聖女レア
マオがまだ魔女になる前の話だ。
突如として世界に穴が開いた。その穴から濃い魔力と共に魔物が溢れ出た。対抗する術を持たない人々は虐殺された。食物連鎖の頂点に君臨した魔物が猛威を振るっていた混沌の時代。大陸がまだ一つだった時のこと。
この世界と魔物の世界の狭間を壊した元凶との戦いに敗れたマオルガナスは命からがら生き延びた。五十あった頭は今や二つしか残っていなかった。満身創痍のマオルガナスはやがて力尽きて倒れた。もう魔力は残っていなかった。悔しいけど惨敗だった。勝てる未来が全く見えない。あれは存在が異次元過ぎた。
このまま野垂れ死にするかと思われた。衰弱しきったマオルガナスならこの世界の生物でも殺すことが出来る。そうでなくても、このまま魔力を失って存在を保てない。先に意識を失った頭に寄り添ってマオルガナスは静かに眠った。
温かい何かに包まれている感覚に目を覚ます。
「あっ、良かった~。もう大丈夫だよ」
マオルガナスは混乱した。こっちの世界の生物、特に人間と呼ばれる種族は魔物を恐れている。弱くて数だけが多い生物。少し触れただけで動かなくなるほどに脆い。魔物はこっちの世界からしたら突如現れた侵略者。開いた狭間から魔力と一緒に流れた世界の異物。対抗手段を持たない脆弱な人間は魔物に蹂躙されるだけ。魔物の姿を見るだけで怯えて泣き叫ぶのが人間だった。
マオルガナスは弱まっているため体が小さくなっていた。けれど頭はまだ二つある。犬とは異なる見た目で、どう見ても魔物だと分かる。
なのに、何故この人間は魔物を助けたのだろうか。触って、笑顔を向けるのだろうか。
「いけませんレア様!」
「魔物は危険です。さあ、それを捨ててこちらへ」
「嫌よ、弱っているのにそんなこと出来ないわ! ……そうだわっ、この子は私が飼う」
「レア様!」
「私はレア。今から私たちは家族よ」
「レア様!?」
マオルガナスはレアと名乗った女性に拾われた。ギュッと優しく抱き締められた温もりが心地良くて、彼女の腕の中で眠りについた。
軽快な声と共に体を這う感触に目を覚ました。ピクリと動くとその感触が止まった。頭上を見上げればレアの顔があった。
「おはよう」
そう言って頭を触られる。それでようやく、さっきの感触はこの人間に触られていたということに気付いた。不快感はなかった。
「お腹空いたよね。うーん魔物ってなに食べるんだろう? 犬と同じでいいのかな?」
レアは不思議な人間だった。小さいとはいえ二つの頭をしたマオルガナスに怯えることもせず笑って触れて抱き締める。その眼に、その手に怯えた様子は一切なかった。
「いつまでも名前がないのも不便だよね。家族になったんだし、私が考えてもいいよね? うーーーーん……あっ、マオ。マオって名前はどう? 気に入ってくれたなら嬉しい」
名前と言うのをもらった。何故かマオと呼ばれると胸の部分が温かくなる。おかしな感覚だけど悪い気分ではなかった。何度も繰り返し名前を呼ばれる。マオもレアの名前を呼ぶけど、口から出るのは「ワンッ」という鳴き声だけ。言葉は通じなかった。
レアは度々呼ばれて外に出て行く。大事な役目があるらしい。
「私ね、癒しの力があるの。治れって念じると傷が治るのよ。だから、みんなから聖女って呼ばれて称えられる。……こっちの子も早く目を覚ますといいね」
レアはまだ目覚めないもう一つの頭を撫でる。優しい手付きなのにレアは寂しそうだった。触れている部分から温かな力が流れ込む。これがレアの言う癒しの力らしい。魔力とは異なる力。けれど意識が繊弱なもう一つの頭には癒しの力の効果はなかった。
片方の頭が目覚めないまま月日が経った。役目以外、レアとマオはいつも一緒にいた。殆ど室内だったけど、たまに外に出ることもあった。他の人間がマオに向ける視線は好意的なものではなかったけどマオは気にならなかった。魔物の世界にいた頃の血気盛んな殺気に比べたら人間の嫌悪感なんて可愛いものだった。
マオはレアが気に入った。レアの温もりが好きになった。レアの笑顔が好きになった。このままずっといたいと思った。こんな気持ち初めてでこそばゆいけど悪くなかった。この時間がずっと続くとその時は疑いもしなかった。
これは甘い世界に浸った罰だと理解した。役割を放棄して現実から目を背けた代償。
人間の悲鳴と見知った魔力を感じて外に飛び出した。マオは嫌な予感を覚える。レアの気配は分かりやすい。離れていてもすぐに分かる。そのレアの近くに強大な魔力の塊、魔物がいる。逃げる人間たちの流れに反して駆け付けると、眼にしたのは予想通りの光景だった。急いでレアの前に立つ。
「マオ?!」
『はーはっはっは! 本当に小さくなってやがる。しかも人間如きを庇うたぁいつからそんな弱くなったんだぁおい!』
魔物の世界で散々マオルガナスに突っかかってきた魔物、ヘガームだった。マオルガナスより小さい存在なのに今ではとても大きく映る。はるか上からマオを見下す。
『あのお方を止めることも出来ず、こんなちっぽけな体になってまで情けねえ。今のてめぇは脅威じゃねえ。今ここでてめぇを喰らってオレサマが上だと証明してやる。オレサマが番犬に相応しいんだよ!』
ヘガームが襲い掛かる。圧倒的な体躯、魔力量、勝敗は火を見るよりも明らかだった。弱体したマオに勝ち目はない。攻撃を避けるだけでも精一杯、いや避けきれていない。攻撃の余波が体にぶつかって傷ができる。
「マオっ! ダメよマオ、逃げて!!」
ああ、レアがボクの名前を呼んでいる。ボクを想って泣いている。ボクのために……
『あ……?』
体が痛い。体が熱い。どくどくと脈打つ。傷口から魔力が零れる。動けない。
『おいおい何勝手に人間なんかに殺されてんだぁ。てめえを殺すのはこのオレサマだろぉ』
「マオーっ!!!」
「へ、へへっ……どうだ魔物め。死ね、死ねぇ!!」
刺された剣が引き抜かれ、もう一度振り下ろされる。けれどその剣が再びマオに刺さることはなかった。肉を貫かず、刃が折れた。
「ひっ、ひぃぃ」
怯えた人間が腰を抜かず。顔を青ざめさせて間抜けな様子で後退する。さっきまでの威勢のよさは完全に消え去っていた。
意識が朦朧とするマオとは反対に、眠っていた頭が目を覚ます。立ち上がって空に向かって吠えた。空気が振動する。木は揺れ動物は逃げ大地が怯える。
マオルガナスは大気中の魔力を吸収する。傷は消え、小さな体躯は大きくなっていく。力が戻るのが感じる。それと同時に感覚が共有される。苦しみ、寂しみ、怨み、悔しみ、怒り、哀しみ、恐怖、憤慨、憎悪、悲痛、喪失、罪悪感、嫌悪、空虚、絶望。閉じ込めた感情が暴発する。大きな感情の渦がぶつかり、混ざり合っていく。意識が塗りつぶされる。
四八の頭が喰われた。二つの頭では今まで通りに存在を保つことは出来ない。崩れた均衡がマオを圧し潰す。
マオの意識が消える前にレアを見た。楽しかった。嬉しかった。幸せだった。死にたくない。離れたくない。まだ、一緒にいたい……。
マオルガナスは暴走した。二重の咆哮は天をつんざき大地を震わせた。その牙はヘガームを食いちぎる。その爪は大地を引き裂く。その魔力はすべてを蝕む。
「いや、やめて……マオ!」
レアがその名を呼んでもマオが戻ることはなかった。そしてついにマオルガナスはレアを見た。その眼にマオはいない。空虚で何も映していなかった。
レアの頬に涙が伝う。哀しくて苦しくて胸が張り裂けそうだった。
暴虐な魔物が怖い?
みんな死んでいく?
違う違う違う違う違う!
大切な家族が泣いているから。痛いって苦しいって嘆き哀しんでいる。助けてって叫んでいる。
レアは立ち上がる。マオルガナスの先、二匹で身を寄せ合ているマオを見つめる。しっかり地を踏みしめて両手を広げる。強い瞳で、けれど優しく微笑んでその名を呼ぶ。大きい声じゃない。だけど浸透するかのように音が伝わる。
マオルガナスが吠える。ビリビリと体を震わす程の圧迫感がのしかかる。さらに魔力が放出される。地を強く蹴って、高く高く跳躍する。最高点に到達したマオルガナスは反転して急降下する。その真下にはレアがいる。両手を広げて待つレアの姿があった。
視線が交わる。その時、心が繋がった気がした。何もない空間に仔犬姿のマオとレアの二人だけ。手を伸ばせば届きそうな距離なのに遠く感じる。真っ直ぐ見つめるマオが笑う。
『レア、大好き!』
「っ、マオ……」
現実に引き戻される。泣きそうになるレアは堪えて空を見上げ、マオルガナスを見据える。決意は固まった。
目を閉じて息を大きく吸って、両手を合わせた。パァンと大きな音を響き辺りが静まる。静寂な中でレアは静かに瞼を上げて手を開く。開いた手の中に半透明な光の円が作られる。その円はどんどん大きく広がり大地を包む。両手を天に掲げたのとマオルガナスが円に触れたのは同時だった。
激しい衝撃が加わる。圧されて円は振動し沈み込む。音を立て大地が震撼し大陸が分離する。
長くも短い時間だった。急に円にかかっていた圧が無くなった。
レアが見上げた時には頭上にはマオの姿がなかった。半透明な円は太陽に照らされて光り輝いている。光の膜の先には雲一つない青空が広がっていた。
レアは膝をついて天に向かって泣いた。大声で何度も何度もマオの名前を叫びながら泣いた。声が枯れて意識が途絶えるまで何度でも何度でも。
時は過ぎ、レアが生涯を終えたあとも、彼女がつくった円が消えることはなかった。いつまでも人々と大地を優しく包む慈愛の聖域。
それが中央大陸アラストルの結界。初代聖女レアの伝説の一節。




