妃への道
木漏れ日の下で話し込んでいた二人に向かって駆け寄ってきたのは、騎士団で見慣れた人物だった。
褐色の肌が陽の光に眩しい。
ゲイル・グロッケン副師団長だった。
戦場での功績を認められ、副師団長に就いた彼の剣の腕前は、騎士団でも一二を争う。
皇太子の窓口がルイスであるように、騎士団の窓口はゲイルだった。
騎士団の詰所の奥は鍛練場となっており騒がしく雑然としている。
本来なら詰所に常駐するべき兵が定刻にいないということもあり、几帳面なゲイルが定刻に出てきてくれるようになって、それが定着してしまった。
そもそも副師団長を差し置いて部下は何をしているかといえば、鍛練場で稽古をしている者も僅かながらいるものの、大半は王宮から出ているようなのだ。
ナルメルアはさして気にはならないが、騎士団の面々は上半身裸で鍛練をしたり、なにせ粗野で礼儀もなにもめちゃくちゃで貴族令嬢である侍女たちからの受けがすこぶる悪い。
彼らに慣れている下女たちには貴族子息で成り立つ近衛より人気なようで、近衛派の侍女と騎士団派の下女で別れている。
そのせいか騎士団詰所のある東棟は侍女も近寄らず、あまり清潔な様子ではない。
なのでナルメルアが立ち寄る際に、洗濯物や繕い物などを持っていったり届けたりと手伝うことも多い。
そんな荒くれ者の中で、ゲイルだけは侍女たちから熱い支持を得ていた。
見た目も精悍で整ってはいるが、その筋肉隆々な体躯で厳つい外見とは裏腹に中身が繊細というか、女性が苦手なようで口下手なのが良いらしい。
年が上の方の侍女たちに囲まれ「可愛い」とからかわれているのを見かけたナルメルアは、ゲイルが可哀想に思ったものだ。
そんなゲイルは東の棟から駆けてきたのだろう、軽く息を整えナルメルアの前で敬礼する。
別に侍女相手に身分も階級もないのだが、生真面目な彼は皇太子からの連絡役は皇太子と同じように扱うべきとでも考えているようなのだ。
「歓談中申し訳ありません。時間が掛かっていたようなので、何かあったのかと思いましてお迎えに上がりました」
そこで思いの外話し込んでしまっていたことに気付き、ナルメルアも腰を折って謝罪する。
「こちらこそ申し訳ありません。わざわざお迎えに来させてしまうなんて」
ルシエールも横で腰を折り謝る。
「教育係のわたくしの責任です」
ゲイルは二人から謝罪されて見るからに焦っていた。
「こっ、こちらが勝手に心配になって来てしまっただけ…のことです!頭を、頭を上げて下さい!」
その慌てて必至な様子が可笑しくて、つい笑ってしまった。
「ご、ごめんなさい」
涙目で謝るナルメルアとクスクスと笑い続けるルシエールにゲイルも苦笑する。
「まいったな」
頭をかく仕草は男らしく様になっていた。
ルシエールが仕事に戻るとナルメルアも詰所に向かうべく歩みを進めようとした。
「あの、わざわざあちらに行かなくともここで結構ですから」
皇太子から預かった文箱を渡して、その場でゲイルが中身を確認する。
書類はゲイルのサインを貰ってルイスに渡すようにと言われていた。
内密な文書とのことで、出入りの激しい詰所では管理が行き届かないため持ち帰るようにとのことだった。
再びベンチに腰を下ろしたナルメルアは、今度はゲイルに声をかけた。
「よろしかったらお座りになられませんか」
隣をすすめたナルメルアに、上ずったこえで同意するとゲイルも腰を下ろした。
「ゲイル様にお聞きしたいことがありまして、教えて戴いてもよろしいですか?」
ナルメルアの問いにゲイルは書類から顔を上げナルメルアに視線を向けた。
「なんでしょう?」
姿勢まで正す真面目っぷりがゲイルらしい。
「皇太子はどのようなお方なんでしょう」
ナルメルアの真っ直ぐな眸とぶつかるとゲイルの視線が宙を泳ぐ。
「リーデン殿下ですか」
宙を泳いでいた視線が止まって、しばらく宙の一点を見つめた。
「周りに厳しいけれど、誰よりも自分を律しておられる方です」
「身内でも切り捨てるというお噂は本当なのでしょうか」
ナルメルアはゲイルの視線の先に鷹が止まっているのに気づいた。
遠く高い木の枝を掴み、鷹は微動だにしなかった。
「確かに、殿下は身内だからと扱いを変えりはしないでしょう。感情で物事を捉えるのを嫌われるお方です」
鷹の視線の先に獲物があるのか鷹は前傾姿勢で今にも飛び立とうとしていた。
「それでは恋人がおられるのかはご存じです?」
「え」
まさに飛び立とうとしたタイミングでゲイルの視線はナルメルアに移った。
「あら残念、鷹は飛び立ってしまいましたわ」
ナルメルアだけは、獲物を取り損ねた鷹に視線を向けたまま話していた。
「え、あぁ、そうですね」
拍子抜けしたようなゲイルにもう一度尋ねる。
「恋人がおられるのですか?」
ナルメルアがゲイルに視線を戻す。
「え、いや、それは自分には分かりかねます!」
慌てて否定され、ナルメルアはもう一声かけて確かめる。
「皇太子は女性に興味がないというわけではないのですよね」
ずいっと顔を近づけたナルメルアに耳まで真っ赤になったゲイルは上体を反らせて、
「違うと思いますよ!」
大きな声で否定する。
たまらず立ち上がったゲイルはナルメルアを見下ろすと咳払いをひとつ。
「あまり殿下のその…そういったことは口になさらないようにして下さい。もし私がそのような質問に答えているのを知られたら」
と途中で身震いをして小さな声で、
「冗談抜きで首が飛びかねません」
言い切った後も顔色は赤から青に変わったままだった。
ゲイルの人の良さにつけこんだ形になってしまって反省しつつも、これまで漠然としか得られなかった情報が知れて満足だった。
「感謝いたします」
ニコッと晴れやかな笑顔にゲイルの顔色はまた変わったのは言うまでもない。
「にしても、なぜリーデン殿下なのです」
文箱にサインした書類を戻しながら、今度はゲイルが尋ねた。
「お仕えする方の人となりを知りたいと思っただけですわ」
ルシエールに言った台詞を同じく並べた。
彼女に言った時は心苦しさがあったが、今回はそれがないだけスラスラ言葉になる。
「心に決まった方がおられるなら、ゆくゆくはお妃としてお仕えすることにもなるでしょう。その時の心づもりをしておこうと思いまして」
ゲイルは「なるほど」と頷き文箱をナルメルアに手渡す。
「私も仕える主の器量で忠誠は計れると考えるので分かります」
真面目に見送られ、文箱を手にナルメルアは執務室まで戻った。
「仕事が遅い!」と皇太子からの苦言がルイスから伝えられたのは夕刻の連絡が済んでからのことだった。
そもそもルイスから渡されるまでの間にだって多少は時間が前後するはず。しかし、ほんの僅かでも定刻から遅れるのを把握できるとは実に細かい。
ルイスが逐一時刻を報告してるのではないかと疑うくらいなのだ。
それには心当たりがないとルイスは否定していたが、ナルメルアにしてみれば皇太子からの評価をこれ以上下げるわけにはいかなかった。
この次は完璧にこなしてみせると意欲に燃えていた。
皇太子関係なく、与えられた仕事に手を抜くのが嫌なのはナルメルアの性分でもあった。
最近は書庫での作業に手が付けられないこともあり、ルイスに相談して書庫室の鍵を渡されていた。
連絡役の仕事を終えた後に書庫の仕事へ向かうのが日課になっていた。
ナルメルアは駆け回って疲れた足で書庫室に向かった。本来なら消灯の時刻なのだが、数日後に来賓として来られる他国の使者へのもてなしに必要な知識を得ようと資料を探しに来たのだ。
鍵を渡されて、またルイスからも話が伝えられた史書官長からも利用の許可を得た今は堂々と書庫に出入りができるようになった。
わざわざランプに布を被せて目立たなくする必要もなく、勝手知ったるとばかりに慣れた手つきで燭台に灯をともした。
机の上に置かれた燭台の灯りが揺らいだ。
微かに感じた風に瞼を開けた。
ガバッと上体を起こしたナルメルアは、机に伏して眠ってしまっていたことに気づき慌てる。
「ひッ」
口から心の臓が飛び出るくらい驚いたのはナルメルアの向かいに人が座っていたからだ。
肩を震わせて笑いをこらえているのは、あの文官の男だった。
「な、なにがおかしいのですが」
ついむきになって声を荒げたナルメルアに、
「あまりに淑女らしい反応だったのでね」
とからかう。
ナルメルアは頬を赤らめた。
「意地がお悪いです」
ナルメルアはムッとして言い返した。
「本当にそう思ったんだ」
男は足を組み替えると片肘を机に立て、その手に頬を預けた。
嫌みなくらい仕草が様になっていて、またナルメルアの体温が上がる。
恥ずかしさのあまり、蝋燭の炎に顔色が誤魔化せたらいいのにと。
「こんな時間まで仕事か」
男の口調はまるで親しい間柄の人間に話しかけるようだった。
「そちらこそ史書官長のお使いですの」
枕にしてしまっていた本をそっと閉じた。
汚さずに済んで良かったとその表紙を優しくなでる。
「昼間は何かと忙しいからトッケビ史書官から夜間の利用の許可を頂いていたんだ」
男の手元には重ねられた書物が置かれていた。
「まぁ!わたくしもですわ。史書官長は部下にお優しい方なのね」
ナルメルアは言葉少ない上司が感情を表す姿は見たことがなかった。
男は片眉を上げ口角を上げる。
「あれは面倒なことに取り敢えず頷いているだけだ」
師に対するには存外に言い捨てる。
茶色の瞳がナルメルアのそれと重なる。
「知識も大切だが人を見る目を養うことも出世には必要なことだ」
ナルメルアはあっと口を開けた。
あの晩この男に戯れで話したことを指していた。
慌てるナルメルアをよそに男は続ける。
「そういえば答え合わせがまだだったな」
口角を上げて笑うのが男の癖なのだろうか、それは傲岸不遜な態度に拍車をかけていた。
「侍女長より上であれば乳母というのも考えれるが、その歳で乳母を目指すとは考えられない」
男は完全に楽しんでいた。
ナルメルアに向けて差し出された指先が言葉を紡ぐのに合わせて上を差す。
「では皇室の側室?」
とても意地の悪い顔、野心を嘲るのか、夢物語をと馬鹿にしているのか。
そこには好意的な感情はなかった。
ナルメルアは膝に置いた手を握りしめた。
目の前の男を睨み付ける。
挑戦的な眼差しと男の不遜な眼差しが交わる。
机に重ねて置かれた書物の中から一冊抜き取ると、ナルメルアの目の前にそれを差し出した。
「レビエレス妃伝記」
多くの人民に支持された女性。
現国王の母にあたるレビエレス皇后の伝記。
王国初の平民出身の皇后。
しかし階級制度が厳しい国でその地位はあまりにも周りの貴族階級から反発を受けた。
皇后は心労も絶えず若くして亡くなった。貴族議会は彼女から多くの権利を剥奪した。
それが皇后擁護の国民による暴動へまで発展した。
その二の舞を避けるため、現国王のように皇室の婚儀には政治的な結び付き、また身分階級が相応の妃が据えられることになった。
幼くして母を失った陛下は15歳で3歳上の妃を迎え翌年には二人の間に皇太子が生まれた。
先の皇后が若くして崩御した後、世継ぎは陛下だけだった。側室をとるように促されたが先代の国王は終生皇后以外と子を設けることはなかった。
現国王もまた側室はとってはおらず、子も皇后との間のみである。
皇太子の婚姻を急がないのは陛下の境遇に思うところがあったのかもしれない。
ナルメルアは本から視線をあげた。
「正解か」
ナルメルアは口をつぐむ。
それを肯定と取った男は笑う。
「それは大きく出たな」
本を指で弾く。
「馬鹿な夢だとお思いでしょう」
ナルメルアの真剣な眼差しを男は正面から見据えた。
「向上心、野心といってもいいがそれ自体は悪くはない」
ナルメルアはなぜかこの男の言葉の先が気になって落ち着かない。
「皇太子と面識はあるのか、話したことは、どんな人間なのかは知ってるのか」
「人となりは耳に…」
ナルメルアが言い終わるのを待たずに、
「それはどんな」と聞き返す。
ナルメルアはぐっと堪えつつ、
「厳しいお方だと。周りにも、そして自身にもそうだとお聞きしました」
男は乾いた笑い声を上げた。
「あまりに杜撰な情報だな。それは何も知らないのと同然だろう。それでよく妃になろうなどと考えられたものだ」
男はそこに容赦なく踏み込んでくる。
「王宮という同じ空間にいながら、顔を合わせることもない。言葉も交わしたこともない。そんな相手にどうやって迫るつもりだ」
男の容赦のない質問はナルメルアを追い詰める。
「それとも仕事で目立てば皇太子に見初めれるかもしれないと高望みをしているのか」
「それはっ」
咄嗟に口に出た反論を男は「それは?」と逃れるのも許してはくれない。
「確かに…そうかもしれませんわ」
ふっと男が「それみたことか」と笑おうとした瞬間、ナルメルアは口を再び開いた。
「もし皇太子がわたくしに目を止めることができたなら、皇太子には鑑識がおありだった。そうでなければそれだけの人だったということですわ」
男は一瞬押し黙る。
そして口角を上げ笑みを浮かべた。
「皇太子に見る目があるか、あくまで試すのは自分だと言いたいわけか」
男は面白いと一人頷く。
「そのやり方が侍女で、というのは回りくどくはないか」
反論ではない男の言葉はナルメルアに問いかけていた。
男の言いたいことは分かっていた。
出会いと言えば貴族なら一番に浮かぶ場所がある。
それを選ばない理由もナルメルアにはあった。
「社交界と言いたいのでしょうけど、皇太子は社交界には出ておられないわ」
ナルメルアが聞く皇太子は人嫌いで有名だ。
しかし男はさも分かってないというように頭をゆっくりと振り否定する。
「侍女という目立たぬ仕事で頭角を表すより、手っ取り早いのは社交界だ」
男は続ける。
「社交界は貴族の駆け引きの場所、ある種の戦場だ。野心、欺心、奸心…それをお互い隠しつつ、誰につくか誰を支持するか、乗る船を選んでいるのさ。良い船に乗れれば安泰だが、泥舟なら沈む、平凡な船は失う物は少ないが得る物もない」
そこでだ、男はナルメルアを指差す。
「自分こそ妃に相応しい人間だ良い船だと皇太子ではなく貴族たちに思わせる。
貴族の後ろ楯を得る、それこそ妃候補の舞台にあがる第一歩だと俺なら考える」
実に楽しげに見える男を前にナルメルアはふと感じたことを口にしていた。
「応援してくれてるの?」
男は「さぁ」と肩を竦める。
「権力か名声か財か、何が欲しいのかは知らないが、恋心で狙うより策を練る方が有効だと思ったまでだ」
ナルメルアはふと浮かんだ言葉をまた投げかけた。
「あなたなら有能な伴侶か愛する伴侶かどちらを選ぶの?」
口にしてから恥ずかしさが襲ってきた。
男は考えるまでもないと、「両方」と即答。
それは難しいのじゃなくて、とナルメルアのその言葉は声には出せなかった。
口にすることで自分も両方を得るのは無理だと、そう自覚したくなかったから。
話が終わったとばかりに男は席を立った。
男はナルメルアを見下ろし、ナルメルアは男を見上げた。
先に口を開いたのはナルメルアだった。
「名前、教えては下さらないのね」
男が笑みを浮かべた。
それはあの意地悪な笑みではなかった。
ナルメルアはその笑顔に胸が締め付けられるような痛みを感じた。
「次会うことがあればその時に」
そう答えると深緑のローブを翻した。
ナルメルアはじっとその姿が闇に消えていくのを見つめ続けた。