シアノスVSテンサイ
地響きが絶えない。大地が縦ぶれして立っていることですら困難だ。その揺れもどんどん激しくなっていく。発生源が近づいている証拠だ。シアノスは飛ぶことを止めて地面に降り立つ。
「おっとと」
振動に足を取られて重心が崩れる。なんとか転ばずに済んだがこの中を歩くことは無理だと判断する。遠くで砂埃が巻き上がっている。木より高さがあるテンサイは下にしてもその姿を居場所を把握できる。真っ直ぐシアノスの方に向かっている。それもそのはず、シアノスがテンサイの直線上に移動したのだから。
そこにはシアノスただ一人。氷薔薇ノ王は還した。この一頭も彼女に任せてもいいのだがお願いして還ってもらった。拗ねてしまうことを懸念していたけれど彼女は快く了承した。
シアノスは試したい薬があった。それにはロサがいると非常に都合が悪い。シアノスは瓶を取り出す。今回の薬は大きな瓶に入っている。粘着質があるような黒い物体は生きているかのように蠢いている。ドロドロと脈打っているようにも見える。触わるのも躊躇われるほどに醜いそれだが、見た目に反して臭いはない。
魔力を蝕む薬なのだがこれはまだ試作だ。試作といっても完成はしている。だが効能のデータが足りていない。人にも魔道具に有効なのも立証済み。あとは魔物だけだ。人に使えば魔力操作が出来なくなり魔術も発動できない。魔道具に掛ければ起動しなくなるどころか刻まれている魔術式にも影響を及ぼした。魔物に掛ければ動きが遅くなるのは試したがもう一つ欲しいデータがあった。
シアノスの見立てではこの薬は魔物にとって天敵になるほどに脅威となるはずだった。魔物には心臓となる核がある。魔道具で用いられる魔石は魔物の核だ。つまり魔力の塊と同義だ。
恐らく魔物の動きが鈍くだるだけなのは肉体があるから。肉体によって薬が核に辿り着くのを妨害しているのだ。ならば肉体のない魔物であれば?
実体を持たない魔物はレイスや妖精が挙げられる。妖精に試すわけにはいかないし、レイスは遭遇するのが難しかった。アンデットの迷宮に行くのも迷ったがレイスの目撃例が少なく階層も深いところなので躊躇いがあった。単純に面倒くささが勝った。そんな中、テンサイは絶好の魔物だった。
魔蝕薬を蒸発させて霧状にする。だが粘りがあるせいか重みがある。予想外だった。テンサイはもう目の前に迫っている。さすがに焦りが生まれる。もう時間がない。揺れでもう立っていることができない。ぺたりと地面に座り込む。テンサイがどんどん近付いてくる。
深呼吸を一つ、覚悟を決める。霧を一か所に集めて思いっ切り斜め上に風を起こす。風に乗って霧が前方に広範囲に広がる。霧との距離がそれほど離れていない。
テンサイが霧に入る。例え効果があってもそれまでの勢いが強すぎて止まるのに時間が掛かる。シアノスは動けない。もう、賭けだった。
「――――っ!」
霧を抜けたテンサイは明らかに小さくなっていた。そのままみるみるサイズが小さくなっていき、最後は大きな玉になって縮小が止まる。コロコロと転がってシアノスに当たって止まる。
安堵の息を零してテンサイだった玉を両手で持ち上げる。シアノスの胴体ほどある大きさの玉はそのまま核の大きさと示す。ピシりと音を立ててひびが入る。ひびは止まることなく大きくなり砕ける。
実体のない魔物には極めて有効だと証明された。核までをも蝕む。
やはり妖精に試さなくて良かった。それと同時に惑いの森で使用するのは禁止にした。万が一にもロサに危険がある要因は取り除く。それでも、もしものために実用性を高めておこう。
シアノスは街に戻るために古代魔法で身体を浮かそうとして目を見開く。魔法が発動しない。気を付けていたがどうやら魔蝕薬に触れてしまったようだ。
念のために魔女のローブ並びに装備していた魔道具を全部しまっておいて良かった。そうでなければ魔道具としての機能を失っていたことだろう。その点は喜ばしいことだった。その点だけは。
今いる地点は街からある程度離れた森の中だ。空を飛べばすぐの距離だが、歩いて戻るとなるとなかなかに時間を要する。加えてシアノスには体力がない。
磨蝕薬を己で試したときは一口飲んだだけで魔力が使えるようになるまで一日かかった。今回はそれよりも少ない量だろうけどそれでも回復するのは半日はかかりそうだ。
「最悪……」
回復するまで待つには時間が掛かりすぎる。それまでの間やれることは何もないし、仮に魔物が現れたら終わりだ。抵抗する手段が一つもない。
シアノスは諦めて歩いて帰ることにした。
街に着いた頃には空は夜の帳が降り始めていた。街の門はすでに開け放たれて中に入ることが可能だった。民たちはテンサイの脅威が去り、生きていることに喜びを噛み締めていた。
森の中を歩くことには慣れていても何分体力がなかった。街に着くころには息が上がりフラフラだった。
他の魔女に連絡を取ろうにも通信の魔道具は使えないし、休憩しようにもお金は亜空間に収納しているので取り出すこともできない。
なにもできなくて苛立ちが募っていく。魔力が使えないとはなんとも不便なことか。失って初めてその重要さに気付くとはこのことか。便利で使えることが当たり前だったからこそ余計に格差が大きい。
そして今はローブを羽織っていない。通信の魔道具を所持しているであろう冒険者に声を掛けようにも魔女として証明することから始めないといけない。素顔を容易に晒すわけにもいかないのでこの案はもちろん却下だ。
結局自力で合流するしか選択肢はない。疲労で今にも座り込みそうになる身体を叱咤して街を彷徨う。
肩を落としてフラフラと歩くシアノスを遠くで見つめる人影があった。
「シンシア……?」
声の主は否定するように頭を振る。
「違う、シンシアは、あれはもう死んだのよ……」
もう一度彼女を見ようと目を向けたときにはもう姿はなかった。遠目でもその姿ははっきりと覚えている。確証はない。けれど、確信があった。
それでも、信じたくないという気持ちの方が強かった。見間違いであってくれと、他人の空似であってくれと願わずにはいられない。
だって彼女は、もう死んだのだから。
それでも、気が気で仕方がなかった。
怖くても確かめたい。
本当に彼女だとしたら――




