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幼い君に

 正直、かなり焦っている。

 卒業式を終えてからここ数日、自室はおろか、布団から外に出た記憶がまるでない。

 これにはべつに、宇宙人に攫われたついでに消されちゃっただとか、子猫を助けようとして事故にあったショックでとんじゃったみたいな、そういうおもしろそうな理由があるわけじゃなしに。

 ただ中身のない毎日を過ごしてきた―――というだけの話なんだけど。

 それにしたって今回は、我ながら少し度が過ぎている気がしてならない。


「ううぅ……、あふぅ」


 実際には毎日三食きちんとご飯を食べるため、それすらしなくなると母さんに烈火のごとく叱られるというのもあって、都度一階のリビングに降りては食卓に座っているし、伴ってトイレの便座にも当然座りに行っているはずなのだが、呼吸の一回一回をいちいち記憶しないように、取るに足らない行動としてそれらは消化されている様だった。

 昨日、ないし今週、もっと言えば今この瞬間。

 何をしていたのか? と問われれば、ただ布団にくるまってゴロゴロしていたよ、と答えるしかないわけで。

 そのせいかはわからないけれど。

 発生源不明の、だが確かに存在しているこのチクチクと疼く痛みを無理やり、それこそ麻酔をかけるみたいに夢心地の幸福感でごまかしているような。

 こんな居心地の悪い状態がもうずっと続いていて―――。


「うう…………、ああうぅ………………。

 うご……………………っ。 お、おあよう」


 夢。

 それもとびきりの悪夢みたいな(うつつ)から、今日もまた逃れようとして俺は、枕元に無造作に転がっている端末に手を伸ばし液晶を確認した。

 現代人には必須なその素敵機械は気怠げな視線を少し向けただけで反応を示し、画面には現在の時刻が錠前のマークと共にゆっくりと表示される。


 12:22 曇り時々晴れ 最高:14° 最低8°


 え、もうこんな時間なの……?

 ついに朝飯すら満足に食べられなくなったことへの悲哀を振り払うようにそっと端末を枕元に戻し、代わりにティッシュを一枚掴んでくると、それで口元の涎を拭いながら尚も温もりの中へと再び潜り込む。

 もう三月も中旬に差し掛かり、もうそろ春がやってこようかという時期だろうにこれでは、少し肌寒すぎやしないだろうか。

 まあ布団の中ならそんなことも関係ないんだけどね。

 今日の夕飯は春キャベツが食いてーな。

 ふへ、ふへへへへ。

 ぐぅ。

 すぅ……。

 …………。

 …………………いや?


「いやちょっと待って、このままでは本当にまずいことになる。

 というか―――すでになってるっ⁈」


 発作的に叫んだあと、思わず温もりを蹴飛ばした。

 何が引き金となったのか、俺自身、皆目見当もつかない。

 ただそれでも、なんの奇跡か偶然か。

 この日の俺はぬくぬく生活一週間目にしてついに、焦燥に耐えきれなくなったのか絶叫しながらではあるが、とにかく、勢いよく布団を跳ね除けることに成功したのだった。

 次いで畳み掛けるように数度寝返りをし、床下三十センチはあるベッドからダイブした。


「あがぁっ⁈ いっ、つぅぅ……」


 左半身に駆け巡る鈍痛。

 その衝撃は階下にまで伝わっているだろう。

 今現在、この家に自分しかいないことにホッと胸を撫で下ろし、それでも静かに痛苦に悶える。


「ゔゔぅぅ、いっときの感情に身を任せるもんじゃないな、……まったく。 おいちちち」


 あ、思ったより痛い。

 あおたんができるかもしれない。

 これだけ傷ついたことだし、もう粉っぽいフローリングの上でもいいから休もう、じゃあ今日は解散ということで……。


「さすがに痛すぎる。

 ……………………。」


 じゃない、まだいける。

 もう少しがんばろうか。


「よっこら……」


 気力だけで立ち上がり、勢い任せにノブを回して階段まで、距離にして僅か五メートルもしないその区間を全力で走り抜けた。きゅきゅっと耳慣れない音が響き、右の足裏に嫌な熱がこもる、火傷したかもしれない、だがそれでも、今だけは止まれない、止まっちゃいけないんだ。

 なぜなら……。


 今日こそはちゃんと、規則正しく朝ごはんを食べなくちゃいけないからだ!!!

 ……でないと母さんにまたどやされる。

 体壊すわよって。

 一度始まると長いからなあ。


 すでに午後になってしまっているから、今この時点でもうその目標は達成できないよね……とか、そんなことはどうでもいいんだ。

 この腑抜けた生活に終止符を打つ、ただそれだけを原動力として、転がるように階段を駆け降りた。


「一日三食五十品目! 一日三食五十品目ぅ!!」


 掛け声と共に最後の三段はジャンプで飛ばし豪快に着地。踵の熱は染みついたように離れず、息も絶え絶え、膝もガクガク震えて完全にグロッキー状態。

 でも諦めない。

 ここまで来たんだ。

 あと少しだけついてきてくれ、俺の身体カラダよ!


 ひりひりと本格的に痛みが出てきた踵を庇うように足を引きずり、廊下をひた進み、リビングへと突入。

 ゴールはすぐそこだ。

 額に滲む玉露のように輝く汗を拭い、うすい笑みをたたえつつ、尚も歩みはそのままに。

 おっと達成感を抱くにはまだ早い……。


「平日昼間から俺はなにをしてんだろうな」

 

 突如わいた虚無感をなかったことにし、先へ。

 そして、最近はめっきり家族揃って顔を合わせて食事をする機会が減ってしまったため、いまや雑然と散らかった物置と化しているダイニングテーブルを迂回するように回り込み、キッチンに到着。

 ついに俺は辿り着いた。


「なーにっかななーにっかな、今日の朝食は……っと」


 そんな戯言を吐きながら、慣れた手つきで冷蔵庫の扉を開いた。

 一番に目についたのはやたら綺麗な二枚の皿と、その上に重ねられた二通の置き手紙だった。

 そのうち上の一通を手に取り内容を確認する。


『悠介くんへ 朝ごはん作っておいたから食べてね 母より』


 うん? とその文面に首を傾げつつ、もう一通のほうも手に取り読み上げる。


『お母さんへ ごちそうさま、美味しかった! 部活行ってきまーす‼︎ 

 ps.クソアニキへ 皿洗ってる暇ないからあとは頼む!

 追追伸 アホアニキへ アニキの分まで太陽浴びて頑張るぞ!!』

 

 そんな舐め腐った追伸の少し下には、シャーペンで描いたとは到底思えない、刺繍と見紛うほどのやたらと凝ったハートマークが遇らわれていた。

 二通のお手紙、主に後者の方をまじまじと読み込んだあと、俺は一言だけ。


「せめて流し台に置いといてくれよ」


 そう的外れな感想を述べて、小さくため息をこぼした。

 ―――まったく、とんだ茶番だよ。




――




 春というのは誰にとっても特別な季節だと思う。

 世代を問わず、きっと国境さえも問わず、新たな何かに向けて変化していくそんな時期。

 進学はその最たる例の一つだろう、特に、己の進路への想いと努力、その結果が如実に現れる大学への進学は、人生の中でもかなり大きく運命を左右しかねない変化の一つと言える、……はずだ。


「だいたい、綺麗に舐めまわしたあげくこんな絵を描いてる余裕があったんならさあ、皿の一枚や二枚くらい洗えたと思うんだけど。これ言ったら負けなんだろうな。ただ寝ぼけてた俺が言ったら」


 ゴミ袋に押し込むように捨てられたデミグラスソースの材料らしき残骸を睨めつけ、そんな溜息。

 

「朝からハンバーグはちょっと重いかな、母さん」


 ……あるところに。

 高校を卒業してから約一週間が経過した三月の、もう中旬。

 大学の入学式までのこの時期を『高校最後の春休み』だと素直に受け取って、というより、面倒な部分を見ないことにして、ぼけーっと怠惰を謳歌している男がいた。

 この俺、すずみ悠介ゆうすけである。


 今の今まで、休みとつくものは最後の最後までとことん休み尽くさなければ気が済まない、そんな人生を送ってきた。

 案の定課題が間に合わなかったことはザラで、幼い時分には「紙だから土に還るだろう」とプリントを庭に埋め隠滅を謀ることもあった。

 存在しなければ提出もしなくていいだろうと、安直だった。

 普通にバレて父さんにボコボコに叱られたのも今ではいい思い出だ。

 なんだかんだとここまで育ってきたけれど、それでもやっぱりサボり癖というのは非常に厄介で、治そう治そうと抗いながらも、やっぱり布団は気持ちがいい。


 なんて、そんな感じでずっと過ごしてきたというのに。

 ここ最近の焦燥感というか、何かしなきゃ! 行動に移さなければ! みたいな欲求の、四六時中胸を締め付けてくるこの日々ときたら。

 知らないうちに脳に電極でもぶっ刺されて、なにかのシナプスを書き換えられてしまったんじゃないかと疑うほどには、もうほんと、異常だ。


 長期休暇に強靭な胆力でもって望んでいる俺をして、そう感じさせる原因はいったいなんなのか。

 それ自体は割とすぐに判明した。

 不安感だ。

 自分はもう大学生になる、ほとんど大人の仲間入りだ。

 脱線しかけながらも着実に渡ってきたレールの先が見えなくなろうとしていて、それは同時に、己の積み上げてきたモノ、その程度を、いきなり突き付けられることに他ならない。

 子供のままではいられない、そんな当たり前の事実を前にして、珍しく漠然とした不安が募っているのだ。

 俺は今まで何をして、これから何をしていくのだろう、と。


 アニキは根が素直で真面目で優しいからね、だれも心配なんてしてないと思うけどな〜


 普段はそんなこと口にしない妹が、ぽろっと溢したあの言葉のせいだろうか。


「将来……ね…………」


 十五の夜、自分はなにか特別な気がしてたあの頃みたいに、二十歳を目前にしてまたなにか、何者かに成れるかもと、愚かな妄想をしているんだろうか?

 そんなもの、自分から望まなきゃ成れないものだろうに。

 待っているだけで願いが叶うのは、昔話のお姫様だけだ。

 なんの熱もなく、ただとりあえずといったふうに大学への進学を決めただけの俺には、その願いすら希薄だった。

 それとも何か。

 通りを急いでいたら角で女の子 (かわいい)とぶつかったり、とか、俺はそんなイベントをこなしたいのか……?

 休みに入ってから一歩も外に出てすらいないのに?


「山に籠って修行をしてみるのもいいかもな。

 自分への怒りでとつぜん目覚めたんだ……クックック。

 なーんて……はは」


 渇いた笑いが自分しかいないリビングをより一層寂しくさせる。

 気絶しそうなくらい痛々しい空気だった。


 いい年した大の男がこんな調子で、いつまでもちゃんちゃらおかしい子供みたいな妄想ばかり。

 勘弁してくれよ、くだらない。

 こんな時代のこの国でそれなりに恵まれているからこそできる、凡庸な悩みに違いないんだ。

 つまり、こんなものはただのニヒルぶりっこでしかない。

 最終的にはこの心象を、精神の機微を、そう結論づけた。


 そうして思考は流転する、で?どうすんの?と。


 悩んでいるとは言っても、実際に行動に移したことといえば、ネットで『大学入学までにやるべきこと』と検索し、ヒットした『勉強』だの『達成したい目標を建てる』だなんて、まるでお題目のような文言を鼻で笑うくらいのものだったが、そうやって小馬鹿にしていくごとに少しずつ苛立ちが募っていくのも、俺は無視することができなかった。

 むきになったり、目の敵にして嘲るのは、自分の図星をつかれて苦しいから。

 そう叱られたことがある。

 だからこの苦しみも、きっとそういうことなのかと、妙に納得して、それはそれとしてなにか行動に移すこともできず、今もこうして焦燥感に苛まれている。

 なんとなく、不満なのだ……この現状が。

 ずっと、動けずにいる。

 ()()()を、繰り返している。


「まずいよなあ、これは」


 本日二度目のまずい発言。

 もちろんこれは、食べ逃した朝食に対してでも、洗い物だけ残していったアホな妹に向けたものでもない。

 自分自身の、現状への一言だった。

 ちなみにこの休みに入ってからは百回くらい言ってる。

 

 およそ世間一般的な主婦像よろしく、平日昼間ののんびりとしたテレビ番組でも眺めながら優雅に洗い物でもしようと思っていたのだが、リモコンに触れる前にスポンジに洗剤を染み込ませてしまったので、潔く諦め一人静かに食器を洗浄する。

 不思議なことにここ最近、こうした何気ない家事をこなすことにどこか達成感や充実感を得てしまっている自分がいた。

 情けない、なんて言葉では表現したくはない……が。

 でも確かに、俺の存在意義はここにしかないんじゃないかと感じてしまっていることも否定できない。


「はああぁぁ……、どーすりゃいいんだよ、自分で選んだ道なんでしょうが、なんで今から気落ちしてんだ」


 いやそりゃあさ、最初こそ平日の昼間に好き放題できることにはしゃぎまくってたよ?

 ガキじゃあるまいし親の制限も皆無に等しい。

 課題も何もない、入学式で会えることを楽しみにあーだこーだなんてよくある送付された資料を眺めて、それからずっとくっちゃねのぐーたらだったさ。

 高望みもせず、されど卑下もしない、自分で決めて選んだはずの進学なのに。

 なのになんなんだ、この言いようのない気色悪さは…………。

 気分が重い。


 積みゲーを消化しているうちに一瞬で過ぎると思っていた春休みが嫌に長く感じる。ほんと、我ながら贅沢な悩みだと思う。

 ニートするにも適性がなきゃならん!

 世間の目、親への苦労、将来への不安、これらに耐える強靭な精神力が必要不可欠なのだ! 

 という一部界隈での風説をせせら笑っていたが、あれはあながち間違いではないのかもしれない。

 この胸の辺りに燻り、息苦しさを感じさせるなにかをどう解消すればいいのか、その道のプロの方々にぜひ教えを乞いたい、割と本気で思い始めている。

 頑張るのではなく、頑張らないを正当化する努力を、俺はしようとしている。

 その浅ましさに気ずいて、またへこむのだ……。


「休みすぎて辛いだなんて、まさか思う日が来るだなんてな。

 槍でも降ってきそうってやつですか……これが噂の」


 最近は夜眠るのも一苦労だ。

 根が陰気質だとはいえ、肉体的には健康そのものな満十八歳の男子なので、いかんせん体力が有り余っているのか目が冴えてしょうがない、結局今朝方まで端末をいじくりまわした挙句、今日もこの有様だ。

 そんな日常がもう、一週間経過。

 自分の人生にスキップ機能があったとして、ここ数週間の出来事はまるまる吹っ飛ばしてもなんの支障もないんだろうな。

 なんてことをぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる…………


「うぎぁあああ、こんなん頭おかしくなる! マジでどうすればいいんだよ、俺はどうすれば、なにがしたくて……、何のために生きてるんだろう」


 くだらない思考は、もはや一種の悟りの境地にまで達しようとしていた。

 暇だから余計なことばかり考えてしまう、よく聞く話だ。

 外に出かけでもしにいけば変わるかな。


「コンビニにでも……。 ああ、まあいいや、もう昼だし。 お外に出よう作戦は明日に延期としよう」


 思考を巡らせていたからか、それともこの充実感を少しでも長く実感していたかったためかはさておき、思いのほか洗い物に時間をかけてしまった。

 水切り台に濡れた食器を綺麗に並べ、それから湿った両手を拭い、そのままキッチンを後にする。

 結構な志を持って降りてきたはずだったのだが、食器に触れただけで満足してしまった。

 訳ではないが。

 もうそんな気分じゃなくなってしまった。

 あとで母さんに「春キャベツが食べたいよー」とでも連絡を入れておこう、それまでお腹を空かせていよう。

 

 ふとリビングの時計に視線を送る、正午少しすぎを指していた長針も、もうすぐ一周してきそうな勢いだ。

 お昼になったら……、六時になったら……、もう日付変わるから今日はやめとこう……。

 きっと明日もこれなんだろうな。


 とぼとぼとキッチンをあとにし、のろのろと階段を登り、暗く、心なしか湿った空気が漂う自室へと舞い戻る。

 視認できるほどの塵が目立つ床、掃除機でもかけてやろうか。

 そう思いながらベットに体重をかけ、掛け布団に手を伸ばし―――


「…………。空気の入れ替えぐらいはするか」


 ベッドのすぐ横にある窓、空気の入れ替えどころか、カーテンすらもしばらく開けた記憶がなかった。

 最後にここに触れたのは確か……、昨年末の大掃除の時か。


「三ヶ月前ならそれほど遠くもないな」

 

 こんなセリフ、二週にいっぺんは布団を天日干ししないと安眠できないウチの家族に聞かれてしまったその日には、きっと俺はこの家から摘み出されてしまうに違いない。

 それこそ、布団叩きでダニを追い出すみたいに。


「…………」


 自分のことを寄生虫だと自称するほど卑屈になっちゃったら……、おしまいだよなぁ。

 どこまで行っちゃうんだ、このネガティブ……。

 とまあ、そんなこんなで。

 えっちらおっちら布団を押しのけ窓際へ、ぴったりと塞ぐように閉ざされたカーテンをレースごと引っ掴み、思い切って豪快に、しゃっと開いた俺は―――


「ぎゃあぁ……っ。 ごおぉっ、がは、……あぁ!!」


 次の瞬間、嗚咽を漏らしてもがき苦しんでいた。

 あ、あれ? 予報じゃ確か『曇り時々晴れ』だったよね⁈

 くらむような眩しさに網膜を灼かれた拍子に、カーテンに染み付いた三ヶ月分の埃が一気に舞い上がった。……ということらしい。


「……グぅっ。 げっ、がっ、…………ぁは」


 というのも、太陽に潰された視覚を持ってせずとも、残された肌の触覚のみでその細かさと質量が計り知れるほど、この埃の塊は破壊的で、その威力をモロに食らった嗅覚と味覚も、ほぼ同時に機能を停止していた。

 舞い上がる塵を全て吸い込む勢いで激しく咳き込み、喉の奥にはジャリジャリとした嫌な感触が突如沸きあがる。

 こうして全身を一瞬にして強烈な不快感に支配された俺にとって、なんとなくで開けたかった窓は、死ぬ気で開けたい窓へと早変わり。

 いつもこうだ、良かれと思ってちょっと行動を起こすと、余計なことをしてしまう。


 ―――は、早く空気を、肺の空気を入れ替えないと、死ぬ!


 埃が湿気ってベタつく窓枠を手探りでたどり、錠のレバーを開の字に回し、窓を開け、網戸を開け、ようやくして、外の空気を肺いっぱいに吸い込んだ。


「げほっげっ、が、はあ、はあ……、はあ。 もっとこう、優雅に日光を浴びようと思ったのに……けほ」


 冬の肌寒さはもはや薄れ、陽の光と温もり、庭の植物の青々としたその香りが頬をくすぐる。

 ああ、なんだ。

 暗く冷たい霜が降っていたのはこの部屋の中だけのことで、外はもうこんなに、季節が芽吹き始めていたのか……。


 こんなどうでもいいような感覚が、なぜだかとても新鮮に感じた。

 それと同じくらい、自分の家から一歩も出ずに知覚する春の訪れに、物悲しさまで広がっていくようで―――深いため息。


「そっか、まあでも……一週間ぶりなのか、すごいな、一週間外出ないで平気だったんだ、俺すごいな、よくない意味で」


 窓を開けたというだけで、外に出たというわけではない……なんてことが気にならないぐらい、この春が心地のいいものに感じた。

 時々というほどの雲はなく、吹き抜けるような青空だ。

 風が肌を撫でながら、室内を滑るように流れていく。

 そういや、掃除する前に窓を開けると、埃が余計に舞い散るから、ある程度片付けてから最後に換気、って母さんが言ってたっけな。

 まあ、もう……ね、手遅れなんだけどさ。


「天気いいな、ううぅぅぅぅうん、はあ」


 背後で渦巻いてるであろう埃塵ハウスダストは気にしない。

 ベッドの上に立ち上がり、窓枠に足をかけ、光合成をする植物のごとく天を仰ぐ。

 ダイレクトに照射される日光にあたりながら、惚けたように笑みが溢れた。


 あったけえ。

 太陽の熱。

 この、およそ八分十九秒の彼方からやって来た光が、いつだって俺の鬱屈を吹き飛ばしてくれる。

 濃い霧を払うように、こうやってさあ。

 ピコンピコンと高鳴っていた鼓動が、ゆっくりと落ち着いていく。

 心に騒がせていた波も、少しずつ……。


「あー………………」


 さっきまでうだうだと腐っていたのはなんだったんだ、いいじゃないか、別に明確な将来なんてわからなくたって、それが当たり前なんじゃないのか?

 前科があるわけでも、借金をしているわけでもないんだから、堂々としていようじゃないか!


「堂々と生きていいんだ、生きていこう!」


 おー‼︎

 と、声を張り上げそうになったところではたと気づく。

 いや、ここ外じゃん。

 築十年の一戸建て、共働きの両親がまじめに働いて建てた、自分の家の自分の部屋だけど、ここ外じゃん⁈


 近くに人の気配はないが、どこで誰が見ているかなんてわからない。

 考えたくもないが、仮にこの姿をご近所さんに目撃されたとして、


 涼さん、お宅の息子さんが平日の昼間から大声出して騒いでるんですよ、それも窓全開でお外に向かって。今度の春から大学生でしたっけ? 精が出ますねえ、いったい何を学びに行くのかしら〜。

 オホホ〜。


 なんて。

 苦情を入れられる両親の姿は、たとえ想像のなかのそれだけでも、どうしようもなく息が詰まるくらいには…………辛い。


「やめだやめ。 これじゃマジの前科がついちゃうよ」


 そうして、やっとこ漲ってきた高揚感をさめざめとしたネガティブ思考によって洗い流してから数刻。

 視線を気にしつつ、おとなしく窓を閉めることにした。

 ああ、これはまた自己嫌悪で引きこもりコースだわ、ありがとうございました。

 そんな調子で乗り出していた半身を戻そうとした時だった。



 ずるり



 嫌な感触が全身を奔り、窓枠に乗り上げていた右足が強烈な勢いで室内方向に投げ出された。

 その反動で自然、上半身は窓の外へと傾いていく。

 足を滑らせた原因が、窓枠に付着していた湿り気を帯びた埃の塊だと理解した時には既に、俺の上半身は空と地面とほぼ並行にまで倒れかかっていた。


 ――あ、これやばい。


 窓枠に伸ばした両手が虚しく空を切る。


 ――あ、あ、あ。


 一か八か、膝裏を窓枠に引っ掛けるようにしてみるが、サーカス団員でもない俺にそんな器用な芸当が再現できるはずもなく、体重に引っ張られるまま、全身が頭から落下していく。

 すぐ下は駐車場だ、車は両親が共に出勤中のため出払っていて、つまり俺と地面を阻む物は―――無い。

 限界にまで引き伸ばされる思考の中、緩やかに落ちながら、室外機、雨樋、カーポート、壁……。

 表れては消えていく幾つもの選択肢、そのどれにも引っかかることなく、俺はそのままコンクリートの地面に脳天から叩きつけられた。

 

 


――




「…………うう」


 い……生きてる。

 俺、生きてる?


 痛みはなかった、ただ、強烈な吐き気と燃えるような熱さが全身を包んでいる、指先一つも動かせない。

 だが、まだかろうじて、生きてはいるみたいだった。

 よかった、たかが二階の高さだ、男の子なら誰だって一度くらい、ひらりと飛び降りる妄想をしたことあるさ。

 こんなんで死んだらダーウィン賞ものだ。


「………………」


 でも、声は出せない。

 どんどん熱が失われ、コンクリートの無機質な冷たさだけが、張り付いたように離れない。

 自分の中から何かが溶け出し、広がっていくように薄れていく。

 意識はある、生きてる、平気だよ。

 だってここで死んだら、せっかくこれから。

 楽しいこと、あるかもって。

 頑張ろうって。


「ど……う、せ……ダメとかも……う、言わない…………か……ら」


 確実に消えていく意識の中で、最後に抱くものだけはせめて、前向きなものにしたいと思った。


 遠くに人の声がする。

 優しく楽しげで、明るい声が。


「パパ! ママ! ねえこれ見てよ、すごいでかい虫ぃ‼︎」


 喧騒の中、やけにはっきりと聞き取れた、その様々な、楽しげな笑い声。


 俺もいつか、そうなれたら。

 ―――そんな願いを抱きながら、涼悠介は死んだ。

がんばろう そうしよう

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