心の陰り
「ねぇ、なにかあったの?」
ルシェがナルメルアの顔を覗き込んだ。
「えっ…なに?」
ナルメルアは朝食の席でスプーンを手に持ったまま上の空で呆けていた。
「いや、こちらが聞いているんだけど?食も全然進んでないようだから」
向かいに座ったルシェに指摘されて手元に視線を下ろす。
同時に席についたのにルシェの皿はほぼ空なのに対してナルメルアはほとんど手付かずで残っていた。
「いつもはさっさと食べて、脱兎の如く駆け出すあなたが今朝は変よ?調子でも悪いんじゃない?」
ナルメルアは昨日の出来事を思い出していた。昨夜は床に就いたのはもちろん、眠りに落ちるまでも長くかかってしまった。
そのため、寝不足で顔色もすぐれなかった。
「体調が悪いなら、今日は休んだらどう?」
形のよい眉を寄せて心配するルシエールに、ナルメルアは努めて明るく大丈夫と首を振る。
体調管理も仕事の内、休んだりしたら信用まで下がってしまう。
「何か悩み事があるなら言って頂戴ね」
ルシエールは優しく微笑む。
彼女の気づかいはナルメルアの胸を温かくしてくれた。
顔色の悪いナルメルアに相対して、いつも清々しい笑顔を振り撒いているルイスだが、彼の仕事ぶりを実際目の当たりにすると彼が笑顔でいられることが不思議なくらいだ。
執務室には侍従や官吏の出入りもひっきりなし、それらの報告や指示をしつつ机の上に高く積まれた書類を捌いていく様はなかなかの見物である。
レイドリッヒ公爵家は王家の血脈であり、代々王家を支えてきた功績がある。
当主のレイドリッヒ公爵は宰相として最高位の官として仕えている。また、その嫡男であるルイスも現在は補佐官として皇太子に仕えている身だが、長年皇太子と過ごしてきた旧知の仲でもある。
かといってルイスが幼なじみだから、宰相の息子だからと皇太子補佐官という任を与えられたわけではないことは見てとれる。
挨拶も手短に書類を受け取ろうとしたナルメルアの手をルイスが掴んだ。
「ひょっとして具合でも悪い?」
ナルメルアを覗き込んだ顔は、珍しく心配そうな表情を浮かべていた。
「いえ…ただの寝不足です」
「寝不足?何か悩みごと?」
だから問題ないと口を開こうとしたナルメルアよりルイスが早かった。
「あっ」
咄嗟に反応できずにいたことで、肯定と捉えたようで、
「部下の悩みごとを聞くのも上官の務めだからね。差し支えなければだけど」
その言葉とは裏腹に眼差しは有無を言わせない。
さすがは次期国王の片腕と称されるだけある。
内心両手を上げて降参のナルメルアは、寝不足もあって思考力が低下していた。
お手上げ状態なのには変わらないなら、この国でも抜きに出る頭脳の持ち主に助言を求めてもいいかと半ば投げ槍になっていた。
「実は、社交界に出たいと考えていまして…」
ん?とルイスの目が丸くなる。
ルイスが考えていたような相談とは違ったようだ。
「社交界に出たいなら、出ればいいのでは?」
至極真っ当な答えに今度はナルメルアが慌てる。
「出たいからって勝手に出れるものではないですよね!?その、招待状とかがあれば出れるんでしょうけども」
だんだん説明していて情けなくなる。
詳しく話すだけ自分が貴族としては不甲斐ないと言っているようなものだから。
でもそこは理解の早い相手で助かった。
言わずもがなでルイスは頷き察してくれたようだ。
「シュトレッセン家の姫君は箱入り娘と言われていたな。君も父君同様そういった場が苦手との認識なんだろうね」
ルイスは招待状が来ないのは、出さないなりの配慮だとナルメルアにも相手にも角が立たないような言葉で片付けた。
「僕が知る限りナルメルア、君は社交界デビューってまだしてないと思うんだけど合ってるかい」
ナルメルアは小さな声で頷く。
16歳で社交界デビューは遅くこそなければ、していて当然の年齢ではある。
「そうか、それなら丁度良いのがあるよ」
明るく朗らか弾む声は心から楽しげだった。
「ぼくの父上は知ってるだろう?今度父の誕生日パーティーがあるんだ。そこに君を招待しよう!」
一人で相づちをうつルイスにナルメルアは慌てて詰め寄る。
「ちょ、ちょっとお待ち下さい!レイドリッヒ宰相のお祝いなんてわたくしが招待されるには分不相応も甚だしいです」
最後は悲鳴に近いほど声が上ずっていた。
ルイスはあからさまに可笑しいとばかりに笑って、目尻の涙を指で拭う。
「伯爵家なら身分を気にするほどのこともないだろう?シュトレッセン伯爵は父とも旧知の仲でもあるのだし」
ナルメルアの聞き間違いか、さらっと重要なことをルイスが口にしたのでナルメルアは「は?」と声に出てしまっていた。
「父と宰相が旧知の仲?」
ルイスはそれを面白そうに再び口にした。
「あれ?知らなかったかい?二人が王立学舎の同級生で、寄宿舎では同室だったって聞いてたんだけど」
知らないもなにもシュトレッセン伯爵が王立学舎に通っていたことも初耳だ。
王立学舎とは貴族階級の子息だけが通うことを許され、皇太子やルイスも卒業している由緒ある学舎である。
貴族であっても女子は通うことが許されておらず、女子は専ら家庭教師を雇い個々に学ぶ道しか与えられておらず、ナルメルアには苦々しく思っていた場所でもある。
地方に領地がある貴族は王都に別邸を持つのもよくあることで、レイドリッヒ公爵も領地は遠いというほどではないが、その役職柄王都に立派な別邸があると聞く。
シュトレン家の領地から王都までは、馬車で2日はかかる距離で別邸もないのでこちらは寄宿も分かる。
「レイドリッヒ公爵家は王都にお屋敷がおありとお聞きしたのですが、どうして寄宿舎なのです?」
ナルメルアの質問はもっともで、むしろ疑問に思わない方が無理だ。
「ほらレイドリッヒの系譜を辿ると王家に連なるだろう。だから生まれながらに王家に仕えるのが当然の務めだからね。文武もだけど自分のことは、何でもできなければいけないっていうのが教えみたいにあってね」
腕を組み壁に寄りかかるルイスは苦笑する。
その瞳には我が身の運命を悟って受け入れてきた諦めなのか哀愁が感じられた。
「寄宿舎は食事こそ作らなくていいけど洗濯や掃除は自分たちでやることになってるし、侍女どころか侍従も付き添いも許されなくてね」
その頃を思い出してか明るい笑みが戻る。
「ルイス様も寄宿舎だったのですか?」
ナルメルアの質問にルイスは芝居がかった身ぶりで答える。
「あの父も自分の下着まで洗っていたというのだから、ぼくが嫌だって言える筈ないだろう」
それに釣られてナルメルアの口からも笑い声が溢れる。
「君が心配するほど、シュトレッセン伯爵を悪く思う貴族ばかりではないから安心をおしよ」
ルイスは首を傾け片目を閉じる。
「ありがとうございます」
ルイスのその心遣いと敢えてふざけた仕草に、ナルメルアの頬が朱に染まる。
「そうと決まれば善は急げだ、正式な招待状は後で渡すから君は準備をするといいよ」
「準備って、一体何をしたら良いのでしょう」
本当に何も分からないといった反応のナルメルアの肩をポンポンと叩きながら、
「大丈夫だよ、うちにはそんな世話焼きが大好物なやつがいるから」
大好物?ナルメルアがキョトンとしているのをよそに、ルイスは机に向かうと何やら書き始めた。
「騎士団に持ってく指示書と別に文を持たすから、ゲイルにレイドリッヒ公爵家に文を届けるように言って渡すといいよ」
あっという間に書き上げ、封筒にいれると蝋を足らしレイドリッヒの家紋の印を押して封する。
「あの…騎士団を動かしても大丈夫なのでしょうか?」
騎士団は皇太子の直属の兵、つまりは私兵を配下が勝手に動かしていいのだろうかと、皇太子はそういった行いに厳しい人との認識からナルメルアはルイスを諌める。
「あぁ、その心配はいらないよ。騎士団は任務のついでに文を届けるだけだから。今日は元々皇太子の命でうちに騎士団が行くことになってるんだ。だから心配には及ばない」
しまったと失言に気づいたナルメルアは、すぐ頭を下げて謝罪する。
皇太子の腹心のルイスがそのようなことを考えない筈はない上に、皇太子のご意向を侍女に話してしまうことの方こそルイスに取らせてはならなかった。
「出過ぎた真似を致しまして申し訳ありません。何もお聞きしなかったことにして下さいませ」
ルイスは一瞬目を見開き、優しく頷いた。
「ぼくからのアドバイスを1つ、社交界では1を聞いて10を知る、それくらいの気持ちで向かうといい。話しすぎは場合によると命取りなることを覚えておくといいよ」
ナルメルアはこれを忠告だと受け取った。
宮廷侍女として、王族の近くに仕える者として、その立場を心に刻むようにと。
ナルメルアが持ってきた文箱と封書を受け取ったゲイルは、部下の名前を呼ぶと封書を手渡した。
「リリアナ様へお渡しするように」
ナルメルアはその名に聞き覚えがあった。
ルイスの妹に当たるリリアナ・レイドリッヒ伯爵令嬢、その人だ。
そうか、皇太子の用事とはリリアナのことだったのだ。
皇太子と唯一親しい間柄と噂されている令嬢、ルイスの妹へ向けた手紙だったのか。
ナルメルアの浮かない顔にゲイルは、
「どうかされましたか?」
今日何度目かのその言葉に苦笑する。
「いえ、少し寝不足なだけです」
書類を確認して貰い再び受け取ったナルメルアは、詰所から出ようと足を踏み出した。
思いの外、日差しが強くて一瞬目の前が真っ白に染まる。
気づいた時は足元に崩れ落ちる寸前、地面が目の前に近づいていた。
「危ない!」
咄嗟に腕を掴んだゲイルはナルメルアの腰を支えると、そのまま力を込め抱えあげた。
横抱きにされたナルメルアは、小さな悲鳴と抱え上げられた驚きでゲイルの首に抱きつく。
「そのまま掴んでいて下さい。医務室まで運びますので」
首まで真っ赤なゲイルは、ナルメルアを抱えあげたまま歩き出した。
鍛え上げられた屈強な体躯は、ナルメルアを抱えてもびくともしなかった。
ナルメルアも落ちるかもしれないと恐怖も薄れ、ゲイルの歩く揺れに身を任せた。
中庭に差し掛かる頃には、ナルメルアは意識を手放してしまっていた。
宮廷医からは1日安静に横になるようにと言いつけられ、西の外れの棟では何かあったら困るだろうと医務室のベットで休むことになった。
医務室は中央棟にある。
中央棟の最奥に位置する正殿には陛下と皇后、そして皇太子ら王族の居室がある。
侍女や侍従が正殿前の自由に行き来できるぎりぎりに医務室が誂えられていた。
ナルメルアもここまで王宮の奥まで来たのは初めてだった。
医務室の向かいに王族の側つき侍女が使う専用の水場と作業室があるため、担ぎ上げられたナルメルアを見た侍女によって話が瞬く間に広がったのは言うまでもない。
その話を聞き付けたナザレ侍女長が駆けつけてきた。
「具合はどうなのです」
まだ意識のないナルメルアに変わり医師に尋ね深刻でないのを確認すると、足早にナルメルアの仕事の割り振りをしに戻った。
ナルメルアが目を覚ました時には陽が傾き辺りは薄暗かった。
「気がついた?」
暗がりにぼんやり浮かんだのはルシエールの心配げな表情だった。
「ごめんなさい。忠告を聞いて休んでいたら迷惑かけずに済んだのに」
体を起こそうとしたナルメルアを制止して、ルシエールは優しくナルメルアの額に手を置く。
「高くはないけれど熱もあるから寝てなさい」
1つとはいえルシエールが年上なのだとこういう時に感じる。
「心配しなくともナザレ侍女長があなたの代理をすぐ立てたから、仕事には何ら支障はないから」
鉄仮面と裏で言われているナザレ侍女長も、何度か様子を見にきてくれたらしい。
「貴族の子女って温室育ちじゃない?」
ルシエールはベットの横に置かれた椅子に腰かける。
「だから大概早い段階で大半の子が体調崩したり、精神的に辛くなって飛び出したり、何かしら体に異変を起こすものなのよ」
ルシエールはポンポンと膝を叩きながら話す。
「あなたの場合はむしろ珍しいくらい」
視線でルシエールを見つめるナルメルアに優しく微笑む。
「これまで頑張りすぎた証拠なんだから、気にせず休みなさいな」
ナルメルアもルシエールに微笑みを返す。
「ルシェ、ありがとう」
ルシエールが運んでくれた夕食を口にしたナルメルアは、再び横になると深い眠りに落ちていった。
何度か人の気配に意識が現に戻りかけては沈みを繰り返して、再び瞼を開けたナルメルアは立ち上がると窓の外に視線を向けた。
そこは中央棟と正殿の間にある中庭があった。
池があるのが池の周りに立てられた灯籠の明かりで分かる。
その明かりの側に人影が並んで立っているのに気づき、ナルメルアは窓の向こうのその二人に視線を向けた。
まず背の高い人影は男性で、低くて長くて波打つ髪型は女性なのがわかる。
それが陛下と皇后ではないのは身なりから分かる。
男性は飾り気のない服装で、女性は裾が膨らんだドレスを着ていた。
顔の表情までは分からなかったが、月明かりに白く輝く髪が浮かび上がり、それが皇太子であることに気づく。
ならば女性はリリアナなのではないかと思った。
おとぎ話の王子様とお姫様のような、まるで一枚の絵画を眺めているようだった。
そこは別世界だった。
不思議と胸が痛んだり苦しくなったりはしなかった。
ただこの眺めているような世界と、自分が立っている世界が同じには見えなかった。
そこに自分が足を踏み入れるのは場違いで、その世界はガラスの向こう側が相応しい。
ナルメルアは窓から体を離すと踵を返した。医務室から出ると西の棟へ向かう。
少し足元が覚束ないがゆっくりならなんとか歩けた。
警備の近衛兵はナルメルアの顔を確認すると軽く頭を下げて扉を開けてくれた。
担ぎ込まれた話を聞いていたのだろう。
ナルメルアの歩みを待ってくれる兵に気づかいを感じ、再びナルメルアは頭を下げて扉が閉まるのを待った。
しかし離れた西の棟の入り口に立っているはずの近衛兵がいないことに気づく。
不審に思いながら、今日は来賓もいないので席を外しても問題はないだろうと自室に向かう。
ナルメルアが歩く足音が廊下に小さく響く。
棟内は間隔を空けて備え付けられた燭台に火が灯されている。
ランプを持ち歩いていないため、その僅かな灯りを頼りにゆっくりと歩みを進めた。
その異変に今度こそ身をたじろがせたのは、ナルメルアの自室の近くの灯りだけが消されていたからだ。
背中にじわっと汗が浮かぶ。
手の平も冷たいのに汗が滲む。
早鐘のように胸を打つ鼓動、それに同調して足がすくむ。
踵を返して誰かを呼ぶか、しかし灯りが消えているだけで騒ぎにするのもどうか。
足音を殺して、静かに歩き出す。
取り敢えず自室の前にたどり着く。
周囲に人の気配はしなかった。
扉に手をかけノブを回す。
中に人の気配がないか探りつつ、ゆっくりと回し扉を開けた。
手探りで燭台に火を灯す。
小さな部屋だ、人影があればすぐに分かる。
燭台を手に部屋を照らすが恐れていた事態ではないことに、安堵の息が漏れでた。
しかし、その息が止まる。
背中を冷たい汗が伝う。
ナルメルアは机に置かれた封筒に目を向けた。
ナルメルアは入口まで一旦戻ると鍵をかけ施錠した。
取られる物もやましい物もないから普段から鍵はかけてはいなかった。
しかし、机の上の手紙を前に後悔しても遅い。
ナルメルアはその手紙を恐る恐る手にとり、封をあけた。
貴族が使う封蝋はなかった。
字にも見覚えがなかった。
しかし、それを読み終えるころにはナルメルアの顔からは血の気が引いていた。