解放
ナルメルアの目には目隠し、馬車の窓にはカーテン、場所が特定されないようかぐるぐると砂利道を馬車に揺られていた。
馬車の中には仮面の従者がナルメルアと同乗していた。
「このような扱いお許し下さい」
ナルメルアの向かいに座った男は、主と違って気遣いのできる人物のようだ。
人質として接するには丁寧すぎる扱いに、貴族に支える従者以外の感情があるように思えた。
「あなたはレイスに縁がおありでしょう?」
不快な馬車の揺れに何度も壁に肩を打ち付けそうになるのを、従者はその都度手で肩を支えた。
従者は言葉に詰まりながらも頷く。
「父は……、王宮に仕える身でした」
従者はポツリポツリと身の上を話し出した。
戦乱で父親を亡くし家は焼かれ、その戦火で母も亡くしたという。
「あなはわたくしを憎くは思わないのですか」
ナルメルアはずっと胸に秘めていた疑問を口にした。
「レイスの王族でありながら、レイスにしてみれば敵国同然のエステリニアの貴族として不自由なく暮らしているわたくしが……」
ナルメルアは静かに問う。
「……許せるのですか?」
従者はしばらく黙り、思案する様子にナルメルアはじっと待った。
「あなたが生きていることがレイスの民にとって希望なのです」
個人的な答えを避けた従者にナルメルアは尚も問いかけた。
「レイスの裏切り者ではなくて?」
従者が小さなため息を吐いたように空気が震えた。
「裏切るもなにも赤子のあなたに選択権はなかった」
ナルメルアはどうしてもレイスの民である従者から、正直な気持ちが聞きたかった。
「それではわたくしが宮廷侍女になったから利用価値ができた。レイスの王族として生まれたからには協力するはずだと思ったから?」
従者はナルメルアの責める口調にも穏やかに答えた。
「そうであって欲しいという願いはありました。赤子のあなたがレイスのことを覚えているとは思えませんが、シュトレッセンには同胞も多くいる。もしレイスのことを耳にして、誰かしらの口から出生を知ってくださっているならば、力を貸して頂けるのではと一縷の望みを抱きました。それが利用したと責められようとも、甘んじて受けいられるくらい我らは貴女を欲していた」
ナルメルアは目隠しの下の眉をきつく結んだ。
ナルメルアがシュトレッセンで暮らした中で、レイスから移民してきた民は一度としてそのような話をしてきたことがなかった。
領内にはレイスの民ではなく、シュトレッセンの領民しか居なかった。
敵を打って欲しいと言いたい者もいただろうに。
「もしわたくしが協力しないと断っていたら、口封じに消されてたかしら」
従者の男が身構える気配に空気が凍りつく。
「軽はずみなことは口にされませんように。もし断るのであれば、その身を王都へお返しすることはできません。途中で気が変わった、怖くなって逃げだすようでも同じです」
だから口にするな、そう言葉の裏で言われているようだった。
ナルメルアは目の奥が焼けつくように痛んだ。
それは怒りなのか哀しみなのか分からない。
「わたくしはレイスを裏切れない」
「ならば身の安全はお約束致します」
ナルメルアは王都近郊にある街で馬車から下ろされた。
「連絡はこちらから致しますのでお待ち下さい」
そう耳元でささやくと馬車の扉は閉まった。
急いで目隠しを取って馬車を振り返ったが、案の定どこにでもある馬車で目印になるような物はなかった。
ナルメルアは辻馬車を止めると王城まで馬車で戻ってきた。
そして何事もなかったように戻ってきた。
無断で城を空けた件でナザレ侍女長からお叱りを受けたのは想定内だが、ルシエールに泣きつかれたのは予想外に堪えた。
自室にて謹慎を言い渡され、住み慣れた西の外れの棟へ足を向けた。
すれ違う兵や侍女に声をかけられ、その度にここが自分の居場所なのだと気づかされた。
家族とは無縁の暮らしの中で築き上げてきた関係、その繋がりを感じた。
扉に手をかけ違和感に身を強ばらせた。
鍵が開いている。
無断で外泊したのだから、留守の間に誰かが扉を開けても仕方がない。
息をゆっくり吐きノブを回した。
扉の隙間から灯りがもれ、それと共に温かな空気がナルメルアの頬に当たった。
ナルメルアの部屋は日が当たらないため、いつも底冷えする寒さだった。
しかし扉の向こうは温かかった。
その理由は足元に置かれた炭鉢に入れられた赤く色づいた炭だった。
ナルメルアは部屋を見渡し、それを置いたであろう人物を探した。
「イリス!?」
呼ばれた人物は扉の前のナルメルアに駆け寄ると優しく微笑んだ。
「あまり心配させないで下さい」
懐かしい、陽だまりのように温かいイリスの胸に顔を埋めると涙が溢れだした。
「無事で何よりです」
ぎゅうっと力強く抱きしめられ、ナルメルアは緊張の糸が切れ足から崩れた。
目覚めた時は窓の外に闇が広がっていた。
つい数日前までは物置部屋に必要最低限の家具しかなかったのが、イリスによって調度品や不要な家具は片付けられ空いたスペースに簡素なマットが敷かれていた。
「気分は如何です?」
小さなランプを手にイリスがナルメルアの顔を覗きこむ。
「イリス、あれで寝るつもり?」
マットを指差すと、イリスは苦笑してナルメルアの指をおろした。
「相変わらず大事なことは後回しですね。明日にでも空き部屋を使えるように用意して下さるそうなので、お気になさらず」
イリスはポケットから折り畳まれた紙を取り出すと開いてナルメルアの目の前に差し出した。
「さぁ説明して下さい」
紙はナルメルアが書いたものだ。
『心配した様子を取らずに待つこと、3日以上経っても戻らなければ、シュトレッセン領に戻ったことにして荷物を片付けて引き上げるように手筈を整えるように』
これを書いた時は生きて戻れるか、むしろ戻るという選択肢が果たしてあるのか分からなかった。
「これでは戻らなくとも騒ぎを起こすな探すなと言ってるようなものです」
イリスの眼差しは侍女のそれではなく、家族に向けるものでナルメルアを咎めるものだった。
「探すなとまでは…お父様なら上手く動いて下さるから騒いだりしない方がいいと思って…」
父であるシュトレッセン伯爵は、良くも悪くも他の貴族と手を取り合うということはしない。だから娘が巻き込まれた事件であっても身内だけで手を打つはず。
「だとしてもですよ!」
イリスもそんなことは分かっている。
伯爵がどうするかではないのだ。
イリスにすれば妹同然のナルメルアが助けの手を求めて出した手紙でなかったのがやるせなかった。
「それでどこの何者があなたを連れ去ったわけです?」
イリスはナルメルアの横に膝をついて声を潜めて尋ねた。
「誰かとまでは断定はできてない」
ナルメルアは壁に写し出された影に目を向けた。
灯りに照らされ揺らめく影に手を伸ばす。
「レイスの反乱兵と反皇太子派の貴族が手を組んでいるのだろうってことぐらいしか。貴族に関してはどこぞの成り上がりの可能性は高いのだけれども」
ナルメルアの脳裏に礼儀のなっていない館の主が浮かぶ。
「成り上がり貴族?」
「屋敷の内装はあまり年数を感じさせなかった。壁紙だけなら張り替えも考えられるけど、床板や扉まで新しいなら建てられて日の浅い館。そして首謀者らしき館の主は貴族の礼儀に欠ける人物だった。貴族の子息とも考えられないわけではないけれど、少なくとも貴族を親に持つ身としたら誘拐はリスクが高すぎる」
ナルメリアは体を起こすと膝を抱えた。
「親が立場がある身で伯爵令嬢の誘拐はまず選ばない。そんな危ない橋をぬるま湯生活の貴族の子息が渡ろうとは普通考えない。むしろ伯爵家など意識もしたことがない新参の貴族や商家なら、得られる利益に目が霞んで犯罪に手を染めたとしておかしくはない」
膝に視線を落とし呟くナルメルアにイリスが優しく声をかける。
「それでどうなさるおつもりで」
イリスの顔にはナルメルアを案じる不安げな感情がうつされていた。
「反皇太子派の貴族について調べてみるわ。イリスはお父様との連絡役になって貰えるかしら。危ないことはしないから…心配しないで」
イリスはナルメルアの言葉に苦笑する。
ナルメルアの心配しないでは、全然安心できる言葉ではない。
「くれぐれも無茶はしないで下さいね」
三日間の謹慎中、食事など身の回りの世話はイリスがしてくれたのもあり不満は全くなかった
。
「あっちで監禁、こっちで謹慎…部屋に閉じ込められてばかりね」
自嘲するしかなかった。
貴族の令嬢が務める宮廷侍女、自室謹慎など処罰とは到底言えない。
建前上の形だけの罰でしかない。
どこで何をしていただの詰問されることもないのだから。
これでは休日と変わらない。
ナルメルアは机に広げられた本を眺めていた。
『貴族名簿』は貴族であれば書庫の元本を写本するのも許されるほど一般的に公開された名簿。
ただ爵位と当主の名前、あれば領地が記載されているだけで他の情報はない。
貴族の嗜みとも言える社交界において、貴族同士の繋がりは地位にまで影響するほど大きなもの。
そこで重要なのが情報。
どことどこが親しく、派閥がおなじなのかなどは名簿からはわからない。
仮説の域を出ないけれど、ここ数年で新しく爵位を拝命した貴族に当たりをつけたとして手元の情報だけでは少なすぎる。
「やっぱり情報収集は必要か…」
「ウォルフ殿下擁立派~?」
「ルシェっ、声が大きい!」
食後のお茶を吹き出しそうになりながら、ルシエールはナルメルアの顔に近づき、改めて声を潜めた。
「あなたこそ、どうしたわけ?そういうデリケートな話題を朝食の席でするなんてっ」
ナルメルアは食事の手を止めてルシエールと向き合う。
「建国祭に父が出席するのだけれど、長らく社交の場から離れてたから、派閥があるなら聞いておきたいなと思ったの。これからは社交界にも顔を出していくのにも一応知っておく方がいいだろうから」
ルシエールは腕を組み、ナルメルアをまじまじ眺め、
「うーん。本来こういった話題って朝食どころか貴族令嬢がしていい話題でもないとは先に言っとくわよ」
もしルシエールとナルメルアが政治的に争う関係や相手の弱みを握ろうとした場合なら、この話題一つが反逆と見なされかねない。
しかしルシエールはナルメルアがウォルフと噂になったことで、貴族同士の勢力争いに巻き込まれることを案じた。
「ルシェに迷惑がかかるようなことは誓ってしないわ」
ルシエールは口元に手を当て笑った。
「ナルメルアって鈍いのか聡いのか分からないわね」
ルシエールはナルメルアを人気のないテラスへ連れてきた。
食堂の賑やかな空間が、ガラス1枚隔てるだけで静寂が広がっていた。
「ウォルフ殿下擁立派ね…」
ルシエールは手すりに背をあずけ食堂を眺めながら口を開いた。
「そもそもリーデン皇太子とウォルフ殿下が対立関係でもないのに、どちら派などと口にしていいわけはないのよ」
食堂にいるのは貴族の令嬢がほとんどだ。
その令嬢たちも貴族階級ごとにグループができている。
「私はリリアナ様と親しいのもあって、レイドリッヒ公爵家への足掛けに近づく者が結構あるのよね」
ハミルトン子爵家は貴族の階級では、高くて近づき難いわけでも低くて相手にされないわけでもない中間層にいる。
「ハミルトン家はリーデン皇太子派って周りからは位置付けられているのかしらね」
「違うの?」
ナルメルアはルシエールの横顔にたずねた。
「私はリーデン皇太子と直接お話しする機会がなかったし、リリアナ様と一緒に会ったことがあるウォルフ殿下の方がどちらかと言えば近く感じるわ。でも周りはそんなことより家の立ち位置だけで判断する。そっちが手っ取り早いのよ」
ルシエールは苦虫を潰したような、その表情には嫌悪感を滲ませていた。
「だから本音の部分は実際話さないと分からないわ。甲斐甲斐しく懐に収まっている人間が必ずしも味方とは限らない。だから社交界が必要なのよ。人を見る目、会話や仕草から相手が何を考えて、行動からどういう意図で動いたかを観察する。うちみたいな中流貴族は上の顔を伺いつつ、下の顔に広くなければ、上から打たれたり下から追い落とされたりするからね。そういうのには敏感じゃないといけないって子どもの頃から教えられてきたわけ」
ナルメルアは社交界なんて無駄なことだと、ある意味馬鹿にさえしてきたことを恥じた。
貴族は民のために在るべきで贅沢は控えるべきだと思ってきた。
それは民が望む貴族の姿なのだろう。
貴族が貴族として存在するには人脈が切り離せない。
華やかな社交界の裏では、人と人との醜くも生き抜くための闘いがあるのだろう。
今ならそれが少し分かる。
「表面上では皇太子に牙を剥こうなどという貴族はいないわ。要は皇太子が信頼を置く貴族と対立もしくは拮抗する貴族は皇太子よりウォルフ殿下に気に入られようとはするでしょうね。
皇太子が国を継いだ後はウォルフ殿下が王位継承一位になるのだから、どちらにしろウォルフ殿下に覚えが厚ければ得だもの」
つまりウォルフ殿下に近づく貴族を観察してみれば、あの館の主にたどり着く可能性があるということか。
「夜会に出るしかないか…」
つい口をついで出た言葉にルシエールが目を見張る。
「ウォルフ殿下とは特別な関係じゃないって言ってたわりには、派閥とか気になってるみたいじゃないの」
場馴れした令嬢ならまだしも、社交界デビューしたばかりで第二王子と噂になるとはよほどのこと。
ルシエールはナルメルアとウォルフの間に何もなかったとは信じられなかった。
茶化した言葉の裏でナルメリアが心配だった。
「わたしがウォルフ殿下より皇太子に興味があるって言ったらルシェは軽蔑する?」
ルシエールの笑みが固まる。
「え?皇太子?」
ルシエールは困惑混じりにナルメリアを見つめ数秒考えて口を開く。
「その意図にもよるかしら」
ナルメルアの真剣な瞳にルシエールもこれ以上茶化したりはしなかった。
「わたしはどうしても皇太子に会いたいし、できればその横に立てる立場が欲しい」
ルシエールの顔から完全に笑みが消えた。
「それって皇太子妃になりたいってこと?」
頷いたナルメルアにルシエールは大きなため息を吐く。
「皇太子に会ったことなんてないだろうから、恋とかではないわよね」
ナルメルアは再び頷く。
「打算的、私利私欲からだと言ったら軽蔑しないわけない…… よね?」
ナルメルアの顔は怯えから強張る。
ルシエールはその顔に苦笑して答えた。
「あなたがそんな器用な人間ではないのは知ってるつもりよ」
ナルメルアはルシエールの感情を汲み取ろうと必死で見つめ続けた。
「ルシェに嘘をついたりはしない。それは約束する」
「そうね、だったら訊ねるけど……、その私利私欲はお金とかとは別なんでしょう?妃になって何をしたいの?」
ナルメルアの視線が揺れる。
レイスのことは言えない、嘘もつきたくない。
「国を変えたいの」
苦渋の言葉にナルメルアの顔は泣きそうなくらい歪められた。
「今の内乱を妃として止めれる、皇太子を諌められる立場が欲しいの」
ルシエールもまた眉をよせてナルメルアを見つめていた。
「それは国民も望む願いだとは思うわ…… でも」
一瞬の沈黙、ルシエールは言い淀みながらも告げた。
「皇太子の隣に立つのに、皇太子の考えやお気持ちは置き去りでいいのかしら」
ルシエールはリリアナを思い浮かべていた。
皇太子の隣にと切望される立場の彼女、彼女のことを考えて。
「恋でなければならないとは言わないし、そんなこと一国の王になる人が求めてるとは思わないけど、伴侶になる人に自分がしてきたことを否定されることを皇太子が望むかしら。共に国を収めていくのならば想いを重ねたいってならない?」
リリアナは皇太子の理解者であろうとしていた。ルシエールが知らない瞳でリリアナは皇太子を見ていた。
「皇太子はどんな人か、まずは知るべきじゃない?」
ルシエールもまた皇太子がどういう人が知りたいと思った。
リリアナが向ける瞳のわけを。
ナルメルアはただ項垂れるようにルシエールの言葉を聞いていた。