夢と悪女と白い霧(後編)
帝国の皇城を全て覆い尽くすような白い霧は、白く美しい淑女の指先が描く魔法陣から発せられていた。
誰しもが異変に気付かなかった……数日間かけて少しずつ首都の人々は眠っていった。
いつも何故かタイミングを図ったかのように彼女の邪魔をするその男も今は居ない。
何か事を起こそうとした時には、必ず皇帝ルーカスの隣にいる邪魔な騎士。
間者から数日は戻らないと聞いていた。そろそろ戻って来る頃だが、今更どうする事も出来ないだろうと微笑んだ。この首都を侵食した白い霧はひと度包まれればその甘い夢に取り込まれるものだ。
甘く優しい夢……皆、誰しも忘れたい程悲しい記憶を持っている。子供でさえ母親と離れる事が悲しいのだ。だが、この白い霧の夢の中では悲しかった事も辛かった事も全て無かった事にしてくれる。
死者は生き返り、子供は母親とずっと一緒にいられ、ひもじい思いをしている者の前にあるパンは無くならない。
それは聖国の理想のような魔法だったが、これもまた禁呪となって忘れ去られていた古代の神聖魔法だった。
オペラ・ヴァルキュリアはルーカスの髪をサラリと撫でた。
ずっと目を覚さないなんて、あの美しい太陽のような瞳が見れないなんてことは勿体ない気もした。
ルーカスは泣いているようだった。余程辛い事があったのだろうかと優しく手を置いた。
――でも大丈夫。これからはずっと……
その時、オペラの背筋がぞわりとした。白い霧がオペラの嫌う強い紫色の魔気にどんどん吸い込まれていく。
オペラは不快過ぎて顔を顰めた。この魔気は間違いなく、聖国が最も忌み嫌う薄汚い魔族の王のものだ。
外の城下を確かめようと窓を振り向いた時、勢いよく窓が割れ破片の中に2人の人影を見た。
1人が剣を抜くのが見えたのですぐに魔法陣を描いたが、それよりも早く魔王の魔法陣がオペラを包み込み拘束した。
「なぜ……夢を見ていないの?」
オペラは魔王が不快すぎて目に入れたくないのか、シャドウだけを見ていた。そのシャドウの背中にはまたしてもあの男。
「生憎、私は記憶があまりありませんので。塗り替えたい程の辛い経験はありません」
「そんな人がいるなんてね……」
アークがオペラの視界に入るようにシャドウの前に立った。
「お前、何であんなものを見せた?」
「……どうやって抜け出したのか知らないけど、魔族みたいな汚らわしい者達にも辛い記憶があったのね」
オペラは嘲るかのように笑い出した。
「……皆、その辛い記憶を乗り越えて生きてんだよ。それも自分だから。それを穿り返すような事しやがって」
「どうして? わたくしは皆の幸せの為にこの魔法を使ったのよ? 辛い事なんて幸せな記憶に塗り替えた方が嬉しいでしょう? あなたも幸せだったんじゃないの?」
「テメェ……」
だが、アークがオペラの赤い瞳を見た瞬間、彼女の奥底に閉まっていた声が聞こえそうになった。
アークの目に驚きの色を見たオペラは自分の心がこじ開けられるような不快感を感じて聖気を無作為に爆発させた。
「見るな!!!!!!!」
淑女らしからぬ形相、あまりの力にアークの描いた魔法陣は破られてしまった。
部屋が壊れそうな程の怒気だったが、アークも怒りを噴出させた
「最初に見たく無いもの見せたのはお前だろうが!!!!!!」
シャドウは恐ろしい物を見た。こんな所で聖国の王と魔族の王が争ったら城が壊れてしまう。
「へ、陛下! 騎士団長! 起きて下さい! 助けて」
シャドウがいくら揺すろうと、皇帝も騎士団長も起きてはくれなかった。だが、皇帝は悲しい夢を見ているようだが騎士団長は普通に寝ているようだったので、もしかしたら起きるかもしれないと思い頬を2、3回叩いた。
「うぅん……何? 俺、実は枕変わるとあんまり寝れないタイプで……もう少し寝かせて……」
「騎士団長!! そんな場合じゃないんですよ!! 城が、壊れます!!!」
「ああ……もう」
ジェドは寝ぼけたように起き上がりだし、オペラとアークの方へ歩いた。
「あっ、騎士団長?」
ジェドに肩を叩かれて2人は思わず振り向く。
「えっ」
「えっ」
「お前ら……うるせえ」
そう言うとジェドは両者の頭にゲンコツを落とした。
静まり返る室内。痛みに苦悶する2人。ジェドは静かになったのを確認するとソファで寝始めた。
「あの……えっと……」
いち早く我に返ったオペラは移動魔法を描き足元から消えていく。
頭を押さえながら忌々しいその男を見た。やはり、またしても彼がオペラの邪魔をしたのだ。
「やっぱり……あなたが1番邪魔なのよ……」
恨み言を残しながら聖国の女王は消えた。
ジェドは起きたら一切覚えていないだろうが、オペラの恨みを何故か1番買ってしまっていた。
オペラを見送ったアークはため息をついてその場に腰を下ろした。
「こわ……正直、逃げてくれて助かった。にしても、ジェドは何で起きたんだ?」
「……私にも分かりませんが、騎士団長は辛い思い出や悪夢は無いのでしょうか……?」
2人がソファですやすやと眠るジェドを見た。枕が変わると寝れないと言っていたが、ソファの肘掛けを枕にして気持ち良さそうである。
「ま、とりあえず俺は魔王領に急いで戻り、夢に詳しそうなヤツを連れて来るから後は頼んだぞ」
「分かりました」
アークを見送ったシャドウは執務室を片付けながら皇帝にブランケットをかけた。
街中に行き、変な所で寝ちゃっている人が居ないかどうかも見回らなくてはいけないのだ。
人手が足りないので、騎士団長には早く起きて手伝ってほしいシャドウであった。




