亡国
記憶の一番奥底にある思い出は、頬をなぜる乾いた風の感触。
砂を巻き上げ、黄色く煙る風がナルメルアの最初の記憶。
燃えるような赤髪、柔らかい温もりは、顔さえ覚えていない母の思い出。
喧騒が子守唄、乳の匂いより血の匂いの方が鼻に残った。
ナルメルアが物心つく頃には両親はいなかった。
逃げるように住まいを移し、入れ替わり立ち替わり住む人が変わった。
シュトレッセン領に連れられて来た時に一緒に連れられてきたのがイリスだった。
身を寄せ合うようにして訪れたのは、シュトレッセン領にある施設だった。
内乱の傷跡は僻地のシュトレッセン領にまで余波を残していた。
それが孤児である。
廃れた教会を先代のシュトレッセン伯爵が孤児院として整えさせたものだった。
院長はみなに平等に愛情を以て手をさしのべ、それは異国から流れ着いたナルメルアとイリスにも同じであった。
血の匂いとも肌を差す砂の嵐とも、また剣の交じる喧騒とも無縁の、自然が豊かで穏やかな領民と静かな暮らしがそこにはあった。
ナルメルアやイリスのように親を失った孤児はシュトレッセン領では偏見の目に晒されたり、差別を受けることもなかった。
幼いナルメルアでさえ感じたのだから、少女から女性へと変わる年頃のイリスはもっとその変化を感じたことだろう。
連れられて来た頃は、イリスは片時もナルメルアから離れず野生の生き物のように気をはっていた。
一年経つ頃には自然な笑みが浮かぶようになり、ナルメルアはその変化こそ喜ばしかった。
文字の読み書きも孤児院で教わった。
村の人が代わる代わる手伝いに入り、ナルメルアたちの世話をしてくれた。
穏やかな暮らしの中にいながらもナルメルアの記憶から、故郷での思い出は消えることはなかった。
親代わりとしてナルメルアを育ててくれたのは武骨な武人の手だった。
ナルメルアを孤児院に預ける時にナルメルアに言い聞かせるように言った言葉。
『必ず迎えにくるから』
その言葉がナルメルアの支えであり、縛り付ける言葉になろうとは思ってもいなかった。
嵐の夜は、故郷の砂嵐を思い出した。
男は幼いナルメルアを麻布で作られた毛布に包むと、寝物語のようにナルメルアの父と母の話をした。
砂と嵐の国、レイスの話を。
レイスは貧しくも慎ましやかな小国だった。
砂漠に囲まれ、作物は満足に育たず、不毛の地と呼ばれ国交も盛んではなかった。
民は信仰心が深く、それは国主に向けてもそうだった。
そんなレイスが変わるきっかけは、土地からとれる鉱物に含まれる石だった。
それは魔鉱石と呼ばれ、今となっては失われた魔力が秘められていた。
その魔鉱石は神殿が管理し、国外への持ち出しは固く禁じられていた。
しかしレイスの魔鉱石を得ようとする近隣諸国とのいさかいが、ついには国をも揺るがす大きな争いへと変わる頃、レイスの後ろ楯に手を上げた大国が現れた。
これまで自国で細々と食いつないでいたレイスに外交的な手腕はなく、相手に都合よく結ばれた条約は一方的に反古され、レイスはエステリニア公国にさながら売り渡されることになった。
一部の人間の裏切りで国が滅んだ、ナルメルアはそう聞いた。
争いの最中、国の安寧と代次を求め信仰する神を同じくする小国より迎えられた王妃は、若く幼さを残していた。
正式な婚礼の儀式を行うことなく、その王妃は人知れず子を産み落とした。
その子を守るため多くのレイスの民が亡くなった。
国王は嫡子の出生を待たずに亡くなっており、王妃も行方知れず。
「お母上はあなたと瓜二つ、あなたはレイスの希望なのです」
言葉も拙い頃に聞かされた話をナルメルアは忘れることはなかった。
レイスの国王であった父と王妃の母、その二人がナルメルアの両親だった。
シュトレッセン領で同じ季節を2つ越えた頃、イリスがシュトレッセン領主である伯爵家の侍女として孤児院を出て行くことが決まった。
これまでもそういった話はあった。
しかし好条件であれどもイリスは首を縦に振らなかった。
孤児院を慰問したシュトレッセン伯爵から直接声を掛けて貰い、ナルメルアと一緒に伯爵家に迎えられることになった。
ナルメルアも侍女見習いとして。
カツカツと廊下を一定のリズムを刻みながら兵が行き来する音を、ナルメルアは眠るともなしに聞いていた。
監禁というには扱いは賓客同然。
横たわるベッドはナルメルアが普段使っている寝具より高級な物だし、部屋には高価な調度品が品よく飾られている。
しかし窓には板が打ち付けてあり、外の景色はおろか昼夜の区別さえ得られないようになっていた。
部屋の扉の向こうは見張りの兵が交代で絶え間なく立っている。
ナルメルアが声を掛ければ丁寧な対応が返ってくる。
兵は雇われている私兵にしては教育が行き渡っているように感じられた。
寄せ集めではないのだろうか。
門から出たところまでは覚えているが、その後の記憶があやふやで気づいたら部屋のベッドに横たわっていた。
部屋の誂えから、ある程度裕福な人物の屋敷なのは窺えた。
しかも床板や壁紙は年数があまり経っていないのを見ると、歴史ある屋敷ではなさそうだ。
ナルメルアは体を起こすと、膝を抱えた。
食事を届けにきた者に、手紙を頼んだが届けて貰えただろうか。
手紙の内容を確認した者は複雑な表情を浮かべていた。
それはそうだろう。
無理やり連れてこられたナルメルアが助けを求めるどころか、心配しないように伝える手紙を渡したのだから。
「用件は何かしら。無為に時間は取りたくないのだけれど」
そう苦言は付け足した。
相手がナルメルアの出方を探っているのかは分からないが、少なくとも一晩閉じ込められるだけでもナルメルアには耐え難い苦痛なのだ。
誰が、何の目的で、何をするのか。
冷静な頭で対処しなければと、平静を装っていても、恐怖に足元を掬われそうになる。
助けてと口にしたくなるのを、早くしてと捲し立てることで堪えていた。
ノックの音で扉を向いたナルメルアは開いた扉の先に仮面を被った人物が立っているのを確認するとベッドから立ち上がった。
「ようやくお話が聞けるようですわね」
仮面は貴族が舞踏会で付ける細工が施された物で、相手の表情も感じられない無機質な物だった。
「このような姿で失礼申し上げる」
仮面の男は丁寧に腰を折る。
「礼は結構よ。用件を伺おうではありませんか」
ナルメルアは震えそうな足に力を入れて、その怯えを悟られまいとわざと微笑んだ。
相手はナルメルアに探るような瞳をしたのは僅かで、着いてくるように促すとナルメルアを屋敷の広間に連れてきた。
大人数が座れる長い客卓、その先に腰をかけた人物もまた仮面を被っていた。
「このような不躾な真似をお取りして申し訳ない」
そう口にしたのが、この館の主だろう。
腰を上げずに不躾な挨拶をした主こそ貴族の臭いがした。
「このようなお招きを頂き感謝致しますわ」
ナルメリアの言葉に回りに立つ兵の空気が一瞬で張りつめた。
「豪気な方なようで、逆に安心しました」
仮面の下で籠った笑い声が響く。
「冗談はそのくらいにして、わたくしが招かれた理由をお聞かせ願います」
ナルメルアはシュトレッセン伯爵令嬢として威厳ある態度を崩せない。
貴族階級は見るからにナルメルアの方が上なのだ。
貴族の矜持は時に武力以上の力を誇示する。
「そう仰られるのであればお座り下さい」
横に立って微動だにしなかった案内役の男が、ここにきて口を開いた。
「我々は貴女に危害を加えたりは致しません。どうかお座りを」
そう言うと椅子を引き、頭を下げた。
「そうそう、座って話をしようではありませんか」
取って付けたような主にナルメルアの眉間にシワがよる。
ナルメルアは横に立つ男に向けて軽く頭を下げて了承を伝えて椅子に腰掛けた。
わたくしが座ったのはあなたの言葉からですと暗に伝えて。
男が仮面の下でふっと笑ったように感じた。
「さてさて、ナルメルアご令嬢は手紙の内容にどこまでご理解頂けましたかな?」
上から目線が鼻につく主に、ナルメルアの表情は固い。
「熱烈な恋文……、ではないことは理解しています」
「はははっ!恋文とは上手いこと言いますなぁ」
ナルメリアの答えのどこが可笑しいのか、むしろナルメリアの意図を汲み取れるだけの頭がないように思えた。
「流石は亡国の姫君だ!品があらせられる」
ナルメルアより先に周りの方が空気が読めている。
横の男が主の言葉に一瞬反応した。
「亡国の、ですか」
ナルメルアの重い口調に、ようやく失言に気づいたらしい。
「あ、いやぁ…、ご存知ですな?それともご存知ない?」
慌てた様子に今度はナルメルアが笑みを浮かべた。
「なにをご存知かと?はっきり仰いませ」
「そんな戯れを!レイスですよ、ご両親がレイスの国主なのはご存知なのでしょう」
横に立つ男の体がまた揺れた。
ナルメルアは視線の端でそれを捉えながらも、冷静に言葉を選んだ。
「わたくしがレイスの国主の娘とは、なにを根拠に仰るのでしょうか」
「それはレイスの者からでっ」
途中まで口にして慌てて咳払いをした主に、ナルメルアは畳み掛けるように言葉を重ねた。
「もし、わたくしにレイスの血が流れていたとして何なのでしょうか?謀反人だと脅しますか?噂話でわたくしを脅せるとでも?」
ナルメルアは一笑して相手を見下げる。
「わたくしがシュトレッセン伯爵家の後継者というのをお忘れなく」
男が慌てて取り繕う様に、この場にいた誰もがナルメルアがこの会話の主導権を握っているのを感じた。
「滅相もございません!」
仮面の下から汗が滴り落ちるのがナルメルアからもはっきり見えた。
この主はレイスの者ではないし、貴族としての教養も浅い。
「もしご令嬢がレイスのことを想うならば、我らと共に動いて頂けるはずだと聞いたからこそお声がけしたわけです。ご令嬢にも悪くないお話だと思ってのこと。いわば親切心ですよ」
「親切心?」
「そうですとも!聞くところによれば、ご令嬢はウォルフ殿下と親しいとか」
「ウォルフ殿下?」
「ええ、社交界で親しげな様子だったそうじゃありませんか」
仮面の下で下品な笑い声を立てて体を揺する。
ナルメルアは不愉快なそれに苛つきながらも会話の流れを遮らず我慢した。
「それが何なのです」
主は手を叩きながら、意気揚々と語りだした。
「実に目出度いことではありませんか!レイス叩きに躍起なリーデン皇太子より、穏健派なウォルフ殿下を選ぶとは流石です」
「…… 」
「これこそが、ご令嬢の本意と言わず何と申しますか」
「…… 」
「ですから我々もリーデン皇太子よりウォルフ殿下に次期王になって頂きたいと、そう申しているわけです」
ナルメルアが無言でも、すらすら言葉を並び立てる主は気づいていない。
それがどういうことかを。
「ご令嬢が宮廷侍女になられたのも、ご両親の復讐を晴らすためではございませんか!ならば我らと想いは一緒協力しようというわけではありませんか」
ナルメルアは身震いするほど、この主の言葉に怒りを感じた。
「わたくしにリーデン皇太子を殺せと仰りたいということですか」
震える声を怯えと勘違いした主の大きな声が響き渡る。
「ご安心下さいませ!ご令嬢に手を汚させたりは致しませんよ。なあに、少しばかり我々に協力して頂けたら望みは全て叶いますよ」
「望み?」
ナルメルアは向かい合うのも嫌でテーブルに視線を落とした。
「左様。リーデンを亡き者とし、レイスの復讐は果たされ、ウォルフ殿下とゆくゆくはご婚約。さすれば国母も夢ではございますまい」
下卑た笑い声が耳に煩わしい。
ナルメるアはゆっくり顔をあげると、今度は仮面の下の素顔まで見透かすほどに真っ直ぐ視線を向けた。
「分かりました。承知致しましょう」
揺るぎない炎がナルメルアの胸に宿った。
長らくお待たせ致しました。
誤字報告ありがとうございました。
修正より先に投稿させて頂きます。
誤字は改めて確認修正致します。