第一声は「愛してる」
眠る女性の顔は、少しだけ幼さが残る整った顔だった。半分ほど顔が隠れているのに、美しさは十分伝わってきた。
僕:キレイだな……。
そう、こぼしていた。その言葉は、虚しく静寂に吸い込まれていった。
女性の顔には無数の傷があり、とても痛々しかった。一生、目覚めないかもしれない。でも、別にいい。
僕:はあ……。
ため息では、何も出ていかない。息をすることも、ままならなかった。
僕にとっては、ただの知らない女性だから。好きではない人がどうなったって、僕には関係のないことだ。
女性は今も、僕の隣で眠っている。いつもと変わらない、綺麗な顔で。僕のせいで、女性が意識をなくした。それから毎日、そばで顔を見つめている。
女性:おはよう……。
そう言って、目覚める女性を想像していた。
女性:ごめんね……。ありがとう……。
そんなことも、言ってくるだろう。少し怖くなって、想像をやめた。
あの日から、3日が経った。だが、一向に目覚める気配はない。女性の顔や手の傷は、僕の傷より遥かに酷い。何度見ても、慣れることはなかった。
僕:痛かったよね……?
女性に少し、感情を入れ始めていた。この状況では、無のままの方が難しい。
女性の痛々しい傷を見るたびに、僕の頭には、罪悪感が蘇ってくる。そばにいることを、女性の両親が望んでいる。そんなこともあり、僕は仕方なく会いに来ている。
好感度を下げたくない、という気持ち。そして、罪悪感などが、僕と女性を辛うじて繋いでいるのだ。
仕事で疲れているのに、今日も好きではない女性と、共に過ごしている。女性と同じ空間に、5日いる。でも、全然恋愛感情が湧いてこない。
女性:好きだよ……。生きててよかった……。
そんなことを、言ってくるだろうか。女性は、そういう人なのだろう。
動かず、何も言葉を発さない女性。だから、恋愛感情を抱かないのは、普通のことだ。
僕と女性は、恋人だとまわりは言う。だけど、この女性に関する記憶がない。そんな僕からしたら、ただの赤の他人だ。
他の人のことは、全て覚えている。なのに、この女性の記憶だけ、ぽっかり抜けている。僕がもっと注意して運転していれば、あの事故は起きなかった。
事故がなければ、僕がこの女性を忘れることはなかった。女性が意識を失うこともなく、幸せな生活が待っていた。
軽傷の僕には、想像出来ないほどの苦しみが、女性にはあるはずだ。それなのに、女性は安らかな顔をして眠っていた。
人見知りの僕は、眠っている女性が相手なのに、一言も声をかけてやることが出来ないでいた。
女性:あっ……。
そう、聞こえた気がした。でも、今までと変わった様子はなかった。気のせいだったのだろう。
僕はイスに座るために、病院に来ているようなものだ。目覚めても、僕と同じように記憶喪失であってくれ。そんな、馬鹿な期待をしている自分がいた。
いつものように、彼女の顔をのぞき込んだ。今までと変化したところは、何もない。
僕:変わらないか……。
ぼそっと、言っていた。何か、変化が起こってほしい。今は、その気持ちでいっぱいだ。
6日も経つと、嫌でも彼女の顔が頭に刻み付けられる。僕は彼女が眠るベッドの横で、椅子に座った。
そして、鞄から手紙を取り出した。この手紙は昨日、引き出しの奥から、偶然見つけた。彼女からの手紙だ。
僕:読んでみようかな……。
そう、口に出していた。変わらない病室の中で、僕の気持ちは変わり始めていた。
彼女に興味はないが、手紙を見れば、僕の気持ちも少しは変わるかもしれない。僕は手紙を開いて、一気に読んだ。
彼女:体調はどう? 月に一回はあるという、少しも体調が悪くない日はもう来た? 体調には気を付けてね。ユウヤくんの体調不良は、私の体調不良でもあるから。
僕を気遣う言葉。それで、埋め尽くされていた。彼女の、優しさが見えた気がした。
彼女:初めてした映画館でのデートが、一番記憶に残っているかな。ずっと、憧れていたから。王道デートが、やっぱり一番だよね。ひとつのポップコーンを、ふたりで食べてね。怖くなったら、手を繋いでくれてね。優しかったな。
僕とした、デートの思い出。それが、日記のように書かれていた。楽しそうで良かった。
彼女:愛してるよ。たぶん、何があっても愛は変わらないと思う。ずっとずっと、一緒にいたいくらい好きだよ。ありがとう。幸せを教えてくれて。
僕への、好きという気持ち。感謝の気持ち。それが、この手紙には溢れていた。文面から、人間らしさを感じていた。
デートの想い出。僕への気持ち。丸みを帯びた文字。
そのすべてが、こぼれ落ちそうなほどの、優しさに溢れていた。彼女の、僕に対するたくさんの愛が、手紙には詰まっていた。
手紙を読んでも、彼女のことは思い出せなかった。でも、いい人であることは、間違いないだろう。
僕:なんで、何もして来なかったんだ……。
彼女に、踏み込めなかった。だから、自分に腹が立った。こちらから、歩み寄らなければ、近づけないのに。
僕はまだ、彼女のほんの一部しか知らない。だから、これからもっと彼女のことを、知っていきたいと思っている。
事故から9日。小さな声ではあった。でも、初めて彼女の名前を呼んでいた。
僕:サヤカさん……。サヤカさん……。サヤカさん……。
気のせいかもしれない。それでも、眠っている彼女が、一瞬だけ笑った気がした。
手紙で彼女が、僕を必要としていたことは分かった。でも、今も必要とされているかは分からない。
必要とされていなくても、目覚めるまで、これからもずっと、会いに来ることをやめない。
僕:絶対に……。絶対に目覚めてくれ……。
まだ、彼女を好きになった訳ではない。だが、だいぶ興味が出てきたのは事実だ。
彼女からの手紙を読んだ後。僕は、思い出のものを探した。あと、彼女について詳しく、友達に聞いたりしていた。
記録するのが好きではない。だから、思い出の写真などは、ひとつも見つからなかった。だが、僕が知らない彼女の話は、色々聞けた。
僕:なんで……。なんでなんだ……。
それが、口癖になっていた。本当に、なんでと思うことばかりだった。
彼女がカッコよくない僕に、一目惚れしたなんて話は、信じられるはずがない。
話を聞いた時に、友達は僕に、彼女の動画を見せてくれる。そう言ってきた。でも、断った。
彼女の動く姿を、僕が初めて見るのは、彼女が目を覚ました日になるだろう。
僕:お願いします……。お願いします……。
神に願っていた。それしか、出来ないから。
今も時間は止まることなく、経過している。目覚める確率は、どんどん減っていっている。
だが、彼女は必ず目覚めるはずだ。
今は前とは違って、自分の意思で病室まで会いに来ている。でもまだ、なんて、喋りかけていいのか分からない。
僕:サヤカさん……。
未だに『サヤカさん』という名前だけしか、言っていない。
ほとんど変わっていないはず。なのに、最初に見た時より、可愛くなった。そう僕の脳は、判断していた。
僕:かわいいな……。
11日間、サヤカさんの顔を見ていても、何も思い出せない。そうなると、一生思い出すのは、無理なのかもしれない。
友達の話によると、サヤカさんが僕に初めて言った言葉は『愛してる』だったらしい。
かなり変わっているが、そういう女性は嫌いではない。
サヤカ:愛してるよ……。愛してる……。
想像してみた。だけど、やっぱりしっくり来ない。
好きすぎると『愛してる』が、言うことを聞かないのか。勝手に口から、出てきてしまうものなのだろうか。
いくら好きでも、初めて喋る人に『愛してる』と言うなんて。僕には到底出来ることではない。だから、スゴいと思う。
現在、サヤカさんの容態は安定している。今にも目覚めるのではないかと、思うくらいだ。
サヤカ:ユウヤ、おはよ……。
そう、さらっと言ってくる。それも、あり得そうだ。
恨まれるようなことをした僕。そんな僕だから、目覚めたらサヤカさんは、僕を受け入れてくれるだろうか。
目覚めてほしい。そんな気持ちがある。だから、僕はサヤカさんの手を、両の手で包みこんだ。そして、祈っていた。
ユウヤ:目覚めてくれ……。はやく話がしたい……。話をして時間を取り戻したい……。
心の声は、感情がこもりすぎていた。
13日目にして、僕は初めてサヤカさんの手を握った。サヤカさんの、小さくて柔らかなこの手の感触には、全く覚えがない。
ユウヤ:柔らかい手……。
僕は実際に喋ってみないと、その人に好意など抱かないと思っていた。でも、恋愛感情に近い何かが、僕の中で生まれていた。
今は忘れてしまったが、サヤカさんはそれまで僕が愛していた女性。サヤカさんに僕が好意を抱くのは、当たり前なのかもしれない。
サヤカ:ユウヤくん……。ユウヤくん……。ユウヤくん……。
頭の中の、サヤカさんがたまに呼んでくる。最近、僕の頭の中には、常にサヤカさんがいる。
後遺症なく、僕の記憶があるまま目覚めて欲しい。そう願いながら、僕は握りを強めた。
ユウヤ:はあっ……はあっ……はあっ……はあっ……。
息を切らして、僕はサヤカさんに会いに来た。様々な感情を抱きながら、サヤカさんのいる空間へと入る。
今、僕の目に映っているサヤカさん。それは、毎日見続けてきた今までのサヤカさんとは、違った。自分の意思で、動いていた。
ユウヤ:あっ……。ああ……。
僕の目は、言うことを聞かない。突然、涙がこぼれ落ちた。ずっと、まぶたで覆われていて、見えなかったサヤカさんの瞳。それは、予想以上にキラキラしていた。
ユウヤ:よかった……。
サヤカさんが目を開けた。それは、僕が昨日、サヤカさんの手を握って願ったことが、影響しているのだろうか。
サヤカさんに、微笑みながら見つめられてた。そこから、僕の喜びが、じわじわと上昇してゆく。笑顔は、女性を数倍、可愛くさせるものだ。
僕は、どう話しかけようか、悩んでいた。すると、サヤカさんが口を開いた。
サヤカ:愛してる……。
ユウヤ:あっ……。
初めて聞くサヤカさんの声は、優しくて、とても可愛らしかった。
サヤカさんの第一声が、友達の教えてくれた本当の第一声と、同じ言葉だった。だから、少し笑ってしまった。
他に言いたいことが、たくさんあるはずだ。なのに、ずっと眠っていた人が、第一声に『愛してる』と言う。そんなことは、普通はない。
だが、手紙や友達の話で知ったサヤカさんの性格なら、全然意外ではない。何より嬉しかったのは、サヤカさんが僕を忘れていなかったことだ。
(ユウヤ:僕も愛してるよ……。)
そんな言葉が、今の僕に言えるはずがない。僕は、どうしようもない駄目な男。自信がない僕が、言える言葉ではない。
それに『愛してる』は、本当に愛している人だけにしか、使ってはいけない言葉。今の僕が、使っていい言葉ではない。
今の僕が使っていい言葉は、謝罪の言葉だけだ。
ユウヤ:ごめんなさい……。僕のせいで……。
明るい女性だとは、聞いていた。だが、サヤカさんがこんなにも、ずっとニコニコしている女性だとは、全然予想していなかった。
今の僕と、サヤカさんの表情は、対照的だった。
サヤカ:ユウヤくんは、何も悪くないよ……。あれは、誰も避けることが出来ない事故なの……。私たちの運が、他の人より少し悪かっただけよ……。
ユウヤ:……うん。
僕とサヤカさんの、心の綺麗さも対照的みたいだ。たぶん、サヤカさんには、まだ誰からも、伝えられていないだろう。僕に、サヤカさんに関する記憶がないことを。
笑顔で、親しげに僕に話しかけるサヤカさん。そんなサヤカさんを前にして、記憶が無いなんて、言い出せるはずがない。
でも、ガッカリされても、言わないわけにはいかない。意を決して喋ろうとすると、サヤカさんが僕よりも先に口を開く。
サヤカ:ユウヤくんにプロポーズされた直後に、事故に遭うって……。運がいいのか、悪いのか分からないね……。
僕が、プロポーズをして結婚。今まで驚くことは沢山あった。でも、これが最近で一番かもしれない。
以前の僕は、プロポーズをするほど、サヤカさんを愛していたことになる。結婚に全く興味のない僕に、プロポーズをさせた。サヤカさんは、スゴい女性だ。
記憶がないことが、更に言い出しづらくなってしまった。出来るならば、サヤカさんの笑顔は奪いたくない。
出来るならば、サヤカさんには、幸せを保っていてもらいたい。でも、僕には記憶がないことを、告白する使命がある。だから言う。
ユウヤ:ごめんなさい……。僕……。サヤカさんのこと全く覚えていないんだ……。
こんなことを言われたら、誰だってガッカリする。サヤカさんも、きっとそうだろう。
言った時、サヤカさんの表情は変わらなかった。でも、目が少しうるうるしているように見えた。
少しの間、僕たちの唇は閉じたままだった。こんなに、沈黙が嫌だったことは、今までになかった。
サヤカ:今は、私のことを愛していないってこと……?
サヤカさんは、笑顔を精一杯保ちながら、元気のない声でそう言った。色々、対照的な僕たち。だけど、お互いを想う気持ちは、対照的なんかじゃない。
僕たち二人の気持ちは、今も着実に、同じに近づき続けている。好意は抱いているが、まだ愛しているには達していない。
どう返すのが正解なのか分からず、僕は言葉に困った。言葉を探していると、僕より先にサヤカさんが、口を開いた。
サヤカ:『ごめんなさい』はもう禁止ね……。仕方がないことだから……。
僕は、悲しさを笑顔で隠しているであろう、サヤカさんを見て、胸が痛くなった。感極まり、喋れない僕に、サヤカさんはこう続ける。
サヤカ:眠っている間も、ずっとユウヤくんのことばかり考えていたの……。愛されていなくても、ユウヤくんのことを考えているだけで幸せだよ……。でもね……。絶対にまた好きにさせる自信があるから……。
サヤカさんの、自信に満ちた自然な笑顔につられて、僕は泣き顔で微笑んでいた。
そして、前向きなサヤカさんにつられて、僕も少しずつ前向きへと、向かい始めていた。
ユウヤ:僕もまた……。サヤカさんを大好きになる自信があるよ……。
サヤカ:サヤカさんじゃなくて……。前みたく、サヤサヤって呼んでほしいな……。
サヤカさんの前だけに、僕の性格では考えられないことをする『僕の知らない僕』が、度々現れていたようだ。
それはきっと、本当に大切な人以外には見せない。僕の本当の姿なのかもしれない。
僕に関する記憶は、サヤカさんの頭に3年分ある。
それに対して、僕の頭にあるサヤカさんの記憶は、たった2週間分。
だが、それが僕たちの障害になることはない。
僕は、サヤカさんに第一声で『愛してる』と言うことが出来なかった。
でもこれから、サヤカさんに心のこもった『愛してる』を言える日が、必ず来るだろう。