失楽園
「シアノスさん本当にいいの?」
目的地付近に着いたマオは振りかえる。道中で何度も聞いた言葉だ。
「大丈夫だって言ってるでしょ。それじゃ」
シアノスは浮遊して大鷲から離れる。眼前に広がる霧に躊躇うことなく突っ込む。霧の濃度は濃いため何も見えない。真っ直ぐ飛んでいると霧を抜けて島が現れた。空に浮かぶ島、失楽園だ。
失楽園は前人未到の地。実在しているかも不明瞭とされている未明の大地。シアノスは初めてその地に降り立った。
失楽園についての情報は殆どない。一般的には空に浮かぶ島という伝承のみが伝えられている。ヘクセでも華獁という魔物の上に広がる魔境だという情報しかない。マオですら知らないと首を横に振った。
巨体過ぎて全体像は分からないが亀のような甲羅を持った四つ足の魔物に見えた。
「なんて……素晴らしいの!」
そこはまさしく楽園だった。
魔物の上とは思えぬほど広大な大地には見渡す限り植物が広がっていた。見たことのない草、見たことのない花、見たことのない木。そこには未知の植物が広がっていた。カラフルで特徴的で攻撃的、すべての植物が毒を含み大気をも汚染していた。立っているだけで肌がひりつき肺を刺激し意識を奪う。シアノスでも長居は危険だと判断するレベルだった。
美しい風景に潜む毒。辿り着くことですら困難で、辿り着いても過酷。まさに失楽園。
シアノスがここに来た目的は特にない。強いて言えば未知の植物を求めて、だろうか。
審判が近づいていようがシアノスには関係なかった。彼女自身、特に準備することはない。キラにありったけの聖水を作らせるぐらいだ。だから息抜きも兼ねて魅惑の地に赴いた。
大まかな場所をインデックスに占わせ、その近くまではマオに運ばせた。どちらも借りを返せと言えば快く引き受けてくれた。お互い貸し借りを好まない性格だ。シアノスもさっさと解消したかったから好都合だった。マオが最後まで心配していたのは帰りの迎えは必要ないと断ったからだ。
未知の植物に心を躍らせるシアノスは手当たり次第に採取していった。毒の影響なのか魔境の特徴か、空間が不安定で森に魔力を流せないが些細な事だと軽視していた。慢心を怠らず常に警戒、冷静な判断をと律する彼女もこの時ばかりは気ままに自由を謳歌していた。どうせ誰もいないし、と気楽な気の持ちようだった。感情が高まって興奮状態に陥っていた。つまり冷静さを欠いていた。顔面崩壊してだらしない顔になっていた。もしかしたら毒の影響という可能性もあるかもしれない。
「あら?」
そんな彼女の前に魔物が現れた。魔物図鑑にも載っていない魔物だった。ムカデのような体節があるが脚の数は少なく口の部分に大顎が付いている。そして何より巨大だ。
「ふふ、試し切りといこうじゃない。喰い咲け、トウカ」
やはり思考に異常をきたしているのかもしれない。魔物に対し喜々として笑うなんて考えられない。
勢いのまま右手を前に突き出す。腕輪が揺れ光り、シアノスの周りに花弁が舞う。花弁はシアノスの思い通りに動く。目の前の魔物に向かい、切り裂く。木端微塵になった魔物を見てトウカを止めると花弁が散る。刀千紅の力に満足気に頷く。
視線を移して切り刻まれた魔物の方を向くと首を傾げる。そこには何もなかった。
地上では魔物は肉体を残す。欲しい素材や核は解体し、不要な部分は埋めなければならない。迷宮なら砂となって消え、核とドロップアイテムを落とす。迷宮内の魔物は迷宮の一部である。吸収と排出を繰り返す。魔境は地上と同じ原理だ。例え失楽園が例外的に迷宮と同義であっても核すらも残らないのはどう考えてもおかしい。
他に考えられるとしたら――
「毒による幻覚または特有の錯覚を起こさせているのか」
興奮状態でも思考ははっきりしている。冷静さを欠いているのと思考放棄は意味が違う。
思考する彼女を嘲笑うかの如く魔物が次々と現れた。そのどれも見たことがなく、既知の魔物とは異なる生物だと言うのを思い知らされる。そしてどの魔物も巨大だった。
「トウカ!」
刀千紅はたやすく切り裂く。しかし倒しても倒しても核は落とさない。最初の魔物を皮切りに絶えずシアノスに襲い掛かる。湧いて出る虫のようだ。とても採取どころではなかった。
何とか魔物を撒いたシアノスは一際目立つ大樹の真下に辿り着いた。その木はこの地で初めて見た緑色の葉をつけた木だった。地面にはたくさんの果実が落ちていた。黄緑がかった色でリンゴに似た形状。目を凝らしてよく見れば、葉の中に緑色の花が咲いていて果実をつけていた。熟れた実が重さで落ちたのだろう。
「向こうでも育たないかしら」
そんな儚い希望を抱いて枝を手折ると断面から白濁とした樹液が溢れ出てきた。垂れた液体が白煙を上げて幹を焦がしていく。ボタリと落ちた地面には溶けて窪みが出来た。まるでマグマのようだった。近くでは熱さは感じないけれど触ったら手が溶けるのかしら、と好奇心が芽を出す。
「いえ、ここではやめておこう」
理性が働いて枝を仕舞った。果実を食すのもまたこの場ではやめておこうと自制した。
大樹は高地に植わっていた。根本から島全体をある程度見渡せた。あまり長くはいられないからと構造を記憶しいくつかの場所に目ぼしをつけた。見渡しながら大樹の周りを歩いていると足に何か引っかかってよろけた。大樹の根かと思って下を見たら人間の足のように見えた。
足らしき物体から視線を辿ると木に凭れて眠っている人間の姿があった。
「人間?」
マオと同じくらいの大きさの男。一糸まとわぬ格好で無垢な寝顔を晒している。
毒が蔓延するこの地で普通の人族が生存できるとは到底思えない。しかもこの大樹はとても危険な猛毒を有している。木のまわりは毒の濃度が高く非常に危険な場所だった。
以上を踏まえて人の姿を取れる高位の魔物という線が非常に濃厚だ。気を付けなければならないのは人の姿だからと言っても人間に友好的であるとは限らないということだ。意思疎通の意味を成さないただの戦闘狂だっているのだから。
対話を試みるべきか素通りして難を避けるべきかの二択を迷っていると少年が身動ぎする。ゆっくりと瞼が開かれる。
東国の人族に見られる黒髪黒目。黒に対比するように白い肌の東国とは反対に肌も黒かった。褐色のダークエルフよりも黒の色素が濃い。
眠そうに開かれた瞳でシアノスを見つめる。数度瞬きをして緩く首を倒す。
「だれ」
声変わりもしていない、寝起きのせいか地でそうなのか、幼さが残る舌ったらずな声で小さく呟いた。
「わたしはシアノス。あなたは人間? それとも魔物?」
目を擦った少年は次に目を開けたとき、雰囲気が一変する。鋭く観察するような眼。隙を見せない警戒心。ピリつくような攻撃的な殺気。自我を感じられない空虚な瞳。忠実な暗殺者のようだった。感情が乏しい人を殺すだけの人形。
一触即発。互いに互いにを警戒し、隙を伺っていた。少しでも隙を見せたら命はない。そんな状況下で――
ぐきゅるるる〜
緊張感のない腹の虫が鳴る。自分の腹をさすった少年は近くに落ちていた大樹の実を拾い口に入れた。
「ちょ、ちょ待ちなさい。それ毒!」
警戒も忘れて慌ててシアノスは少年に掴みかかり口を無理やりこじ開ける。小さな口を思いっきり開いて口内を診る。
果実はもう飲み込んだ後だった。口内は炎症を起こし爛れている。喉の部分も腫れて膨らみ、気道を圧迫していた。口内から視線を外すと少年の黒い肌に大量の発疹が浮かんでいた。なんで平気そうにしているのか分からないほどに酷い状態だった。
「え……」
魔力で少年の状態を診ると口の状態が治りかけていた。思わず顔を上げるときれいな少年の顔があった。相変わらず何も考えてなさそうな無表情で見つめ返していた。そんなことを気に止める暇もなくまた少年の口を開けさせ中を診る。そこには炎症も腫れ物もなくなっていた。
「あなた、一体何者?」
「あがっ」
口を固定したまま尋ねたせいか少年はとても変な声を出して返事をした。
懲りずにまた果実を拾い食いしようとする少年に制止する。むすっと機嫌悪そうに見つめる彼にサンドイッチを取り出す。
「これでも食べなさい」
シアノスが手渡したサンドイッチをキラキラした眼で見つめる。鼻を近づけて匂いを嗅いで大口開けてかぶりつく。キラキラした眼のままシアノスを見る。飲み込んでまた一口頬張った。
食べ方はとても荒い。獣の捕食と言っても差し支えないほどだ。夢中で食べていたのだろう手の中になくなったのに気づいて肩を落とす。
シアノスはバスケットを取り出して少年の前で蓋を開ける。バスケットの中には隙間なくぎっちりとサンドイッチが詰め込まれていた。再び眼を輝かせた少年はシアノスを見る。何も言わずに見つ合うこと数秒、バスケットを渡す。すぐさま両手で掴んで口いっぱいに頬張った。
「給餌……?」
シアノスが呟いた声に頬をパンパンに膨らませたまま見上げて首を傾げる。何も言わないシアノスに興味を失ったのか再びサンドイッチに夢中になる。
サンドイッチはキラのお手製だ。なぜか度々作って持たせてくる。シアノスが少食だと知っているのにだ。食べなかったり食べきれなかったりで余った物を亜空間に閉まっていた。亜空間では時間経過しないので食べ物が腐ることはない。そうしてどんどん溜まっていった。
サンドイッチを完食した少年は満足そうにバスケットをシアノスに差し出す。少年は思ったより感情豊かだった。いや、表情は無表情のままだ。言葉も殆ど発さない。だが、感情が表に出やすいのか分かりやすかった。そう、タタを思い出させる
人間である少年に興味はないので一方的に別れを告げてシアノスはその場を後にした。が、なぜか彼は着いてきた。
完全に給餌行動で懐かれてしまったかとシアノスがため息をつく。頭の中では微笑むキラの顔が浮かんでいる。少し気分が下がったシアノスに影がかかる。また魔物が現れた。
驚くことはせずシアノスは右手を前に出す。「トウカ」と呼ぼうとする前に後ろから風が吹く。振り返れば少年の姿はどこにもなかった。そして前を向き直すと魔物に飛びかかっている少年の姿があった。
華獁は分厚い霧に包まれている。中からでは空は見えない。朝も夜もなく、光が入らないそこは薄暗かった。
「いつまで着いてくるつもり?」
少年と出会ってからだいぶ時間が経過した気がする。なぜなら、シアノスは歩き疲れているから。採取しながらとはいえ動き続ければ疲れる。近くの木にもたれかかって休むシアノスを少年は立って見ていた。シアノスの問いかけに少年は何も答えない。無言でシアノスを見続ける彼にため息をつく。
「まあいっか。害はないし」
結局のところシアノスの判断基準は自分に害があるかないか、邪魔になるかならないかだ。存在が邪魔と言っては詮無いが無駄口を叩かない彼は煩わしいと感じなかった。それどころか魔物を勝手に倒してくれるので楽だと思っていた。
「こんなところかしら」
大まかにだが島全体を歩き回ったシアノスが伸びをする。悪くない疲れだった。帰ってからの研究が楽しみで仕方ない。亜空間にはここで採取した植物が大量に保管されている。あの大樹から見えた植物は全部回収した。さすがに体も限界に近いのでここらで区切りをつけて帰ることにする。
シアノスは意識を集中させる。心臓から感じるロサの気配、繋がっている線を手繰る。行き着く先は惑いの森だ。これから行うのは召喚の応用、転移だ。
召喚は自分を起点にして自分の魔力を手繰り寄せていた。
空中に魔術式が刻まれる。図形を描き魔術陣へと形成する。精密に魔力操作と計算を重ねる。
「転移」
魔術陣が光を発し、収束したときにはその場にシアノスの姿はなかった。
目を開けたそこは見慣れた緑が広がっていた。ぶっつけ本番の長距離転移だったか概ね成功。少し着地点がズレてしまったが五体満足で転移出来たので文句なしだ。
「おかえりなさいシアノスさん。……と、そちらの子は?」
たまたま畑に来ていたらしいキラが駆け寄ってくる。キラの視線を辿って後ろを見るとなんと少年がいた。恐らく転移の瞬間に触れて一緒に飛んだのだろう。集中していたシアノスは全く気付かなかった。というか後半は存在自体忘れていた。




