宵闇
ナルメルアの気分は冴えなかった。
昨夜は逃げ帰るようにしてレイドリッヒ公爵邸を後にした。
あれからウォルフのことが頭から離れなかった。
社交界での第二王子の噂は、ナルメルアも耳にしたことがあった。
社交界で華々しく語られる噂のウォルフ。
それはナルメルアの知る彼とは重ならなかった。
だからか彼が王族で皇太子の弟だと知った今でも実感は湧かない。
ナルメルアは振り回されてばかりだ。
ズキズキ痛むのは悩んで眠れなかった頭だけではなかった。
食堂ではルシエールが腕を組んで待ち構えていた。
「一体、何が、あったのかしら」
語気が強めなのは、昨日ルシエールに会うことなく帰宅してしまったナルメルアには心当たりがありすぎた。
「ごめんなさい!」
まずは平身低頭、謝るしかない。
ルシエールはしばらくの沈黙の後に、盛大なため息をつき表情を幾分和らげた。
「しょうがないわね」
ルシエールにナルメルアは力なく笑う。
「ルイス様からなにか聞いてない?」
むしろ笑い話にしてくれた方が楽にさえ思えた。
しかし、そんな思いを裏切りルシエールは首を振り否定した。
「ルイス様からは何も。でもウォルフ殿下と一緒だったのは周りが噂していたのを聞いたわ。殿下と知り合いだったの?」
ナルメルアとウォルフに面識があるとは思わなかったルシエール。その顔は困惑を浮かべていた。
ナルメルアは俯いて自分の手を見つめながら口を開いた。
「たまたま王宮で話したことがあって。お互い名前も知らなかったのよ」
書庫での出会いについてまでは打ち明けられなかった。
口にするとあたかも秘め事のようで、喩え清廉な関係だったとしても後ろめたさを感じたから。
紅茶の入ったカップの取っ手を指で撫でる。
「気になってた相手って、もしかして…」
ルシエールが濁した名に、ナルメルアは小さく頷く。
「それにしては浮かない顔ね」
ナルメルアは手元のパンに視線を下ろした。丸く焼き上げられたパンはナルメルアの両手にすっぽり収まった。
「気になっていた、それだけ。親しくなるにはお互い立場も違うでしょう」
ナルメルアはパンを千切って口に入れた。
「立場ね」
頬杖をついたルシエールは瞼を伏せ押し黙る。
お互い食事に手をつけることで会話はそれ以上膨らむこともなかった。
食後の紅茶を口にする頃には、いつも通りの軽い口調に戻った。
「昨日が社交界デビューだものね。なにごとも経験よ」
ルシエールはナルメルアの肩に手を置く。
「周りの噂話は肯定も否定もせず、曖昧に受け流せばいいから。下手に取り繕ったり、感情的にはならないようにするといいわ」
ルシエールの言葉が胸に響く。
それはルシエール自身も社交界で経験したことなのかもしれない。
噂は社交界では格好の話の種、それを上手く扱うことも貴族には求められるのだろう。
ピンと背筋を伸ばし、結い上げられた髪にも一分の隙を感じさせない立ち姿をナルメルアは追いかける。
「ナザレ侍女長」
声を掛けられたナザレは立ち止まり、ゆっくりと振り向いた。
その仕草は従者として無駄のない動きだった。
ナルメルアはこういった振る舞いにナザレの侍女としての品格、そして経験の高さを思い知らされる。
「どうかいたしましたか」
抑揚のない声は感情を伝えない。
「昨日はご迷惑をお掛け致しました」
頭を下げたナルメルアに、
「礼は結構です。正当な理由での外出は許可されているのですから、問題ございません」
ナザレはそう告げると再び踵を返し歩きだした。
ナルメルアは慌てて引き留める。
「それが急で申し訳ないのですが、今夜も外出の許可を頂きたいのです」
振り返りナルメルアを見つめる瞳が、ナルメルアのそれと重なる。
「外出の理由はなんでしょう」
不審に思ったのだろう。
ナルメルアが外出を願い出たのは昨日が初めてだ。
しかも2日連続となればそう思われても仕方ない。
「シュトレッセン家の用事では理由にならないでしょうか」
ナザレの視線はナルメルアから外されることはなかった。
嘘偽りがないか見透かすような厳しい眼差しだった。
侍女の監督責任は侍女長にある。
だからナザレの威圧的とも取れる質問に異論を唱えられる者はいない。
「結構です。許可致しましょう」
ナルメルアは気を緩めず、姿勢を正してナザレの姿が見えなくなるまで立ちすくんでいた。
シュトレッセン家の用事であることに嘘偽りはない。
しかし、実際の内容は口にすれば到底許可を得られるようなものではない。
あの変わらない表情もさすがに揺らぐに違いない。
ナルメルアは肩の力が抜けきらないまま、ルイスの執務室に向かった。
ノックにいつもと変わらない調子の良い声が返ってくる。
「昨日はどう?楽しめたかい?」
ルイスは卓上の書類を捌きながら尋ねる。
「お招き頂き感謝致します。大変有意義な時間を過ごさせて頂きました」
当たり障りのない感想のナルメルアに視線を上げる。
「役に立てたなら光栄だよ」
笑顔でそう答えるルイスに、逆にナルメルアが視線でルイスを伺う。
ルイスはウォルフとの関係を言及する気はないようだった。
根掘り葉掘り聞かれるかと構えていたのが拍子抜けだ。
「そうだ。シュトレッセン伯爵からの早馬が今朝ついてね」
ルイスは引き出しから出した手紙をナルメルアに差し出す。
受け取った封筒にされていた蝋封は開けられていた。
「内容は確認させて貰ったよ」
ルイスの笑顔の変化にナルメルアは敏感に反応する。
「構いません。むしろ確認して頂ける方がこちらも気が楽です」
レイドリッヒ公爵家を通してやり取りする以上、それはある意味目を通してくれとも取られる。
実際ナルメルアとシュトレッセン伯爵はそれを見越して手紙を託した。
「急ぎの用だから気にせず読んでごらんよ」
ナルメルアは礼を述べつつ手紙を取り出した。
内容は簡潔で要点だけ、挨拶も省かれていた。
義父らしい。
ナルメルアからの手紙にドレスを送って欲しいと要望したことに対して、ドレスを届けさせるから受けとるようにとある。
また手持ちで持ち込めない他の物は後から届けるから待つようにと。
そして建国祭へ出席することが書かれていた。
近々開かれる建国祭。
国王陛下と皇后、王族貴族が祝典に参加する。
シュトレッセン伯爵領はこの時期は雨季を控え治水や整地に慌ただしい。
建国祭に登城はおろか、領地で建国の祝いをすることさえなかった。
しかし今はナルメルア自身が王宮に仕える身、国を挙げて行う大きな祭事ともあり来賓への応対、式典の準備などやることは普段の比ではない。
以前陛下にシュトレッセン伯爵の登城を言付けられていたのもあり、手紙にもその旨を記してあった。
ナルメルアの立場も鑑みて、祝祭への参加を申し出たと取れた。
何より随分会っていない養父の顔が見れることに、張りつめていた気持ちが和らぐ。
手紙を読むナルメルアの表情が綻んだのに、ルイスもまた微笑んだ。
「そこで提案なのだけど王都に滞在中はうちに泊まるのは如何かな?」
レイドリッヒ公爵家からの申し出ということで、表面的には誘いでも断ることなど許されない強制力がその名にはある。
「ありがたいお言葉で、その旨を父に伝えて正式な書面にてお返事させて頂きます」
言葉に反した浮かない顔は、頭を下げていたのでルイスからは見えない。
レイドリッヒ公爵家での滞在はできれば避けたい。
しかし下手に断れば有らぬ疑いを与えてしまう。
ナルメルア自身では判断しかねることなのだ。
ナルメルアが要望したドレス、文字通りに取らずにいてくれたのであれば届くのはドレスではないはず。
あの差出人不明の手紙の主との話次第では、悠長に建国祭に出席している場合でもないのだ。
「それならこちら側から伯爵には使いを出そう。わざわざ手紙で聞かずともよいだろう」
ルイスの苦笑にナルメルアもつられる。
どうせ手紙を書いても開封して渡されるのだから、書くだけ無駄ということ。
「それでしたら『今年は川の治水に人を割くように』とお伝え頂けますでしょうか」
「確かにあそこの土地は自然豊かだが川が多かったね」
ルイスは壁に掛けた地図に目を向けた。
「比較的豊かな土壌だと聞いているよ」
一年を通して気温が高いエステリニア公国の中でも、シュトレッセン領は高く聳える山脈の裾野にあり、寒暖の差が激しい。
その寒暖差により採れる作物は季節ごとに異なる。幾筋も流れる川の恵みもあり、農業が盛んな土地である。
「ここ数年の治水工事はわたくしが任されておりましたから、今年は大がかりな工事に手をつける予定だったのです」
ナルメルアも地図を眺め領地を流れる川に目を止めた。
「今年の雨季は長雨になりそうなので、きちんと手を入れなければ秋の作付けに影響が出てしまいます」
「そんな大事なことを任されていながら、どうして君は都に来ようと思ったんだろうね」
ルイスは机の上で腕を組み、笑みを浮かべたままナルメルアを見据えた。
次期宰相と言われるだけあって、ナルメルアの内心を探ろうとしているようだった。
ナルメルアは口許を緩め答えた。
「それ以上に宮廷侍女という仕事が魅力的だったからです。領地にはなく、ここにしかないものは沢山ありますから」
「たとえばなんだい?」
ルイスはいたずらっ子のように問答を楽しんでいる。
「たとえば、天文学がそうです。膨大な記録を元に今年の天気の予測もできます。今年が長雨になりそうなのも、農民の勘などという曖昧なものではなく、記録に基づいて計算された予測で立てられています」
王都の天文学舎では日々天候について研究が進められている。
「王都は知識の中心です。学者や技術者も領地では中々お目にかかる機会もありません」
ナルメルアは自分が目を輝かせ、声がはずんでいることに気がついていない。
「こんなにも恵まれた環境にいれることに気づかない方がおかしいじゃありませんか」
「普通の令嬢なら気づかないんじゃないかな」
ルイスはクスクス笑い声を漏らす。
ナルメルアは首を振り否定する。
「それは勿体ないことです。王都の知識を持ち帰って領地で利用しないなんて。そうやって知識を共有し合えば領地が潤い、ひいては商いも盛んになるでしょう」
「これで女性にしとくのが残念だ。男なら臣下に欲しい…などと言えばリリアナに糾弾されるのは間違いないな」
ルイスは男尊女卑に敏感な妹を引き合いにため息をついた。
「リリアナも君と似た考えをしていてね。以前そう口にしたらひどい目にあったのだよ」
ルイスの瞳は笑っていなかった。
「女性でも文官にはなれる。でも国政に意見できるような高官に女性はいないからね」
ナルメルアは同志を得たような嬉しさと、その志の行き場がないことを無念に思った。
「皇太子はどう考えておられるのでしょうか」
ナルメルアは、そのもどかしさを胸に口にしていた。
「リリアナ様とリーデン殿下は親しいご関係と聞きました。リリアナ様がそのように政に興味があるのをご存知なのでしょうか」
ルイスは驚いたように目を見開くと、眉を寄せ今度は困ったように表情を曇らせた。
「皇太子は、そうだね。どうだろう…」
言葉を濁らせるルイスを前にナルメルアは食い下がらない。
「ルイス様もリリアナ様やわたくしが男性だったらと考えて残念に思われたのでしょう?わたくしのようなお声がけが叶わないような者にはできなくとも、ルイス様やリリアナ様のように近しい方からの進言でも難しいことなのでしょうか」
ルイスは手を上げると、ナルメルアの前で掌を下げた。
「気持ちは分かる。君やリリアナの気持ちも、皇太子側もね」
落ち着くようにと諭され、ナルメルアもつい息が上がるほど気が高ぶっていたことに気づかされる。
「ようやくなんだよ。腰を落ち着けて内政に目を向けられるようになったのは」
ルイスの言いたいことは分かる。
分かるがナルメルアにも譲れない想いがある。
「そもそも、どうして内乱が続いたのでしょうか。それは内乱を納めるに足る政治を行わなかったからではないですか」
ナルメルアの気迫にルイスも眉をしかめて黙っていた。
「争いは何も生まない。それを皇太子の治世まで続けないで欲しいのです」
ナルメルアの発言を官吏が耳にしたならば、不敬罪で裁かれても仕方がない。
それほどナルメルアの言は不躾なものだった。
「皇太子は向かう者には容赦がない。それは味方でさえ、いつ剣を向けられるか恐れるほどに」
ルイスは手の平を合わせ指を組むと、組んだ掌を握りしめた。
「しかし皇太子は武力での鎮圧は自ら望んでのことではない」
ナルメルアは黙って耳を傾けていた。
近い立場であるルイスの言葉がナルメルアが知れる皇太子の人となりなのだ。
「皇太子が内乱の鎮圧に王族の誰よりも足を向けられたのは、世間で噂されるような戦好きだからではない。むしろ誰よりも戦を憎み、平穏を求められていた。それこそ自らの治世にその争いを持ち越さぬようにとね」
ナルメルアの言葉を用いることで、皇太子の考えも同じだと釘を刺された形でそれ以上は口にできなかった。
「内乱が表だって鎮静化した暁には、皇太子も次期君主として君たち臣下の言を耳に届けられる機会はあるだろう。ぼくからもそれを保証しよう」
ナルメルアは頭を下げながら、それが叶うことを切に願った。
「わたくしも侍女として、また後に伯爵家を預かる者として皇太子にお目通りする機会をお待ちしております」
「わかった。皇太子にも伝えよう」
執務室の扉を閉めたナルメルアの顔は険しく、またその肩には自ら課した責任が重く乗し掛かるのを感じた。
粛々と仕事をこなすナルメルアの足取りも、夕暮れが近づくにつれ重くなっていった。
約束の時刻が刻々と近づいていた。