社交界
ナルメルアはしたためた手紙を懐に忍ばせた。
誰が見ているか分からない状況に、いつもと違う行動は取れなかったからだ。
「おはよう」
食堂に入るとルシエールが片手を上げて立っていた。
そう、いつもと変わらない朝がそこにはある。
「招待状の返事は書いた?週末は早めに仕事を終わらせて公爵家に向かわないといけないからね」
席に着くなり矢継ぎ早に、あれやこれやと指示がとぶ。
「ナザレ侍女長には許可を頂いてあるから、ルイス様にはこの後会うときにお伝えするようにね」
ルシエールは食べたり、喋ったり忙しない。
くすくす笑うナルメルアにルシエールが怪訝な顔を向ける。
「なにがおかしいの?」
「いや、だって社交界デビューのわたしよりルシエールのほうが張り切ってるのがおかしくて」
ルシエールは紅茶に口をつけながら、テーブルを指先でトントンと叩く。
「ナルメルアは社交界について何も知らない上に、側つき侍女もいないじゃない。あなたに任せられないから、仕方なく手伝ってあげてるのよ」
ルシエールはわざとらしくため息をつく。
「それに社交界デビューの話はシュトレッセン伯爵にしたの?娘の晴れの舞台なのだから、きちんと報告なさいね」
ナルメルアは困った顔で頷く。
「娘のわたしが言うのもおかしいのだけれど、父は社交界には興味がなく、娘だからでもどうかしら。今から文を出しても王都に来るのには間に合わないから、報告だけはしておくつもり」
今度はルシエールが困った顔で尋ねる。
「シュトレッセン伯爵ってどういう方なの?これまでもあなたに会いに王都に来られたりもなさらないし、あなたも休暇を取って帰省もしてないじゃない。その、事情はあるとは思うのだけれども…」
ルシエールの疑問は最もだとナルメルアにも分かる。
事情、つまりナルメルアがシュトレッセンの養女なのは貴族なら周知のことで、ナルメルアもわざわざ口にもすることではなかった。
しかし、養女という関係は世間一般的な父娘とは異なるのも事実。
ルシエールは二人の仲を案じての言葉で、心配してくれてのことなのだ。
「王都に出て初めて父の噂を聞いて驚いたのだけれど、噂のように別に恐ろしい人ではないのよ。変人って噂は否定しないけれど。不器用だから誤解されやすいけど、父なりにわたしのことは考えてくれてるとは思うわ」
ルシエールはそう話すナルメルアの顔を見つめていた。
そして、ホッと息をつき笑う。
「その顔見たら要らぬ心配だったようね。それに変わり者はあなたもでしょう」
ルシエールは机に肘をついて、両掌に顎を乗せる。
「変わり者は父親譲りなのね」
ナルメルアはむず痒くて、照れくさかった。
「わたしはそこまで変わり者じゃないわ」
反論が照れ隠しなのはばればれだった。
ナルメルアはルイスの執務室に入るなり、懐から封筒を取り出した。
「あぁ。招待状の返事だね」
椅子に腰かけたルイスは、笑顔で正面に立つナルメルアを見上げた。
ナルメルアは封筒をルイスに手渡す。
「あれ?2通あるね」
「一通は招待状のお返事です」
レイドリッヒ公爵に宛てた封書を指す。
「もう一通は、シュトレッセンに宛てた手紙になります」
宛名はシュトレッセン伯爵とある。
両方にシュトレッセンの家紋が印された封蝋が押されていた。
「お父上に手紙かい?」
ナルメルアは微笑み頷く。
「社交界に関しては何から何まで用意までして頂いて恐縮なのですが、そちらの手紙を早馬で届けて頂けますでしょうか」
ナルメルアは気づかなかった。
ルイスの瞳の奥が光ったのを。
「おや、早馬とはどうしてだい?シュトレッセン伯爵もパーティーに出席させたいのかな?」
「パーティーには間に合いませんから」
シュトレッセン伯爵領は馬車で2日の距離にある。早馬で手紙を1日で届けたとしても明日のパーティーに来るのは実質無理な話なのだ。
「今回はリリアナ様にドレスもお借りすることになってしまって…、恥ずかしながら社交界に出るつもりもなかったのでドレスの1枚も持たずに来たので、その…」
ナルメルアが言い淀む様に、ルイスが意図を組んで察した。
「こちらこそ配慮が足らなかったね。女性は何かと入り用だし、きみには従者もいないことだ。頼られて光栄だよ」
ルイスは早馬を出すことを約束してくれた。
ナルメルアは内心安堵に胸を撫で下ろした。
側つき侍女がいれば、手紙を出すのも手配を頼めるのだろうが、これまで手紙を出す必要もなかったのでどうすれば良いかなど考えたこともなかった。
早馬を頼むのに信用できる相手となると、ルイスに頼むより他なかったのだ。
社交界に今後顔を出すならドレスが必要なのも嘘ではない、そこをまずは信用して貰えるかが不安だった。
ナルメルアが頼れるのは養父であるシュトレッセン伯爵ただ一人。
その手紙を託せる相手は社交界を控えている現状で、レイドリッヒ公爵から早馬を出してもらうのが一番自然に思えたからだ。
ナルメルアが執務室から出て行くと、ルイスはその手紙を手に立ち上がった。
部下にその手紙を渡す前に、寄るところがあったからだ。
それからの数日は何事もなく過ぎていき、社交界デビューの日がやってきた。
その日は迎えの馬車が来るまで王宮での務めをこなしていた。
ルシエールは先にハミルトン子爵の別邸で準備をしに向かっており、ナルメルアはレイドリッヒ公爵邸でドレスや化粧をして貰うことになっていた。
なるべくパーティーの準備で忙しいレイドリッヒ公爵邸に迷惑をかけないよう、約束の夕刻までは普段通りに過ごすことにしていた。
約束の時刻になるとナザレ侍女長に仕事の引き継ぎをお願いして、門へと向かった。
レイドリッヒ公爵家から迎えの馬車が来る手筈だった。
門の使用人口に着くと、門番はジェドだった。
人懐こい笑顔で扉を開けてくれる。
「お迎えが来られていますよ」
「ありがとう」
ナルメルアも笑顔で扉をくぐる。
「あ、ナルメルア様に手紙を預かっているのですが」
ジェドは外套の下に手を入れると、ナルメルアに封書を渡す。
ナルメルアの笑みは一瞬で強ばった。
「これはどちらから?」
その緊張をジェドに気づかれないよう、笑顔を貼り付けて尋ねる。
ジェドはナルメルアの表情を気にすることもなく、明るい声で答えた。
「それが名乗らなかったんですよね。ナルメルア様のお名前と渡してくれとだけ言って去っていきました」
どうしたんでしょうね、と緊張感もなく告げる。
「その人はどんな人だったのかしら、念のため様子を聞かせて頂けるかしら」
「平民の装いでしたね。別に変わったところはなかったですよ」
ナルメルアはお礼を言って封書を懐に入れた。
門を抜けると行者が出迎えてくれた。
馬車で一人きりになると受け取った封書を懐から出した。
差出人の名前は書かれていない。
表から分かるのは宛名に記されたナルメルアの名前だけだ。
恐る恐る開いたナルメルアの手が震えた。
内容は短い。
明日の夜に会いに行くと、門の外にて待つようにと。
[あなたの僕]、前回の手紙の主であることは間違いない。
ナルメルアは馬車の窓の外に視線を移した。
「間に合うといいのだけれど」
ナルメルアの不安を表すかのように、不気味に赤い月が雲の切れ間から覗いていた。
リリアナが用意してくれたドレスは深い青色で体に沿ったタイトな造りで、そこに金糸で細かな刺繍が施されていた。
裾は踝までの長さにフレアになっていて、膝から下にスリットが入っている。
歩くとスリットから足が覗くため、ドレスに慣れないナルメルアにはその露出が気になってしまう。
リリアナのドレスの大半が淡い色やふんわりと裾が広がった華麗で清楚な雰囲気と、ナルメルアのドレスは雰囲気からして真逆のデザインだった。
ナルメルアに合わせて余分な布を外し作り替え、更に装飾まで加えたドレスは妖艶な大人びた雰囲気に変わっていた。
あの短時間でそこまで誂えさせたことにレイドリッヒ公爵令嬢という肩書きが伊達でないことを思い知る。
「ナルメルアは濃い色が良く似合うわ。化粧もそうよ。体のラインがはっきりとしてるからフリルなんかも似合わない。白でも褐色でもない肌は健康的で白粉より貝の粉が合うわ」
リリアナの侍女が貝を模した入れ物に綿を入れて、ナルメルアの肌をそれで撫でる。
白粉と違って肌の色が変わらないのに、小さな光る粉がナルメルアの肌を輝かせていた。
「不思議、魔法の粉みたい」
呟きにリリアナもクスクス笑う。
「魔法はまだ始まったばかりよ。あなたに秘められた魅力を魔法で引き出してあげるわ」
そういうリリアナこそ、魔法の精に相応しい装いだった。
金色の髪は小さな飾りで飾られ光に反射するたび輝き、長いまつげが影を落とす瞼は薄い桃色に染まり恥じらいを感じさせた。
白いドレスには色とりどりの淡い花が彩ろられ、その上に細かな細工のレースがあつらえられ、それが揺れるとふわふわ宙に浮いてるような錯覚を起こさせる。
裾からはレースで誂えられた靴の先だけが覗く。
まさに可憐な妖精だ。
リリアナはまとめあげられたナルメルアの髪をほどく。
「この髪も結い上げたりしたら美しさが半減するわ」
ナルメルアの弛くウェーブのかかった赤い毛を器用に後れ毛を残しつつ編み込む。
耳の横に差し入れたのは前回合わせてくれた銀の髪飾りだった。
ナルメルアの赤い髪をシャラシャラと彩る銀の石。
胸元に垂れ下がった赤毛がドレスの群青に映え目立っていた。
「なんだか恥ずかしいわ」
ナルメルアが気持ちを表すかのように呟く。
「あなたは自分の見せ方をまだ分かっていないのよ」
ドレスから出た素肌の肩にリリアナは手を置く。
「あなたに流れる異国の血は、あなたを彩る個性なのよ。同じような見た目だから美しいと思うのは、とても狭い世界しか知らないからだわ。」
鏡越しにリリアナは微笑む。
「あなたは来賓の給仕で何も感じなかったのかしら?わたくしたちの国と異なる容姿だから変だと思ったりして?」
ふるふると顔を振るナルメルアの脳裏に浮かんだのは、異国の情緒溢れる装飾を身に纏ったご婦人の姿。
「珍しいことは恥ずべきではないのよ、人と違うところこそあなたの武器なの」
サラッとナルメルアの髪を撫でる。
「西ではあなたのような太陽のように燃える赤い髪を尊ぶらしいわ。神の庇護がその髪に宿っているからって」
自信持ちなさいと肩を軽く叩く。
ナルメルアは後ろに立つリリアナを振り仰ぐ。
「リリアナ様のように誰かを振り向かせることが、わたくしにもできるのでしょうか」
ナルメルアの真剣な問いをリリアナは茶化したりしなかった。
「誰かって、誰でもではなく特定の誰かをってこと?」
「そ、それはっ…、その」
ナルメルアの慌てた様子でリリアナは分かった。
「特定の、例えば自分が想いを寄せる方を振り向かせることができるなら、わたくしも教えて頂きたいくらいよ」
リリアナの目は遠く、ここではないだれかを想い見つめている。
「どんなに周りから称賛されても、どれだけ自分に自信があっても、相手の心を操ることなどできないものよ」
「じゃあ、せめて自分をアピールするにはどうしたら」
ナルメルアはリリアナ相手になぜそんなに必死で教えを乞おうとしているのか、彼女を超えなければ進めない相手と考えながらも、ナルメルアの意識は皇太子ではない「誰か」に向かうのを止められなかった。
「あなたきっと自分でも気がついていないのね」
リリアナはナルメルアの頬を両手で挟む。
「あなた、その方を前にしたら気持ちを隠す方が難しいのではなくて?恋は落とすのではなく落とされるの。気がついたときには落ちているものよ。頭で考えるのはお止めなさいな。心のままに素直が一番のアピールよ、分かった?」
ぎゅうぎゅう頬を挟まれナルメルアは「へひ」っとしか答えられなかった。
会場は着飾った客で溢れ帰っていた。
レイドリッヒ公爵は公爵としてだけでなく、この国の宰相という立場からも交遊関係の広さを表していた。
リリアナは「さぁがんばってらっしゃい」とナルメルアの背を押すと、リリアナはあっという間に人だかりの中心にいた。
レイドリッヒ公爵子息であるルイスの姿もあった。
「やぁ、どこのお姫さまかと思ったらナルメルア嬢じゃないか」
いつもの屈託のない笑みで歩いてくる。
「この度は…」
「あぁ!礼はいいよ」
謝辞を遮りルイスはナルメルアの肩を引き寄せ耳元に呟く。
「妹の手腕はなかなかだろう。美しく着飾って堂々たるデビューなのだから、異性の誘いは断らず受けるといいよ」
片目を閉じて悪戯っぽく笑う。
「そんな、誘いなんて」
焦るナルメルアの肩を軽く叩くと、あげた手を振り立ち去ってしまった。
人の波が収まるのを待ってパーティーの主役であり邸の主であるレイドリッヒ公爵に挨拶をしに近づく。
「この度は、ご招待賜りお礼を申し上げます」
このドレスはスリットもあるため、通常のドレスの裾をつまみ上げる挨拶はできない。
そのため片足を引き軽く膝を曲げ、手は片方を胸に残りは腰に沿わせる。
「ナルメルア・シュトレッセンにございます」
頭も下げすぎると髪飾りが落ちそうで、図らずも軽く傾けうつむく姿は様になっていた。
ほぅと感嘆の声がどこからか上がる。
「そなたのその姿を伯爵もさぞ目にしたかっただろう。都では伯爵の代わりに困ったことがあれば頼るといい」
レイドリッヒ公爵は王宮での厳しくも寡黙で近寄り難い雰囲気と違って、穏やかで優しい笑みを浮かべていた。
リリアナがレイドリッヒ公爵に寄り添っていたからかもしれない。
公爵がリリアナを可愛がっているのは、その表情から伝わってきた。
「堅苦しいのは終わりよ!」
レイドリッヒ公爵の肩越しにリリアナが「行って行って」とナルメルアを会場に戻す。
それを待っていたかのように周りから声がかけられる。
「どうぞお見知りおきを」
そう口に何人かの男性がナルメルアに挨拶に来た。
ナルメルアが伯爵家の令嬢であること、レイドリッヒ公爵の庇護を受けていること、リリアナと親しいこと。
それらの付加価値が彼らの目的であろうことは分かりやすかった。
あの書庫で会った男の言う通り、名前を売る前から船に乗りたい者が現れたようなものだ。
しかしナルメルアは上手く会話も続けられず、挨拶もそこそこに人の輪を避け壁際に身を寄せていた。
ふと目線の先にバルコニーがあるのに気づき、ナルメルアは壁際を歩き向かった。
バルコニーへの扉の鍵は開けられていて、そこに影が2つ、どちらも背が高く顔には見覚えがあった。
ナルメルアは引き寄せられるように、その二人に歩みを進めていた。
「ナルメルア?」
ナルメルアに先に気づいたのはルイスだった。
「あなたは…」
ナルメルアの視線はルイスと向き合う、もう一人に釘付けだった。
ルイスもまたナルメルアの視線を追い、相手に顔を合わす。
「知り合いかい?」
ルイスが尋ねたのはナルメルアではなく向かいに立つ人物だった。
男は口の端を僅かに引き上げ笑った。
「ちょっとな」
夜風が男の髪を拐い、男の顔がはっきりとナルメルアの目に入る。
一見すると優しげな顔、だけどそれがその男の本性を表していないことはナルメルアはもう知っていた。
書庫室で会った文官の男だった。
男はナルメルアに向き合う。
「忠告を守ったのは誉めてあげよう」
意地悪な言い方だが、ナルメルアももう慣れたもので笑顔で返す。
「わたくしは約束を守りましたわ。次はあなたが約束を守る番ではなくて」
男に一歩近づいたナルメルアはすっかり失念していた、その二人のやり取りを傍観している人物を。
「なんだい、やけに親しいようじゃないか」
ニヤニヤ笑ってルイスが二人を交互に見る。
「お前、まだいたのか」
男がそう声を掛けたのにナルメルアが慌てた。
「お前!?この方がどなたかご存知ですの?」
レイドリッヒ公爵子息であるルイスにそのような口を一介の文官が取っていい筈はない。
ナルメルアが慌てて男の腕を掴んだのに、今度はルイスが目を見張る。
「いや、ほんとにどんな関係」
ルイスの戸惑った声に男だけが楽しげに答える。
「ルイス様とでも呼ぶべきか?ルイス様」
ナルメルアは二人の会話に夢中で男の腕を掴んだままだった。
ルイスは両手を降参と上げて苦笑した。
「人が悪いにも程がありますよ」
ルイスの畏まった言葉使いに、ますますナルメルアは困惑する。
男がどさくさに紛れてナルメルアの腰に手を回したことに、ナルメルアは気づいていない。
「ルイス様、こちらはどなたですの?」
男は面白がるだけで、次会ったら名前を教えるという約束を守る気がないのだと判断したナルメルアは、ルイスに助けを求めた。
ルイスが男にその了承を伺うのが眼差しから汲み取れ、目の前の男がルイスより立場が上ということはナルメルアも理解した。
ルイスの眼差しの先に再び視線を戻す。
見上げた先に深いナルメルアのドレスと同じ青色の瞳があった。
「あなたはだれなのです?」
ナルメルアのすがるような眼差しに、男は瞳をすがめた。そして一言ずつ刻むように告げた。
「ウォルフ・クロイツ」
ナルメルアは石で脳天を突かれたような衝撃に、腰から崩れかけた。
図らずもウォルフのナルメルアの腰に回した手がそれを未然に防いだ。
「あなたは、あなたはなんて人なの」
非難とも取れるナルメルアの口調に男、ウォルフは悪びれずに口を開く。
「兄ではなくて残念だったな」
ウォルフ・クロイツはリーデン皇太子の弟であり、この国の第二継承権の持ち主だった。
ナルメルアはウォルフとの会話のいくつかを反芻しては、耐えようのない羞恥心に襲われていた。
微動だにせず固まったナルメルアを支え、ウォルフはルイスに手を振る。
邪魔者は去れとあしらわれたルイスは、ため息と苦笑を残してその場から立ち去る。
ナルメルアを支えたウォルフはバルコニーの長椅子にナルメルアを座らせると、平然と横に腰を下ろした。
「どんな気持ちです」
ナルメルアが呟く。
「さぞ滑稽でお笑いになられたんでしょう」
今度ははっきりとした口調だった。
男は横目でナルメルアを見下ろし、足を組み背をバルコニーに預けた。
「楽しかったよ」
「馬鹿にして!」
立ち上がったナルメルアが男の向かいに立ち、怒りをぶつけるため見下ろした。
しかし男は笑ってなかった。
馬鹿にどころか真剣な眼差しがナルメルアを正面から捉えた。
「お前と話すのは楽しかったと言ったんだ」
男の低く響く声がゆっくりと告げた。
そして向かいからナルメルアの両手を掴まえる。
「ナルメルア」
一気に鼓動が早まる。
耳にまで自分の心臓の音が響いて煩い。
ウォルフに名前を呼ばれた、ただそれだけでナルメルアの鼓動が暴れだす。
分からなかった、なぜ自分の名前にこんなにも胸が揺さぶられるのか。
そしてなぜ、こんなにも目頭が熱いのか。
「なぜ泣く」
気づいた時にはナルメルアの頬に熱い滴が伝っていた。
ウォルフはナルメルアの手を強引に引くと胸に抱き寄せた。
「なんの涙だ」
ウォルフが耳元に囁きかけた。
ナルメルアは答えることができなかった。
込み上げる感情の波に押し流されて、言葉にならなかった。
頭にリリアナの言葉が響いていた。
『恋は落とすのではなく落とされるの。気がついたときには落ちているものよ』
ウォルフはナルメルアが泣き止むまで待った。
あの意地悪な言葉はついに出なかった。
ナルメルアが落ち着いて顔を上げると、ウォルフの瞳に白く輝く月が映っていた。
「ごめんなさい」
ナルメルアの小さな声に、視線はそのままでウォルフもまた穏やかな声で返す。
「なにを謝る」
「いろんな事がいっぺんに…混乱してしまって」
ナルメルアは改めて隣に居住まいを正す。
「突然泣いたりしてごめんなさい」
ウォルフは笑った。
月からナルメルアに視線を移した。
「お前には驚かされてばかりだ」
ナルメルアは恥ずかしくて顔をあげれなかった。
ウォルフは言葉を続ける。
「社交界にも出ていない令嬢が侍女から王妃の座を狙おうとしてると聞けば、興味を持たないほうがおかしいだろう」
「リーデン皇太子に話されました?」
ナルメルアの手が震えた。
ウォルフはそれに気づくと眉を寄せた。
「いや」
そしてため息混じりに、
「そうまでして皇太子の妃になりたいのは、なぜなんだ」
ウォルフは視線だけではなく、ナルメルアの心まで見透かし捉えようとしていた。
ウォルフの顔を瞳を見る勇気がなかった。
ナルメルアはドレスを掴んだ手から視線を上げなかった。
「あなたには言えません」
その言葉にウォルフはナルメルアの肩を掴んだ。
「なぜだ。リーデン以外には言えないというつもりか」
ナルメルアは無理やりウォルフと向き合わされ、怯えながらその顔を見上げた。
ウォルフは怒ってはいなかった。
ただその表情にナルメルアの胸は締め付けられた。
「もし俺が皇太子だったら話せたのか」
ウォルフは苦悶の表情を浮かべていた。
ナルメルアも胸を締め付ける痛みに耐えていた。
「ええ」
口にできたのは、悲しい答えだけだった。
「そうか」
ウォルフもまた絞り出した言葉は短かった。
ウォルフを引き離したのはナルメルアなのに、ナルメルアは我が身が引き裂けるような痛みを感じていた。
「ごめんなさい」
そう言い残し席を立った。
ウォルフは何も言わなかった。
何も始まってない、名前を知ったその時に全ては終わっていたのだ。
始まる前に終わった。
ナルメルアはこの気持ちに名前をつけなかった。
だって始まってもなかったのだから、この気持ちのわけを知らなくてよかったのだ。
この胸の痛みのわけをナルメルアは押し込めた。