07話 フワフワ問答
滅多に日が当たらないためか、ほんのり湿り気を帯びた石造りの薄暗い裏路地、そこに面したなんの変哲もないドアの一つ。
見窄らしい外観に見合ったボロい内装か、もしくは雑多にガラクタが積まれた物置の景色を勝手にイメージしながら、妙な衝動に突き動かされるままにカビの生えたノブに手をかけ、なんの躊躇いもなく扉を開く。
「やあやあ! ずいぶん遅かったじゃないか? どこで油を売ってたの?」
部屋の中には、そう俺に呑気な声をかけてくる、女神フワフワがいた。
扉の先は、無垢材で構成されたフローリングに一面おとなしめの乳白色の壁紙、家具と言えるほどの物が一切ない十畳ほどのワンルームだった。
明らかにさっきまで通りで見てきた異世界建築とは別物、俺が元いた世界のどこかの洋室をそのまま切り抜いてきたかのような異質な部屋の中央に、フワフワは座布団を敷き、その上にあぐらをかいている。
正面にはもう一つ座布団が。
おそらくあれが俺の席ということなのだろう。
砂漠での一件でたまりに溜まった不満、怒り、疑問。
次に会ったときは全てをぶつけてやろうと思っていた、その瞬間が今まさに訪れたわけだが、正直もう、それらの感情は引っ込んでしまっていた。
目の前にいる女神フワフワ。
白い空間時の清涼感に振り切った女神然とした装いは何処へやら、跳ねまくりの寝癖、特徴的な垂れ目が眠たげに半分ほど閉じかかっているそのだらしない風貌に、空いた口が塞がらず俺は立ち尽くしていた。
うっわ……。
服装も、女神らしさのかけらもない着こなされた風のヨレヨレのパジャマみたいな、袖のとこなんか毛玉ができてて、なんだか……あれ?
あの出来事ってやっぱり俺の妄想かなんかだったのかな。
死にたてほやほやでなんでも綺麗に見えていたのかもしれない。
それとも「騙されてやってもいい」とか言ってたあの流れはこのことだったのか? だとしたら大成功だと言えるな。
だってあれだけの怒りが引っ込むほどだから、相当だ。
「ほらほら、何をボケーっと突っ立ってるのさ。 早くこっちにきなよ、大丈夫だ、私は別に怒ったりなんてしていないよ?」
和やかな表情のフワフワが、軽い仕草で手招きする。
なんだか見た目だけじゃなく口調まで砕けてないか?
こんなにフランクな奴だったっけ。
ま、まあでも、ひとまずは彼女が妄想でも走馬灯でもなかったことに、ホッと胸を撫で下ろすことにしよう。
ちょっとばかしイメージとの違いはあれど、彼女こそが俺をこの世界に転生させた女神フワフワであることには間違いない。
こっちが勝手に美化していた、ということにしよう。
なにはともあれ、また会えた。
「よ、よお、そっちは元気そうだなフワフワ」
フローリングから雑に切り取られたような造りの入り口で靴を脱ぎ、歩み寄り、用意された座布団に腰を下ろしながら、ため息と共にあいさつを吐き出す。
「え? うん、まあ、元気だけど?」
「なんか……、キャラ変わった?」
「変わったというか、プライベートだね」
「ああ、あー……、なるほど」
「うん、メリハリは大事だから」
歯切れの悪い俺の態度に不思議そうな表情を浮かべ、足の裏をぽりぽりと掻き始めるフワフワに、なんとも言えない感情を抱きながら、俺は続ける。
「こっちはおかげさまで、転生初っ端から大変だったよ。よくここまで辿り着けたなと褒めてもらいたいところだね、ほんとに」
「な〜にが『大変だった』だい、なかなかやってこないから心配してたんだぞ? 一体どこでなにをしていたのさ、まさかとは思うが『可愛い女の子がいたから声をかけてました!』なんて浮かれた理由じゃないだろうね?」
若干の皮肉を含んだ、ため息混じりの俺の言葉に、膨れっ面のフワフワが、そんな素っ頓狂なセリフを返してくる。
あれ?
ひょっとしてこの女神、自分がやったことを把握してないのか?
どうやら認識にかなりの差異があるようだ。
「いやいや何言ってんの、心配も何も、あんたがそもそもの原因じゃないのか?」
「む? どういう意味かな? 全く心当たりがないぞ。今だって、ずっと待ってたのになかなか会いにきてくれない君を想って、みょんみょんとフワフワ念力を発していただけだし……」
おでこに指を当てポーズをとってみせるフワフワ。
念力って、もしかしてさっき扉に引き寄せられた時に感じたアレのことだろうか。
にしてもひどいネーミングセンスだ、テキトーなのにも程がある。
目の前で微妙な顔をしている俺のことなど気にも止めずに、へんてこ女神様はうんうん唸っている。
「なあ、ほんとに何も思いつかないのか? 少しも心当たりない?」
「悪いけど、君がそんなに神妙な顔をしている理由が私には皆目見当もつかないかな」
「もしかして、転生の儀式失敗」
目を細め、何かを必死に思い出すように、真剣に頭を悩ませるフワフワに、俺が特別大サービスでヒントを出す。
すると彼女は聞いた瞬間ハッとしたように俺を見つめ、謝罪の弁を述べてきた。
「ああっ⁉︎ ああ……、そっかそっか、あー……、なるほどねどうりで、あはは……は……。 おそらく座標設定の段階かな、ミスっ……じゃなくて、誤差が生じたのは。 いやぁ、ごめんなちゃい」
気まずそうに頬を掻きながら俺に謝ってくれた。
と一瞬思ったが、よく聞いたらこれ弁明じゃなくね?
なんかふざけてないか? たぶん間違いなく絶対に反省してないだろコイツ。
沸々と込み上げるような怒りが……いや、待て。
フワフワのおかげで俺はこうしてこの世界に来ることができた、この女神はチャンスをくれたんだんじゃないのか。そのことを考えればほら、我慢できるだろう?
「でもあれはほら、君がごちゃごちゃ喚いて焦らせたからじゃないか! だから最後の方駆け足になっちゃったのであって、つまりはお互い様というか……」
「砂漠で遭難してた俺と、こんなところでダラダラしてたお前がお互い様なわけがないだろ。ミスったって言おうとしたの聞き逃してないからな」
耐えようと思ったのも束の間、俺は本能的に口撃に転じていた。
「あんな騙し討ちみたいなやり方で……」
「いやあ、あはは。でもよかったじゃないか、こうして無事にまた会えたんだしさ、うん、そうだよ。そうさ」
俺が葛藤に身を震わしていると、この頭の中もふわふわしてそうな女神もどきは、挑発的な上目遣いでボソボソと弁明を始め。
「はい! もうこんな話はやめようよ、ね? 過ぎたことは忘れ、先だけを見て進むのだ、若人よ。 ところで街に着いたんだから彼女の一人くらいはできたんだろう? どこまで進んだ? 聞かせてくれよ〜うりうり」
ついにはにこやかな表情で、話題は俺の彼女に移り……、いや。 いやいやいや……、いや⁈
ぷちんとなにか、心が弾ける音がした。
「できるかああああ! できる! わけ! あるかああああ‼︎ 何がどうなったらこの流れで俺に彼女ができてんだよ! 話聞いてた? 遭難してたんだよ? こちとら危うく転生初っ端から死にかけて、街にはついさっき来たばっかだっつってんだよ!」
荒げるとまではいかないが、語気には自然と力がこもる。
「えぇ? なんか君の心の中に優しそうな人の面影が見えたからなんとなく聞いてみただけなんだけど。
そっか違うのか、少し期待しすぎたみたいだ。
う、まあまあ落ち着きなよ。そんな怖い顔しないでさ、冷静さこそが大切なことなんだろう? 必要とあれば温かい飲み物でも……」
「てっきり異世界じゃなくて地獄に送られたんじゃないかって怖くて、不安で……! 偶然助けてもらえなかったら今頃乾涸びて死んでたんだぞ。 それを女神というやつは……」
「元はと言えば! なにかを貰えることを前提にしていた君の卑しさが招いた悲しい事故だろう? 私だって悪気があったわけじゃないんだぞ、だからさっきは自らの非を詫びて謝罪を……。 それに、神でも手先が狂うことはある」
「開き直ってんじゃねーぞコラ。 あの展開だったらひょっとしたらって思うのも仕方ないだろ、俺の地元で異世界って言ったら大抵相場は決まってるんだよ。 それを、動揺してたところを送り出した挙句、砂漠で遭難させるなんて、こんな酷い話ありますか? あと『ごめんなちゃい』は謝罪とは言わない」
「ひどい! 勝手に期待したことを棚に上げて。 バカだのアホだの薄汚い詐欺師だの……、そこまで言わなくてもいいじゃないか! 私だって傷つくんだぞ!」
「いやそこまで言ってないだろ……、勝手に足すな。こっちだってせっかくもらった第二の命かかってたんだからこれぐらいの文句は……、おい、やめろ痛い痛い! なんだよ言い返せなくなったら暴力だなんてあんたそれでも女神か⁈」
にやつきながらギリギリと頬をつねってくるフワフワの指をなんとか引っ剥がす。
「大体なんでここにいるんだよ、それもこんなところに部屋なんて構えて」
「なんでって、転生させる時ちゃんと伝えただろう? 『またあとでね、ちゅっ』って」
「そんな可愛げはなかった、もっと下卑た表情してたよあの時のあんたは」
「あっ、ひどーい」
冷たくあしらう俺を膨れっ面でポコスカ殴りながら、懲りずに女神は口を開く。
「いいのかなあ? これ以上私と争うのなら『天罰』が下るかもなあ、いいのかなあ?」
「天罰だあ? そんなもんに砂漠で鍛えた俺のメンタルが屈するかよ! ……ちなみに天罰にはどのようなものがあるのでしょうか?」
「足を滑らせやすくなる、効果はその場の危険度に比例、とか?」
「それだけは勘弁してください」
開き直ったフワフワとの水かけ論対決にあっさり敗北を認めた俺は、迷うことなく座布団の上で土下座を敢行した。
圧倒的な被害者のはずなのに。
過失割合で言ったら10:0だろ。
こんなのあんまりだ。
「うふふ、表を上げ給えよ、冗談さ。 ふむ、でもそうか、君は今さっきその砂漠とやらからこの街に辿り着いてきたばかりか、なるほどね。 ということは進捗も何もないってことだ」
平伏する俺をよそに、すっかり落ち着きを取り戻した様子のフワフワ、いや、雰囲気に無理やり飲み込んで力ずくで丸め込んだ、と表現した方が正しいかもしれない策士フワフワが、悩ましげに俺の後頭部に向かってそんなことを言ってくる。
「なあその。 気になってたんだけどさあ、俺この世界でやらなきゃいけないこととかあんの? 進捗ってなによ、魔王でも退治しろってのか? できる気がしないしやる気もないんだが、大体なんで俺なんだよ……」
強気に弱音を吐く俺に、楽しそうに目を細めたフワフワが微笑む。
「女神様の言うことは素直に聞くからさ、もう歯向かおうなんて思わないし。 ……だからその、なんだ。 今からでもいいから異世界特典なんかもらえないか? その暁にはモンスターだろうが魔王だろうが喜び勇んで戦いに行ってやるから。 だから、一番いいのを頼む、女神フワフワ」
「…………」
「天罰はいらないから能力をください」
「天罰なんて与えないし、そもそも与えられないよ、言っただろ? 冗談だって」
視線を落とし、床の木目を指先でなぞりながら、声のトーンは変えずにフワフワは続ける。
「君、ゲームとか、やったことあるだろ?」
「ああ」
「じゃあ、改造だったり、チートだったり、……あるいは、バグだったり。 そういうのを使ったことは?」
「俺はそういう、少し指先を動かしただけで強くなった気になるのが嫌だったし、強くなるまでの過程が一番楽しいって思ってたから……使ったことはない……かな」
なんだこれ、自分で言っていて虚しくなってきた。
この女神め。
おちゃらけたと思ったら真面目に諭してきたりと、とんだ口巧者じゃないか。
「それに、俺みたいな素人が下手に弄ってデータが破損でもしたら、とてもじゃないが敵わなかったからな。
ぽんぽん買い直せるほどの金銭的余裕はなかったんだよ。
はあ……、これで満足か?」
「へえ、そりゃ感心だね、悠介」
「おい、なんだこの手は。 こんなのいいから話を続けろよ、まだあるんだろ?」
名を呼び、子供を褒めるように優しく頭を撫でてくるフワフワに、ぶっきらぼうに促す。
「おやおや可愛いねえ、照れちゃって。 まあそうだな、イメージとしては同じようなものさ。 無理に改造すると壊れる可能性が生まれるように、世界に変化を加えようとすると、そこには必ず跳ねっ返りが発生するのさ。 生じた影響の良し悪しは誰にも分からない、この私にさえもね。 だから君に対してに限らず、私が天罰と称して誰かに罰を与えるなんてことはできないんだよ、これで少しは安心したかな?」
小首を傾げ、ニコニコと笑う。
そんな大層な理屈があったんなら冗談でも言うなよ。
実際にできてしまえそうだった分、余計にタチが悪い。
「同様に、困っていた君に気付けていたとして、私自身が助けに行くわけにもいかなかったんだよ。 この世界に生きているのは君だけじゃない、女神として、どこか一つに肩入れすることはできないからね。 転生に不備があったのは認めるよ、本当にすまないことをした」
「あー……つまりは、俺が今から異世界特典を改めて貰い受けることはできないってことでいいんだよな?」
「うん!」
「ああ……、そう」
「そして君が果たすべき使命とか、守らなきゃいけない大義名分なんてものも、無い!」
「そうなんだ、へえ……」
胸を張り、キッパリ言い切るフワフワ。
そうか。
異世界転生した青年、涼悠介には、特に決まった目標もなく、特別な恩寵もない。
なるほどなるほど、そうですか。
「あ、あれれ? なんか見るからにテンション下がってる?」
「え? そんなことないけど」
「いやいや、明らかに凹んでるだろ、君。それぐらい心を読まなくてもわかるぞ?」
俯く俺の表情を窺うように覗き込むフワフワ。
こんなことなら、ジュリアスについて行った方が良かったんじゃないだろうか。
平和な日本においてすら、なんの指標も決められず堕落を貪っていたぐらいだったのに。
危険がいっぱい、少し歩いただけだが、おそらく文明レベルも現代よりも数百年遅れたこの世界で、俺如きが何を目的に生きていくというのだろう。
「もう、しょうがないなあ、いいか悠介? あらゆる世界においてだね、計画通りなんてものは何一つとしてないんだ」
やれやれと肩をすくめながらも、フワフワが俺のことを励ましてくれ……
「君は十歳の時、十八歳でも童貞であることを予想できていたかい?」
「あれ? 今、俺のやる気を出させる流れじゃなかった? 気のせいかな、悪口が聞こえたんだが」
「いいから、どうなんだい」
「まずなんで決めつけてんだよ、俺だってそれなりにだね……」
「むむむ……」
「おい待て、なにしてんだ」
「心を読む」
「なんでそこまでするんだよ! はいはいわかった認めますよ、童貞ですよすいませんでした!」
なんで読心術を使われてまでこんな辱めを受けなきゃいけないんだろうか。
ひょっとしてこいつ実は俺のことが嫌いなのか?
「そんなわけないだろ」
「え?」
「大好きに決まってるじゃないか」
「え、えぇ……」
家族以外の女性に生まれて初めて大好きって言われた。もちろん前世を含めて。
いやまて、家族にもこんな小っ恥ずかしいこと言われたことなかったかもしれない。
ぐああ!
やめろ! ニヤけるな! こんなことで!
分かりやすく狼狽える俺を見て満足そうに微笑むフワフワ。
「私はただ、君に自信を持って欲しいだけなんだよ、せっかくこの世界に来てくれたんだから、楽しげに笑っていて欲しい、悲しい顔はしてほしくないんだ」
潤んだ瞳を呆気にとられる俺に向け、なおも彼女は続ける。
「考えてもみてよ、君の人生の中に、自らの命が十八歳で終わりを迎えること、そこから異世界に転生することは、計画されていたことなのかい?」
フワフワの射るような視線が、心を探るように真正面から向けられる。
そんなこと、誰が好き好んで計画するものか。
最終的には何も残せなかった人生だったさ、歴史に名を残すような偉業を成し遂げたわけでもない。 父さん母さん、妹、彼らが世を去った時。 簡単に、完全に、俺の存在は本当の意味で消えてなくなるだろう。
こんな人生設計、組んでるやつなんて絶対いない。
「これから何が起こるのか、それは誰にも分からない。 この際だから言っておくぞ、君が実は特別な力を持っているとか、その生き様が糞すぎて可哀想だからとか、そんな理由で君をわざわざ選んで異世界転生させたわけじゃないんだからね?」
こっちを見ろとばかりにフワフワが目配せし、大仰な身振りで声を張り上げる。
「この出来事は、私と君、お互いにとってただのきっかけに過ぎない、全ては成り行きなんだ。 こうして君の前では偉そうに神だと名乗ってはいるが、私が君やこの世界にしてあげられることはそんなに多くない、歯痒いことにね」
「名乗り以外も全部偉そうだけどな」
「ふふっ、まあね。 とどのつまり、私が言いたいことは、ごちゃごちゃ考えずに頑張れ! ってことなんだよ、悠介ちゃん」
う〜んとフワフワが座布団から足を放り伸ばし、寝転ぶような勢いで背筋を伸ばしてみせる。 ポキポキと小気味良い関節の音が、こちらにまで聞こえてきた。
「ほんと、とことん励ますの下手な」
「君が卑屈すぎるのがいけないんだぞ、本当に世話のかかる……。 話し相手くらいにはなってあげるからさ、辛くなったらまたおいでよ。 あ、もしも彼女ができたりして中々顔を見せなくなったらこっちから呼ぶからね? フワフワ念力で」
「なあお前まさか、俺のことを揶揄うためだけにわざわざこんなところに部屋まで構えてるわけじゃないよな? ピンチが訪れたら女神様らしく為になる助言とかするためだよな?」
変なポーズで挑発してくるフワフワに、おずおずと問いかける。
「悠介を揶揄うのは楽しい、ついでなら協力とかはしないでもない」
「話し相手ぐらいちゃんと自分で見つけるから、頼むから本気で困った時は助けてくれよな……」
フワフワは頼りにならなそう、というより、頼んでもできないことの方が多そうだ。
命を助けてくれたジュリアスとも、ついさっき別れてしまった。
今後の第一の目標は超頼りになる味方or盾or身代わり探し、ということに決定しよう。
もう死にかけたくないし、死にたくない。
「ところで悠介、いまさらだけど一つ確認しておきたいことがあるんだ。 君の言語機能の方はうまく作用しているかな? というのも、転生時に君に備えたものなんだけど、ほら、転生した位置の件もあったし、もしかしたらと思ってね」
「それは……、本当に今更すぎる話題だな」
死にかけてたからか、不思議なほど気にも留めていなかった。 思い返せばジュリアス、そして御者のおっちゃん、どちらとも問題なく会話はできていたなあ。 文字……、の方は街で看板をいくつか見た気がするけど、読めたかどうかまでは覚えていない。
真っ先に意識するべき所だろうに、街について相当安心しきってたんだな、俺。
「会話の方は問題ないと思う、命の恩人達と普通に話せたから」
「文字の方は?」
「うーん……」
「はい、これなんて読む?」
座布団の下に手を伸ばし、一枚の紙のようなものを取り出したフワフワが、さらさらと指で何やらなぞった後に、こちらに広げて見せてきた。
ミミズのようにくねくね唸ったり、象形文字のようにやたら角張った図形の組み合わせが描かれている、これは……。
「『聞いて驚け、見て笑え、僕はフワフワ様の一の子分、ユウスケです』……って何言わせんだこのヤロウ」
「おぉ、全部読めたね、すごいすごい。 前世における日本語と僅かな外国語、それらもともと君の脳みそに記憶されているものの中に、この辺り一帯での公用語である大陸言語を追加した形になっているはずなんだけど、どうやら不備はなかったようだね」
いそいそと紙切れを懐にしまい、拍手するフワフワを一瞥し嘆息する。
初めて読む文章はもっとマシなものにして欲しかった、と思うのは少々欲張りでしょうか。
「感謝はするよ、それは当然だとしてさ。 こんな面倒ごとになるくらいならしっかり転生前に説明してくれればよかったんじゃないのか?」
「君みたいなやつは言っても聞かないだろ、体験させるのが手っ取り早いと思ってね」
「その結果があれかよ……。 ちなみにもし言語野に問題が出てた場合はどうなってたんだ?」
「覚えられてないだけなら一から勉強すれば済む話だね。 万が一言語野の不具合だけじゃなく脳組織全体に影響があった場合は……ね?」
ね? ってなんだよ、ね? って!
こえーよ!
失敗例に砂漠で遭難よりも上があるなんて、想像しただけでも鳥肌もんだ。
あれでも運が良かった方だと思うと、少しは楽になったような気がしなくもない。
「じゃ、じゃあ、俺もうそろそろ行くわ。 ああ、なんかどっと疲れた、早く外の空気吸いたい」
「おいおいなんだよお、それじゃまるで私との和気藹々なふれあいが苦痛だったみたいじゃないか」
「苦痛までとは言わないが、おおむねその通りではある」
「おおーい!」
すっかり平たくなった座布団から腰を浮かし、おいおいと泣きまねをするフワフワに背を向け扉に向かう。
「なあ悠介」
靴を履き終えたところで背後から呼ばれ、振り返るとそこには、何かのコインを指に構えたフワフワが、仁王立ちをしていた。
「私から君への餞別だ、受け取りたまえよ」
そう呟き。
ぺいん、と華麗に指先を弾いたかとおもったら、コインはあらぬ方向へと吹っ飛んでいった。
一瞬沈黙
「自分で拾えよ?」
「う、ううぅ」
頬を赤らめながら、部屋の隅に転がっていったコインを拾い上げ、丁寧に手渡ししてきた。
見慣れない紋様のようなものが刻まれた楕円形の鉱石だ。
「これは?」
「この国、ノア王国で使用されている貨幣さ。 単位はユノア、お守りがわりにでも持っておくといい」
「これ一枚で日本円だとどれぐらいなんだ?」
「一円だね」
「は?」
「一円だよ、一ユノア一円」
「…………ありがとう」
「なんだよ、何か言いたげだねえ」
いや別にね、いいんだけどさ、嬉しいんだけどさ。
もっとこう……ああ。
この女神はつくづく、ある意味期待を裏切らないやつなんだなと、改めて思わされるよ。
「お守りがわりだって言っただろ? 今の君にはそれで十分だよ、生きていけるって。 安心して、私は君の味方だから、ファイト!」
「おまえ! やっぱり馬鹿にしてるだろ! くそお、覚えてろよ」
捨て台詞の勢いのまま、ドアノブに手をかけ外に!
ってあれ? 開かない。
ガチャガチャとノブを回すがびくとも……
「ああその扉、中からは引かないと開かないよ?」
「…………」
「大丈夫だよ悠介、少しずつ覚えていけばいいからね、まずはぶふっ……ふ……、ドアの開け方からぐっ……くくく」
「うああああああああああああああ‼︎」
ノブを引き、見えた薄暗い路地裏に出ていこうとする俺の背にフワフワが一言、
「そんな調子で大丈夫かい? 悠介」
「全然大丈夫じゃねえよ!」
ゲラゲラと派手な笑い声と共に「いってらっしゃーい」と送り出すフワフワを後にし、俺は怒りを連れてフワフワルームを飛びだした。