シューティングスター ~ひょっとして、あれは君か?~
死んだ母の思い出です。嘘のような実話です。
昨夜、流れ星を見た。
ボブ・ディランの「シューティングスター」のように、
君を想った。
君が望む大人になれたか、考えた。
最近、自分が、嫌になる。
人と話す時、まるで寺の坊主のように、説教臭い言い回しをしている自分に気付く。
普段からよほど注意していないと、教え導くような、説き明かすような、教訓めいた物言いをしがちなのだ。
願わくばこの人生、どっひゃー! うっひゃー! ぱっぱらぱー! なんつって、陽気に佇んでいたいものである。
てか、一人黙りこくって、あれこれ思案している時でさえ、
自分に説法するかのような、悟りに向かうかのような、厄介な思考癖があるのよね。
どうして僕はこんな説教臭い人間なのだろう。
僕の父は、毎晩大酒を飲み、悪酔いをしては、中味のない説教をグダグダとする男であったので、
ひょっとしたら僕の説教癖は、父譲りかもしれない。ああ、最悪だ。
ちなみに僕は、死んだ母に、子供の頃から、もっともらしい説教をされた記憶がない。
これは僕が「模範的な良いお子様」であったという訳では、決してなくて。
単純に、母の性分であったと思われる。
とにかく説教臭い話が嫌いな人だった。
自分がされて嫌なことは、子供にもしなかったのであろう。
昔から「親の意見と茄子の花は千にひとつも無駄がない」なんていうけれど、
思えば、僕が憶えている「母の教え」は、たったひとつだけである。
あれは僕が二十歳になるかならないか位の頃のこと。
珍しく続いているアルバイトの帰り、最寄りの駅で下車すると、
当時、駅の掃除のオバちゃんのパートをしていた母が、改札口の向こう側のベンチに腰掛けて休んでいた。
僕は掃除婦姿の母の隣に座り、母と二言三言会話をした。
あれ? 母、何だか機嫌が悪い。
「どうしたん? 仕事で何かあったんか?」
と僕が訊くと、
「Qちゃん、これからお母さんが言う事を、よくお聞きなさい」
母は、いつになく強い口調で、せきを切ったように話し始めた。
「今朝、私が出勤した時、プラットホームに、大きなウンコがありました。
酔っ払いの仕業か、変質者の仕業か、それはそれは巨大な人糞でした。
私が出勤する前に、駅長も、車掌も、そのウンコを見ている筈なのよ。
でも、素通りよ。見て見ぬふりよ。
あいつら、ホント最低よ。
人糞ごとき、掃除婦が片付けりゃいいと思ってんのよ。
Qちゃん、あなたも、これから大人になり社会に出れば、様々な局面に出くわすと思うけれど、
どうか職場にウンコが転がっていたら、率先して拾える大人になってください。
これは、お母さんの切なる願いです」
職場に転がるウンコは、率先して拾え。
これが、僕の母の、唯一の教えだ。
職場に転がるウンコは、率先して拾え。
大人になり、人生を折り返した今日も、僕は、この教えを、肝に銘じて生きている。
んが、
いかんせん、いまだ職場に転がるウンコに出くわしたことが無い。
昨夜、流れ星を見た。
ママン、ひょっとしてあれは、君か?。
白む夜空に儚く消えゆく流星に、静かに想いを凝らす。
ママン、僕、きっと拾うから。