書庫室
その噂は普段剣を揮うしか脳がないような男から伝えられた。
グロッケン男爵子息であり、皇太子直属の騎士団のゲイル副師団長は真面目が歩いているような男だ。
鍛え上げられた肉体に精悍な顔立ち、一度剣を揮えば性別問わず感嘆の声が上がるほど剣技に優れている。
ともすれば剣を置いたら気の効いた冗談ひとつ言えぬ朴念仁。
そんな男の口からおかしな言葉が出たので普段なら気にもとめない話題に興味がわいた。
「こんなことをリーデン殿下にお話しするべきか悩んだのですが」
と真面目な顔で次に口にしたのが、
「西の棟に…その…人ならざる者が現れるとの報告があがっておりまして…」
口調からもその言葉が話すに値いするか悩んでいるのが伝わってくる。
リーデンは口の端を上げ問いかける。
「人ならざる者とはなんだ」
ゲイルは主の表情から感情を読み取ろうとするが、すぐそれは無駄な足掻きと諦め続ける。
「それが…部下が言うには亡霊ではと」
リーデンは黙ってゲイルに目線を預ける。
口外にせず「だからなんだ」と問いかけているのだ。
主の冷ややかな眼差しに射ぬかれて声が上ずりながらもやっとのことで言葉を吐き出した。
「レイスの亡霊が出たのだとではないか、と。亡霊を見たと申したのはレイス出身の兵とのことです」
今は亡き小国の名を口にするのは勇気の要ることなのだ。
我が主の言1つで身分も場合によれば首さえ飛びかねない。
ゲイルは側近の一兵として仕えて久しいが、主がその行動如何の是非に私情を挟むところを見たことはない。
言うなれば近しい存在であろうとも、主は一切の私情を挟まずに罰するのを厭わないといえる。
ゲイルの顔からは血の気が引いていた。
敵を目の前にしても動じない男が震え上がるのは、リーデン皇太子以外にはいないだろう。
「レイスの亡霊か」
リーデンの瞳が遠く記憶の彼方へ向けられた。
14歳で初陣に立った。
その場はかつてレイスと呼ばれた小国だった。
見た目は自国の民と違わず、ただ話す言葉は違った。
他者から憎悪の眼差しを向けられたのはあれが初めてだった。
立てる主も亡き後も国の再興を唱える者に、民に望郷の念を抱かせるような善き国であったのだろかと亡き国の姿を思い浮かべた。
しかし亡き国の民を鑑みた我が身、それさえ嘲るような長きに渡る怨嗟と戦った今はその哀れみも薄れた。
「報告をした兵と亡霊を口にした兵から目を離すな。怪しい動きを少しでもしたら切り捨てろ」
リーデンの瞳はその感情を写すかのように鋭く、抑揚のない声は聴くものの心さえ縛り付けるような氷のような冷たさを感じさせた。
報告を受けたゲイルやその直属の部下には、これまでと違った行動は取るなとのことだった。
もし部下が城内で謀反を企て、あらぬ噂を立てたとするなら、相手を泳がす意味で静観するのは正しい判断だろう。
ゲイルは取り敢えずその手で部下を切り捨てずにすんだことに胸を撫で下ろした。
結果的に謀反の兆しがあれば剣を取ることは致し方あるまい。
ようやく内乱が落ち着く兆しを近年感じていただけに、新たな火種を見逃したくはなかったのだ。
戦場に連れだった部下を疑いたくはないが、主の御代にまで遺恨を残すわけにはいかない。
この国の平和にはあの方の揺るぎない地位が確立されなければならないからだ。
亡霊騒ぎなど戦場疲れから口にした幻であってくれればいいのだが。
ナルメルアはその晩も書庫にいた。
その日は建国の成り立ちに目を通していた。
大方の筋書きは伯爵家にあったものと変わらず、子どもの寝物語といったところだ。
この世に降り立った神々の容姿が王室の容姿と重なるのが興味深かった。
北の地に降り立った神は銀髪、南の地は金髪、東の地は漆黒髪、西の地は赤髪とある。
我が国に隣接する国は金色か茶色の髪色が多い。
ナルメルアが育ったシュトレッセンの領地で暗めの髪色が多く見られるのは、東の諸国との貿易行路に領地が当たるからだろう。
東方は島国が多いがそこまで真っ黒な髪はあまり見かけないので王室に所縁があると漆黒な髪が表れるのだろうか。
赤茶色や赤みのかかった金色はよく見かける色で、西の大国は豊かで交易も盛んで歴史的にみても移民も多かったからだろう。
確か西の大国の現国王の髪色は茶褐色らしい。
純血を重んじる風習は北の国々では残っているらしいが、どこも外交上他国の血が王族にも流れていて髪色が混じるのも不思議はない。
ナルメルアの周りに赤い髪色の者はいなかったが、小国の寄せ集めが由来のこの国で容姿で差別的な扱いを受けたことがないのは幸運だった。
多少毛色が違っていたとしても、お世辞にも美人ではないナルメルアは人の目に見向きもされない顔で良かったとさえ思っていた。
今となっては美貌を持たざる者であることが努力では変えられないのだと残念に思うこともある。
ナルメルアはこの年まで色恋沙汰とは無縁だった。
養父である伯爵もナルメルアに頑張ってもどうにもならないことはあるからと、何とも嫌みな気遣いで送り出してくれたものだ。
書庫に来て一刻ほど経ったころ、突然書庫の扉が音をたて開いた。
ナルメルアは咄嗟のことで身動き一つ取れなかった。
兵なら簡易の兵装でも帯刀の金具の音で気づけたはず。
そんな音はしなかった。
いや本に夢中で気づかなかったのだろうか。
どう言い訳しても一介の侍女が勝手に踏み入れてはいけない場所であるのに変わりはない。
入ってくる足音に耳を澄ませれば、足音は微かに聞こえる程度。
兵ではない?
「誰かそこにいるのか」
暗がりにランプの灯りに照らされた顔が浮かび上がる。
文官が使う深みのある緑色のローブが目に入る。
外は雨なのか頭に被ったフードから滴がポタポタと落ちていた。
見張りの兵ではないとなると老史書官の使いの者なのかと考えて咄嗟に
「書庫の管理補佐を任されております侍女にございます。史書官長のお使いの方でございますか?」
胸を打つ早鐘が相手に聞こえないか、そればかりに気を取られていた。
ローブの雨露を払い入ってきたのは長身の男だった。
「トッケビ様から急ぎの書物を頼まれた者です」
答えた男に気づかれないよう、平静を保ちながらナルメルアは胸を撫で下ろした。
史書官長は名前で呼ばれるのを嫌って家名か役職でしか名乗らない。
史書官長の名を知らない官吏も多い。
その名を口にしただけで信用に足る。
私はたまたま史書官長が記した書物を目にして知ることとなったが、その名前を呼ぶのを許されたのは弟子だけだと聞いた。
「夜分にご苦労様です」
ナルメルアはニッコリ微笑んだ。
やましいことなどしていないのだと、うっかり口走ったりしないように余計なことは喋らないように挨拶だけを口にした。
相手の視線がナルメルアを捕らえているのを居心地の悪い中で耐える。
史書官長の下につく文官はたまに書庫に用事や使いで足を運ぶくらいで主に王立図書館に従事している。
ナルメルアも数えるほどにしか会ったことがない文官。その中に彼はいなかったと思う。
使いの男がナルメルアの座っていた席に視線を落とした。
「建国物語ですね」
ナルメルアを不審に思っているような感じは受けず、まるで世間話をするような気軽さで話す。
「懐かしいな。私も子どもの頃によく読んだものです」
微笑んだ顔にナルメルアの緊張はほどけつられて笑みが浮かんだ。
「わたくし幼い頃にはこのお話を存じ上げませんでしたの」
本の表紙を優しく撫でる。
「でも国の成り立ちというのは奥が深くて無知を恥じましたわ」
男はナルメルアの話に耳を傾けながら本を捲る。
「神々の血族とは荒唐無稽ですがね」
「そうですわね。神々の存在に隠された意味があるとするなら、そのような話は荒唐無稽といえますわね」
男が顔を上げてナルメルアを見る。
その顔には先ほどの柔らかい笑みはなかった。
「隠された意味とは?」
ナルメルアは自分でも知らず知らず声に熱が入ってしまっていた。
「神が先か統治者が先かということですわ」
男は頷くことでナルメルアに先を促す。
「統治者が神格化されたのが神話の始まりかもしれませんでしょ?もし本当に神々が降臨されたとして、神がこの国を統治したという建国説は不自然です。ならばその容姿と同様の全ての民に神々の血が流れていることになりません?」
男はナルメルアの前の席に腰を下ろした。
「宮廷侍女が建国説に異を唱えてよいのかはさておき、興味深い話ですね」
ナルメルアも椅子に座り直す。
「確かに情操教育では神を信仰すること、すなわちそれが貴族としての矜持にも繋がることでしょうね」
王家に名を連ねる貴族とて神を祖とすることが誇りでもあるからだ。
「わたくしは自分の地に神の血が流れているなどとは思いません」
「どうして?」
男は静かに尋ねた。
「わたくしなら、努力して名を残すような統治者になったからこそ、その功績から神格化されたという方が納得できますし、その人と同じようになりたいと思うからです」
くくっと男の肩が揺れた。
「まるで統治者に憧れているような口振りだね」
ナルメルアは最初感じたこの男の柔和な雰囲気が作られたものと気づく。
「それこそ貴族の矜持ではありませんこと」
挑戦的に返したナルメルアに男の笑みはさらに強くなる。
「人を支配するという矜持?」
ナルメルアの瞳に炎が宿る。
「それは統治ではありませんわ。民は従わせる者ではなく導く者です」
触発されたのか男の口調も険を帯びる。
「それは詭弁だろう。どちらも同じことではないか」
「いいえ、力で権力で押さえつけ従わせると民は抗おうとします。その力が強ければ強いほど反動は大きくなります。権力を持つからこそ民に道を記す責任があるのです。それが正しい時、民が行いを称する。それこそが貴族の矜持です」
ナルメルアは知らず知らず肩に力が入りすぎていたことに気づくと、ふっと力を抜いて男の顔を真っ直ぐ見返した。
「確かにきれいごとだとは思いますわ。それができるなら内乱など起こらず末永く幸せな国として栄え、まさにおとぎ話みたいな国が出来上がるでしょうね」
苦笑したナルメルアに男は笑い返したりはしなかった。
難しい顔つきのまま尋ねる。
「この国は失敗したということか」
ナルメルアは自然と口にしていた。
「失敗でなくてどう他に言えばよいのかしら」
首を傾げる。
「内乱は力と力のぶつけ合いでは解決などしないわ。負けた方はより一層の憎悪を抱き争いをより大きなものとして向かってくるわ」
ナルメルアの視線は空へ向けられる。
「親から子へ、子から孫までその遺恨は受け継がれる」
男はナルメルアの視界の端で腕を組んだ。
「ならどうするべきだと?力でなくなにで収めるというんだ」
ナルメルアは再び男と向き合うと笑った。
「潔く謝るのも手ですわね!わたくし沢山の子どもに囲まれて育ちましたの」
男の目は見開かれた。
全く見当違いの答えに驚いたのだ。
「ははっ」
男が笑った。張り付けたような笑みより好感の持てる雑な笑い方だった。
「人と人との関係と一緒ですわ。どちらかが悪ければ謝罪する、解決するには同じ目線でなければ見つからない答えがあるはずですわ」
ナルメルアはすっと男に顔を近づけ「同じ目線で」と口にすると、にこりと笑った。
男は口の端で笑う。
「侍女にしては勿体ない。なぜそのような考えがあるのに官吏を目指さなかった?」
今度はナルメルアがキョトンとする番だった。
確かに考えたことはなかった。
「でも官吏の行き着くところは官長、まして女の身ではまず無理でしょう」
そうなのだ、それを知ってるからナルメルアには興味がなかった。
「まるで官長では納得できないという口振りだな。そんなに上に行きたいと?」
一介の宮廷侍女が、と言葉の先をナルメルアは察した。
フンと今度はナルメルアが鼻息荒く返す。
「あら宮廷侍女の一番の出世は長どまりではないのをご存知ない?」
男はナルメルアの挑発にはのらなかった。
「ではなんだというんだ」
ただ静かに、さもすれば冷ややかとも言える眼差しがナルメルアを捉える。
ナルメルアは文官である彼を侮辱した形になったのをその態度から感じ詫びた。
「ふざけ過ぎてしまいました。申し訳ありません」
先に視線を反らせたのはナルメルアの方だった。
「いや、わたしも興味深い話につい話し込んでしまって」
男はまたあの柔和な表情を浮かべていた。
男は用件を済ませるため書庫に残ると言い、ナルメルアは夜着を翻し書庫を後にした。
男が入ってきた時とはまた違った動悸を胸に階段をかけ下りた。
お互い名前を告げなかったのは、私は王宮にお仕えする立場の人間、王宮内で男性と密室で過ごしたことが耳に入れば醜聞どころの騒ぎではない。
また文官のあちらの立場も同じく危ぶまれる。
色恋沙汰で足元を掬われる可能性もある。
何より婚姻前の令嬢には清廉潔白こそ美徳なのだ。
部屋に着くとベッドにすっぽり潜り込んだ。
鼓動が落ち着くにつれ、史書官長に無断で私が書庫室に入った話が耳に届くことも危ぶまれることに気づいた。
でも盗んだり悪意があったのではないし、部屋の鍵が空いていたからつい入ってしまったとでも言えばなんとかなるのではと甘い考えも浮かぶ。
その夜は眠ることができなかった。