一夜の戯れ
領主の館には東と西に領主の部屋が設けられている。東はカイザルの、西はリーデンの部屋がある。
カイザルは屋敷に住んでいるので部屋に人の行き来がある。
しかし王城に自室があるリーデンの部屋は実際使っているのを見たことがない。
侍女が掃除に入る様子もないため、言われるまでリーデンに自室があるのも忘れていた。
東西を分ける回廊を抜けて階段を上った先、重厚な扉を軽く叩く。
「殿下、ナルメルアです」
声をかけるも返事がない。
しばらく考えて、ドアノブを回す。
鍵はかかっていない。
壁にかけられたランプの灯りがうっすら部屋を照らす。
窓から差し込む月明かりが足元を照らした。
自室と聞いていたが、ベッドは見当たらない。
机と椅子、ローテーブルを囲うように置かれたソファーセット、壁に誂えられた棚に本が並ぶ。
リーデンはソファーに横になっていた。
ランプの灯りは閉じた瞼に影を作り、それは深く疲れを感じさせた。
ナルメルアは部屋を見渡すと、壁にかけられた上着を手にリーデンが横たわるソファーに近づき、静かに体にかけた。
その時、ソファーからリーデンの片手がずり落ちた。
その手を体に戻すと服の裾から腕輪が覗いた。
薄紫色の魔鉱石に引き寄せられるように知らず手が延びていた。
金属には細工のような模様が刻まれていた。
暗くて読めないが、細かい文字が飾りのように入れられている。
装飾のような字を指先でそっとなぞり、石に触れた。
石に触れた瞬間、電流が体を伝って流れ込んできた。
次に襲ってきたのは流れ込んだ電流が一気に体から指先を伝って流れ出ていく感覚。
電流は体のエネルギーをからめとって出ていく、一瞬で血の気がひいて目眩に襲われる。
触れた指先、魔鉱石がまるで心臓のように脈打つ。
立っておれずに膝を付いたナルメルアの腕を眠っていたはずのリーデンが掴んだ。
「亡霊はお前か」
青い瞳がナルメルアを捉えた。
「殿下!?」
手を引くも強い力で引き留められる。
「ここで何をしている?」
「申し訳ありません。お返事がないので具合が悪くなっておられるのではと無断で入室致しました」
鼓動が早まるのは恐怖からか、握られた手首が熱い。
「用件はなんだ」
「助けて頂いたことにお礼もまだでしたので」
リーデンはナルメルアの顔をまじまじと見つめ、ナルメルアが先にその視線から目をそらした。
「くだらん」
「え?」
一旦は反らした視線をリーデンに戻すと、リーデンは体を起こしソファーの背に体を預けていた。
気だるげに髪をかき上げると、片膝にその手を乗せる。
「夜這いとか言い訳もできんとはな」
「よ、夜這いだなんてっ」
耳まで真っ赤に染めたナルメルアは思いっきり首を振った。
その勢いで髪を括っていた紐がほどける。
ふありと広がった赤い髪がランプの灯りを受けて燃えるような鮮やかな朱色に染まる。
リーデンはその様に目を囚われた。
自分の価値が分かっている女の色仕掛けより、意識していない色香がナルメルアにはあった。
「殿下?」
気づいた時には、その髪を絡めとるように手の平でナルメルアの頭を抱き寄せていた。
ナルメルアの瞳が見開かれるのを、蒼い瞳が捉えていた。
驚き開いた口に噛みつくように口づけていた。
逃れようとする唇を食み、リーデンの熱い舌はその奥まで蹂躙する。
漏れる吐息まで食らおうとする激しさに、ナルメルアは息も吸えず失神寸前でリーデンの肩を押した。
「い、息っ」
肩で息をするナルメルアは苦しさで潤んだ瞳をリーデンに向けた。
ナルメルアを抱え込んだリーデンの瞳は獣のように獲物を狙って鋭く射る。
リーデンはソファーにナルメルアを押し倒すと首に噛みつく。
荒々しいのに痛みは感じない。
それどころか沸き上がる熱に浮かされ、押し返すはずの手でリーデンの腕を掴んでいた。
腰に回された手がリーデンとナルメルアの境を埋めて、まるで元から一つの塊だったような充実感に満たされる。
頭の片隅に冷静な自分がいて、どうして嫌でないのか、初めてのことなのに恐怖を感じないのはなぜか。
しかし、その問い掛け以上の心地よさがナルメルアを包み込んだ。
「殿下」
口にしたのは拒否でも恐怖でもない、甘い吐息だった。
ナルメルアが目覚めたのは闇夜を朝日が押し退けようとし始めた頃。
滑らかな上質な寝具と暖かな温もりに微睡み、頭がはっきり目覚めを意識するまで随分かかったように思う。
猫が肌触りの良い寝具に頬をすり付けるように夢見心地で頬をで温もりに酔いしれていると、それが布とは違って温もりと穏やかに上下を繰り返しているのに気がついた。
起こさないようにそっと上体を上げ、ゆっくりと辺りを見回す。
まさかと思いながらも記憶の一番最後にある人物が横たわっている。
さきほどまで頬擦りしていたのは、はだけたローブからのぞく胸板だろう。
そして次に目に入ったのは一糸纏わぬ我が身。
声にならない悲鳴をあげる。
ひとしきり落ち着くのに時間を経て、冷静に状況を確かめていく。
胸元や足の付け根にまで花びらを散らしたように赤い跡が残っている。
それに頬を赤らめつつ、体の異変に意識を向ける。
(痛みなどは特にない。あれは痛みを伴うと聞くけど……)
ベッドから身を起こして部屋を見渡す。
リーデンの自室にはベッドがなかった。
ここは幾つかある客室の一つだろう。
それなら寝具の置き場も検討がつく。
ベッドの横に誂えられたクローゼットの中に掛けられたローブを羽織る。
ナルメルアが着ていた服は部屋の中には見当たらなかった。
部屋から出ていくことも考えたが、もしローブ姿で侍女に見られたら、それがカイザルやハーシェル夫人だったら恥ずかしいだけでは済まされない。
それにとベッドの上で眠り続けるリーデンに歩み寄る。
はだけたローブを整え、上掛けをかけて横に座る。
よほど疲れていたのか深い寝息は規則正しい。
一刻ほど待っているとリーデンがようやく目を覚ました。
「なんてざまだ」
まるで病人を看病しているように座っているナルメルアを見て呆れた表情を浮かべた。
さっとベッドから降りると客室に誂えられた浴室に歩いていく。
「お前もこい」
「え!いえっ、わたくしは結構っ…」
断りを待つことなく扉を開けたまま浴室のシャワーを流しだした。
湯気が部屋に入ってくるので扉を閉めるために立ち上がり扉の前まで歩いていった。
扉に伸ばした手を湯気から伸びてきた手が捕まえ浴室に引き込む。
「殿下!?」
ローブの腰ひもをほどくとシャワーの下にナルメルアを抱え入れる。
浴槽にシャボンを入れると、そのままナルメルアを投げ入れた。
「殿下!!」
泡まみれのナルメルアの横にリーデンが入る。
浴槽は二人が浸かっても充分な広さがある。
リーデンは静かに湯に浸かっている。
ナルメルアは身を縮めて端の方に浸かっていた。
「昨日は」
ナルメルアの小さな声は思った以上に浴室に響いた。
「あの……」
湯中りを起こしそうなくらい頭の先まで熱が上がる。
リーデンは冷めた瞳でナルメルアを眺めていた。
「なにを恥じらう。全て見せておきながら」
足でナルメルアの足をつつく。
無表情に見えて、ナルメルアをからかって楽しんでいるようだった。
「恥ずかしいに決まっています!」
ナルメルアは肌を見せ合う仲どころか、誰かと口づけをしたこともない。
「それで妃になりたいなどとよく言ったものだ」
浴槽の縁に頬杖をつきナルメルアを眺める。
ナルメルアは言葉もなくリーデンを見返した。
なぜ知ってるの?と瞳は素直に問い掛けていた。
「あれと俺が兄弟なのは知ってるのだろう?あれから聞いたと言えば分かるだろう」
ウォルフが第二皇子だと知る前に書庫で話したことを指しているのだろう。
どう話を聞いていたのだろうか。
妃の座を狙おうとしている侍女がいるからと安直に名指しされたのだろうか。
ナルメルアは胸が締め付けられそうな痛みを覚えた。
「ウォルフ殿下はなんとおっしゃっていたのですか」
リーデンは「さあな」と吐き捨てるように言い湯船から出た。
タオルをナルメルアの顔に投げると、
「その度胸は本物か?」
リーデンは体を拭くことなくローブを羽織った。
そしてその足で部屋からも出ていってしまった。
ナルメルアがリーデンの言葉の意味を理解するのに時間は掛からなかった。
部屋に残されたナルメルアがこの後どうすればいいか悩んでいると、リーデンと入れ替わりに部屋を訪れたのはハーシェル夫人だった。
叱責を覚悟で腰を折ったナルメルアに、ハーシェル夫人は無表情で挨拶をした。
「お目覚めよろしいようでナルメリア様。着替えはこちらでご用意させて頂きました」
眉一つ動かさないハーシェル夫人の顔から感情を察するには、ナルメルアはハーシェル夫人を知らない。
しかし、ハーシェル夫人がはっきり物を申す人物なのは理解していた。
だから恥を偲んで尋ねた。
「その着替えは殿下が用意をお命じに?」
つい先ほどまで一緒で、いつ用意を?
その疑問にハーシェル夫人は首を振る。
「昨夜床を一緒にされると殿下からお聞きし、こちらでご用意させて頂いておりました」
正直は美点とされるが、率直な言葉は毒となるようだ。
それに当てられたようにナルメルアは目眩を覚えた。
「それはハーシェル夫人に黙っているようにと口止めをされたのではないのですか?」
ナルメルアがただの侍女なら戯れで済む。
しかし伯爵令嬢という立場上、婚姻前に床を一緒になどと醜態もいいところ。
だから口止めをしたのだろうと。
しかし、それは大きな誤りだった。
伯爵令嬢と一国の皇太子、どちらが立場が上か考えれば守るべきか。
ナルメルアが既婚者であれば口止めもあり得ただろうが、婚約者もいない令嬢となれば口止めではなかった。
「殿下からはシュトレッセン伯爵へも連絡を入れるように賜りました」
「連絡とは…?」
恐る恐る聞き返したナルメルアにハーシェル夫人は躊躇いなくはっきり答えた。
「婚約者として申し込むという連絡です」
ナルメルアはローブ姿で膝を折り床に座り込んだ。
腰が抜けた。
「そんな……、いきなり婚約を?」
呟くナルメルアに膝を折って視線を合わせたハーシェル夫人がはっきり告げる。
「殿下は令嬢をお泊めするのに遊びだったなどと仰る方ではございません。付け加えるなら、それで傷がつくのは殿下ではなくご令嬢の名です」
皇太子に一夜限りで遊ばれたなどと浮き名を流すより、皇太子の婚約者として一夜を過ごしたでは確かにどちらが良いかといえばそう。
そうなのだが、あまりにも突然のことに気持ちが追い付かない。