皇太子
リーデン・クロイツ皇太子。
エステニリア国王の嫡男で後継者である。
人を寄せ付けない冷ややかな眼差しと白銀に輝く髪。眉目秀麗で人目を引き付ける容姿、スラッとした体躯にはしなやかな筋肉を纏っていた。
武芸に秀でており、先の内乱を鎮圧した様は冷徹なる鬼神と畏怖の念で称された。
内乱や紛争の鎮圧に自ら兵を率いて出征するため長く城を空けることもしばしば。
皇太子は王都の領主でもあるため、帰還しても執務室に追われ元来の性格もあり社交の話に顔を出すことも少ない。
ナルメルアは王宮で暮らしはじめて三月経とうかというのに、皇太子の姿を拝見することさえできてはいなかった。
冷徹とか鬼神とかの噂から、皇太子を恐れる声をよく耳にした。
先だっての王室主宰の夜会では皇太子の弟のウォルフ殿下が一際目を引いていたらしい。
金髪碧眼は王家の血族を表す。
現国王陛下と瓜二つのウォルフ殿下もその血が色濃く現れた容姿をしており、ウォルフ殿下は社交的で慈悲深く皇太子とは見た目も性格も似ても似つかないと言われている。
次期国王にウォルフ殿下を望む声も少なくはない。
今のところ表立って派閥争いはないものの、水面下ではウォルフ殿下の擁立派閥の名前も耳に入ってくる。
リーデン皇太子の周りには限られた人間しか側を許されてはおらず、現宰相のレイドリッヒ公爵令息が補佐官として対外的な役割を一手に担っている。
側つきの侍女をつけない代わりに皇太子の乳母が身の回りのお世話についている。
時折レイドリッヒ公爵令嬢も手伝いに来られており、実は皇太子と恋仲ではと噂されていた。
リーデン皇太子は22歳、妃がいて当たり前の年頃。
側室の一人や二人いてもおかしくはないが、それさえない。
17歳のウォルフ殿下に至っても同じ。
それは単にこの国の国情から仕方もないことかもしれない。
エステニリア公国はもともと小国の連合国家が起源である。
近隣の小国を統治下に国土を広げてきた歴史から、今なお内乱や紛争、政治的な小競り合いが続く。
国土だけで見れば大国、近隣諸国からは筆頭国としての信も厚い。
しかし近年は国の安寧を崩しかねない大規模な内乱が続いていた。
現国王即位の貢ぎ物として、隣国の統治下にあった小国を譲り受けたことより内乱が始まったのだ。
小国と侮り武力により鎮圧したのが悪かった。
10年以上の時をかけ小国を解体、今もその火種があちらこちらで燻り、その対応に皇太子も追われていた。
そのため婚儀などは二の次だったわけだ。
近隣諸国への威厳を保つのに内乱は恥ずべき醜態、しかも小国の鎮圧に20年以上がかかるとは誰も考えはしなかっただろう。
また長きに渡る内乱の余波は国庫にも大きな影響を与えた。
現国王の婚儀は内外諸国にも盛大に祝福され、その様は歴史に名を残すほどの絢爛豪華さだったと伝え聞く。
皇后は北のトリニシア皇国から輿入れしてきた皇家の姫君。
皇后は栗毛ではあるが、建国の皇王は銀髪だったそうだ。
皇太子はその外見から色濃く北の大国の血を受け継いるのは明らかだった。
婚家の後ろ楯を欲するにあたり、その見目によりトリニシアの支持を得ることができるだろうと跡継ぎに据えたのではないかと噂されるほど今の公国には財力がない。
爵位を持つ令嬢を実質国に献上させるのも、ある意味謀反を許さない人質的な意味合いもある。
ここ数年で争いも減り出征していた皇太子が戻ったのを機に、皇太子のお妃選びの話題が上がるようになった。
他国の姫を輿入れさせれるだけの財力はないだろうから、次の妃はもっぱら国内から選ばれるのではと言われている。
侍女の中でもその噂で持ちきりだ。
いかに皇太子に近づけるか、その話題はナルメルアの耳にも入ってきた。
ナルメルアに限らず、皇太子の姿を王宮で見かけることはそれだけ貴重なことらしい。
銀髪と珍しい容姿をしているなら目立とうものだろうに。
見かけた侍女は公務で王都へ出向く皇太子を見送るしかできなかったとぼやいていた。
侍女として与えられた藍染の仕事着から、簡素な染めもされてない生成りの夜着に着替えたナルメルアはランプに布を被せて部屋から抜け出した。
書庫はナルメルアの部屋から廊下を進んだ先の階段を上った先にある。
棟の外には見張りの兵が交代で終始立っているが、この棟には今はナルメルアしかいない。
書庫の中には貴重な書物だってあるだろうに、この宝に割かれる兵はいないということだ。
ナルメルアには都合がよいことこの上ない。
毎夜消灯の鐘の音を合図にナルメルアは書庫に足を運んでいる。
書庫の鍵は使われていないだろう棚の奥から予備を見つけ失敬もといお借りした。
書庫の蔵書も老史書が把握できよう数でもないため、借りたとして分からないだろうが持ち出さないようにしている。
もし部屋を訪れたルシエールや他の侍女だったりにその本を見られでもしたら、要らぬ盗人疑いをかけられないとも限らないからだ。
書庫は保管庫として陽の光が入らないようになっており、それは外からも書庫内の光が洩れないようになっているということ。
こんな城の外れの棟の上の書庫に夜分に足を運ぶ物好きはいないだろう。
ナルメルアは心置きなく読書にふけることができた。
禁書棚の鍵は老史書官が持っているため見ることは叶わないが、この国の系譜や諸外国についてなど国立図書館では拝見できないような詳しい文献がここにはある。
反面、一般の子女が好む恋愛小説などは全くない。
ナルメルアの目的は貴重な蔵書でこの国のことを学ぶためで、ただ読書を楽しむためなどとは思っていない。
シュトレッセン伯爵家の蔵書庫へも旅立つその前夜まで通ったものだ。
幼少期のナルメルアにはこの自分が暮らす土地のことを、何一つ教わる機会をもたらされなかった。
ただ無知な自分を恥じ、そんな自分では望めない未来を変えたくて必死で見つけたのが書庫だった。
シュトレッセン伯爵家は政権争いこそ避けてはきたが、その蔵書からは統治者として足るに必要以上の多岐に渡る知識が詰め込まれていた。
シュトレッセン伯爵はただ領地に引きこもる辺境領主と称するには余りある有識者だった。
ナルメルアが望めば何でも教えてくれ、その知識は書庫の書物のどれほどを覚えているのかと驚愕するばかりだ。
シュトレッセン伯爵が政治に関われば、この国さえ動かせるのではないだろうか。
つくづく陛下は人を見る目がないのだとナルメルアには思わされる。
リーデン皇太子がいったいどれほど政治に長けているのか、ナルメルアには皇太子の容姿や人柄などよりそちらの方が気になった。
ウォルフ殿下の社交的な性格は外交には向いていても、またその人気は治世とは関係ないこと。
願わくばその手腕がどれほどのものか、この目で見てみたいものだとナルメルアはまだ見ぬ主を思う。