬を伝う水が血なのか涙なのか分からない。痛くて寒くて動けない。孤独の中で、けれど彼は死を喜んだ。もう、苦しまなくていいんだ。
いい匂いが鼻を擽る。火花が弾ける音と何かが燃える音と焦げた臭い。身動ぎすると布の擦れる音が耳に入る。生きていることに絶望と喜びを感じた。
「目が覚めたか。調子はどうだ」
人の声が聞こえて反射的に体が強ばる。女の人の声だった。喉が詰まって息苦しさを覚える。
「お腹は空いてないか? スープを作ったんだ。わたしの料理は絶品だぞ」
レイファは戸惑った。食事にいい思い出はなかった。記憶にある食べ物はパンとスープのみ。それもパンはカビていたり石が入れられたり踏みつけられたりした。スープには虫やゴミなんかが入れられた。美味しいと思ったことはない。何も食べれない日も多かった。いつもひもじくて、泥水を啜ったこともあった。
それと同じくして人が怖かった。植え付けられたトラウマは少年の心と体に深く蝕んでいる。目が見えないからこそ、記憶を見る。醜悪に歪み嘲笑し暴力を振るう光景が甦る。彼には悪意の記憶しかなかった。
「……そうか、目が見えないんだったな。触れるよ」
触られた感触に体が大きく反応した。一瞬止まった手も再びレイファに触れる。体を動かされて背中に壁を感じる。怖くて動けないでいた。
「ふー、ふー。ほら口を開けな、あーん」
いい匂いが鼻を擽る。口の前に熱を感じる。それでもレイファは怖くて動けなかった。深く根付いたトラウマはすぐに癒えることはない。それに彼には人の温もりも優しさも感じたことはなかった。
女性は静かに待った。急かすどころか鼻歌を歌っていた。背中から感じる熱と鼓動にレイファの体の強ばりが少しずつ解けていく。
グッと噛み締めた唇から力が抜ける。小さく開けた口にはすぐにスープが突っ込まれた。それは温かくてとても美味しかった。初めて温かい料理を口にした。
「おっ、泣くほど美味しいか。そーかそーか、そんなに感動されちゃあ料理人冥利に尽きるってもんだ。まだまだあるから腹いっぱい食べな」
女性の言う通りにお腹が膨れるほど食べた。初めて美味しいで満たされたお腹は少年の心身を温めた。その女性はこれまであった人たちとは違った。優しく包まれるような温かさがある人。その女性は食の魔女、二ーと名乗った。
「わたしの知り合いがレイファの怪我を診てくれてな。文句を言いながらもしっかり診てくれる可愛い子なんだ。今度一緒に会いに行こう。似た者同士、仲良くなれると思うんだ」
レイファは体の痛みがなくなっていることに気付いた。今までずっと痛いのがあったからなんだか慣れない。目が見えるようするのは無理だったらしいけど、これだけでも十分嬉しかった。痛くない体はとても快適だった。
ニーと接する内にレイファの心を開いていった。けれどどんなに頑張っても声を出すことが出来なかった。お礼も言いたいのに何も伝えれない。無理しなくていいと気遣う二―の優しさに嬉しくなるのと同時に甘える自分に嫌気が差す。
「おーい、ロロエ。いるか?」
「なんだい騒がしい。おや珍しいね。あんたが他人を連れてくるなんて」
ロロエは有名な占い師らしい。特殊な空間魔術の使い手で凄い人だと言っていた。二ーはロロエにレイファを預けてどこかに行ってしまった。
ニーと離れるのは寂しかったけど、捨てられたとは思わなかった。少なくない時間を共にして二ーの人となりを知れたと思う。表裏の無い明るい人。料理が上手くて食べることが好きな人。楽しそうに笑う太陽みたいな温かさがある人。
ロロエもレイファに優しくしてくれた。荒い口調だけど声の中に優しさを感じる。それはきっと二ーがレイファに優しさを教えてくれたから気付けたのだと思う。ロロエはレイファに眼の施術をしてくれた。時間をかけて少しずつ繋げた眼は再び見えるようになった。包帯を取った視界はぼやけていた。色も輪郭もはっきりしない視界でもロロエが微笑んでいるのは分かった。伸ばした手を握って、自分の顔に誘導してくれた。彼女は泣いていた。気付けばレイファの眼からも涙が溢れていた。
「よく頑張ったねレイファ」
撫でて抱き締めてくれた温もりは二ーと同じくらい温かかった。
目が馴染んでしっかり見えるようになってからは占いの仕方を教えてくれた。相変わらず声が出ないレイファをロロエは追い出さずに優しくしてくれた。外に出ることが出来なくなったレイファを許してくれた。そんな彼女は一つだけ堅い声で外にいるあの烏には近付くなと言った。その烏はずっとそこに居た。動かずじっとレイファを見ている。その視線が不思議と怖いと思わなかった。ロロエが心配しなくても外に出れないレイファは烏に近付くことはないと思っていた。
あの時までは。
無数の炎が近付いてくる。大勢の人が列を成して家に向かってくる。それを見たロロエは黒いローブをレイファに着せて外に連れ出す。
「いいかいレイファ。今すぐここから逃げるんだ。誰にも見つかるんじゃないよ。あの森を真っ直ぐ進むと水の魔女の温泉街がある。決して振り向くんじゃないよ。ほらさっさと行きな!」
語気を強めたロロエにレイファは恐れる。言われるがまま森に向かったレイファは振り返らなかった。
「不甲斐ない婆ですまないね。レイファ……元気に生きるんだよ」
その背中に向かってロロエは呟く。その眼には涙が浮かんでいた。
背後から聞こえる怒号にレイファは気になって立ち止まった。近くの木に隠れて振り返ってしまった小高い場所にある家はその位置から見ることが出来た。
「厄災を招く悪女!」
「嘘つきのインチキ女!」
「悪魔に死を!」
炎が上がる。ロロエの家が燃えていく。過ごした日々が燃やされる。レイファは思わず飛び出してしまった。家に着く前に転んでしまった。足が震えて立ち上がらない。涙が溢れる。それでも、どんなに悲しくて叫びたくても声は出なかった。出てくれなかった。
ロロエは外に出て占いをしていた。村人はロロエを信頼し、彼女の占いに頼っていた。占いが導く結果は吉報だけではない。しかし彼らはロロエの占いの結果を、凶報を受け入れなかった。恐れた彼らはロロエを嘘つきに仕立て上げた。今まで散々頼ってきてたのに、都合が悪くなれば牙を剥く。レイファには彼らの方がよっぽど悪魔に見えた。
悔しくて悲しくて涙が止まらなかった。呻き声しか口からは出てこなかった。悲しみに嘆くレイファに悪魔が気付く。
「このガキ、あの悪魔と一緒に住んでるっていう」
「ああ、コイツも殺せ!」
複数の視線が向けられる。憤怒と恐怖と殺意が混じった視線。体が震える。封じていた記憶が蘇る。悪意と嘲笑と憎悪の日々。癒えたはずの体が痛みを感じる。男たちが近付いてくる。体が動かない。黒に塗りつぶされた顔に目だけが鮮明に視える。怖くて呼吸ができない。
(二ー、たすけっ……!)
ダメだ。助けを求めちゃダメなんだ。自分のせいで誰かが悲しむのはもう嫌だった。助けを求めなければジウイが悲しい思いをさせることはなかった。
ごめんなさいロロエ、言われたこと守れなくて。最後に失敗しちゃった。叱っていいから声を聞かせて。
ごめんなさい二ー、助けてくれたのに。もう一度あなたに会いたかった。どんな顔でどんな風に笑うのか見たかった。
ごめんねジウイ。いつも助けてくれてありがとう。とっても嬉しかったよ。
目を閉じて死を受け入れる。不思議と心は凪いでいた。
カァー
烏の鳴き声がレイファの耳に届いた。ゆっくり瞼を上げて、大きく見開いた。目の前で人が消えていく。黒い霧となって崩れていく。悪い夢を見ていると思った。そうじゃなきゃなんだと言うんだ。霧が烏に集まる。炎に照らされた烏の影が大きく広がり大地を覆う。その眼は真っ直ぐレイファに向けられている。
カァー
レイファは手を伸ばす。緩やかに滑空して烏が手に止まる。烏の背後では未だ大きな炎がゴウゴウと燃えている。
「烏」
ようやく発せれた声に応えるように烏は鳴く。レイファは笑う。顔を歪めて笑みを作った。涙を流しながら笑った。自分がどんな顔をしているのか分からなかった。誰を想い、何を感じ、どんな感情を抱いているのか分からなかった。もうとっくに彼は壊れていた。手繰り寄せて固めた心はまがい物で、どれだけ修復しても綻びは生じてしまう。壊れたモノはもう二度と元に戻らない。
レイファの元にひらりと布が舞い降りる。黒い布だった。目を閉じてレイファは布を被った。黒に染まった世界を見て、レイファは布の中できれいに微笑んだ。




