漏出した薬
同時刻、場所は温泉街から少し離れた場所にある一国。独自の文化と風習が織りなす異彩の地、東国チェルサイ。その中でも一等豪華絢爛な建物にシアノスは降り立つ。時間は夜というだけあって灯りは少なく静かだった。
「むっ、何者だ!」
ちょうど近くを巡回していた兵に見付かった。何せシアノスはメルツに乗って悠々と敷地内に侵入したのだ。見つからない方が無理な話だ。すでに何人かの兵は集まってシアノスに槍を向けて囲っている。だがそれも少しの間だけだった。槍を構えていた兵たちは急にバタバタと倒れだした。こちらに近付いてくる足音の方に目を向ければ二人の男が目に入る。一人は線の細い文官、もう一人はガタイの良い武官らしかった。
「ま、魔女様、はぁ、申し訳、ございません。兵に伝達が、す、すぐにご案内を……げほげほっ」
体力がそこまでないのだろう。息が整う暇もなく開口した文官は途切れ途切れで話す。しまいには咳込んでいる。数度深呼吸をして落ち着いたのか状況に戸惑いを見せる。
「失礼ですが、倒れている武官にいったい何を?」
「眠っているだけ。すぐに目を覚ますわ」
「そ、そうですか。ではそのままでも問題ありませんね。ではご案内致します」
シアノスが使ったのは自作の睡眠薬。即効性で嗅げば倒れるように眠る代物。持続性はないから数分もすれば目が覚める弱めの薬。睡眠というより気絶の方が表現が近い。それを風を操って兵の顔に漂わせただけ。暗いからなおさら気付くことも避けることも困難だ。
命に別状はなくただ眠っているだけということで二人は安心して道案内をする。眠らされた兵たちは言葉通り、置き去りだった。
「失礼します。ジウイ殿、魔女様をお連れしました」
「ああ、ご苦労」
少し灯りの落とした室内、香の匂いと墨の匂いが交じり合う。装飾は少ないが決して質素ではなく気品と統一感がある部屋。机の上に積み重なった文書で山がいくつも出来ていた。
その部屋の主で今回シアノスの目的の人物である男の名はリー・リジウ。若くして最高位執政官にまで登り上げ、帝の覚えもいい実力者だ。加えて高位貴族の出自で眉目秀麗の品性良し性格良しの人気者。未だ独身とあって最有力物件と若い女性からはては未亡人までもが彼に求婚がしている。届いた恋文は数えきれず、が今まで色恋の話は一切聞かず、まことしやかに男色の気があると囁かれている。そんな彼は緑の魔女の依頼主だった。
「よくぞ参られた緑の魔女殿。……が、何もこんな夜更けに参られずとも」
「先触れは出した」
「確かにもらったが……」
想い起こすのは夕餉の刻。魔女が使う伝書鳥がやって来たのはほんの数刻前のこと。手紙には経った一文、『依頼の話』とだけ。もちろん、いつ来るかなどは書いていない。そんなわけで急すぎる魔女の訪問に対応が追い付かず兵が侵入者と勘違いしたのが事の次第である。
「先ずは謝罪させてくれ。我らの不手際で魔女殿との契約に反してしまった、本当にすまなかった」
「……」
「厚かましい願いであると承知の上、どうか取引は取りやめないで欲しい」
「それはわたしが決めることよ」
シアノスは容赦なく突き落とす。そこに一切の人情は存在しない。裁決は、天秤は魔女にある。反省の色があろうがなかろうがシアノスにとって謝罪に価値はない。
「ああ、もちろん分かっている。首謀者をここへ」
「うぐっう」
後ろ手に拘束され猿轡を噛まされてた小汚い身なりの男が連行されてきた。自分の犯した罪を理解しているのか、こちらを見る目には怯えの色がはっきりと出ていた。
「彼は後宮を担当している宦官の医官だで魔女殿の薬の管理をさせていた。そして、此度の首謀者。どこから情報が漏れたのか薬のことを知った教会勤めの彼の弟が譲ってくれと頼み込んだらしい」
シアノスは黙って男を見る。魔女のローブを目深に被っているため相手には顔が見えない。無言の圧と冷たく見下す眼光が射す。それだけで身体が震える。猿轡を外された男は勢いよく弁解を口にする。
「お、おれは悪くねぇ。あいつに頼まれて断ったんだ! でもあいつはあろうことかおれの妻子を人質にとって脅して来たんだ。ホントだ、信じてくれ……!」
「……」
「本当なんだ……信じてくれよ。やりたくてやったんじゃねえんだ。でも愛する妻子を助けるにはこれしかなかったんだよ。もうあいつは弟でもなんでもねえ、犯罪者だ。あいつと同じ血が流れているってだけで吐き気がする」
「……」
縋るように嘆願する男の様子は無言で見下す。変わらぬ視線に冷や汗をかきながらも必死に弁明する男の姿はとても醜く映る。聞こえよがしに大きなため息を吐くとビクリと体を揺らし口を閉ざす。
「飲みなさい」
いつの間にかに手にしていた瓶にはおどろおどろしいくすんだ緑色の液体が入っていた。コルクを開けて瓶口を男の口に押し付ける。鼻を突く異様な臭いに顔を顰める。害があるようにしか見えない謎の液体を飲み込むには抵抗しかなかった。固く結んだ口は一向に開かれる様子はない。
取引中断の焦りがあったジウイは男の顔をひっつかみ、無理矢理口を開けさせた。そのまま瓶の中の液体は男の口の中に入っていき、吐き出さないように口を固定させた。抵抗空しく謎の液体を飲み込んだ男は盛大に咽る。ジウイにとって大事なのは取引の存続であってこの男の命ではない。あの液体が何なのかは知らないが取引が継続される可能性があるのなら何でもする所存だった。
「うえ……げっ、おえぇ。くそっ何を飲ませた!?」
「毒よ」
「毒ぅ!?!? 殺すのか、うう、なんだ? 体が痒い。あああ、痒い痒い痒い! 痒くて、くそ、拘束を解いてくれ。ああ全身が痒くておかしくなる。なあ、助けてくれよ……! ふざけんなっ、おいどうにかしろ!」
男の皮膚に赤い斑点が浮かび上がる。痒くて痒くて、掻き毟りたいほどに全身が痒くてたまらないのに拘束された手ではそれすらも出来ない。何もできず身悶えて大声を上げることしかできない。それも、なんの気収めにもならない。
「正直に話せばその痒さからも解放されるわ」
「話す、話すから! 早く助けてくれよ」
立場はすでに確立した。絶対的強者の魔女のえげつない手腕にジウイは恐れる。そして心の中で絶対敵に回してはいけないと改めて決意を固めたのだった。




