泉 鏡花「売色鴨南蛮」現代語勝手訳 九
九
宗吉が夜学から、御徒町のとある裏の、空瓶屋と襤褸屋の間の、貧しい下宿屋へ帰ってくると、摺違いに、引傾いだ濡縁づきの六畳から、男が一人出て行った。と、お千さんはぱっと障子を開けた。が、もう床は片づけられてある。……
枕頭の火鉢に、はかり炭を継いで、目の破れた金網を斜めに載せ、お千さんが懐紙であおぎながら豌豆餅を焼いてくれた。
そして、熱いのを口で吹いて、嬉しそうな様子の宗吉に、遊女浦里の話をした。
お千はそんな浦里よりも美しい。浄瑠璃『明烏夢泡雪』では、浦里は雪の庭で妓楼の主人に折檻される。今、ここにそんな雪はないけれど、ちらちらと散る花が雪に見立てられて、小庭の湿地の石炭殻につもる風情があり、そこにいるお千が可哀そうで、痛々しそうで、浦里と重なって見える。
舞台ではその時、浦里の愛人、時次郎が助けに現れるのだが、今、時次郎ではない頬被したのが、黒塀の外からスッと覗く。
白い脛を見せて、ハッと立ち、障子を閉めようとするお千のその目の前へ、トンと下りると、つかつかと縁側へ。
「あれ!」
「おい、気の毒だが一寸用事だ」
と、袖から蛇の首のように捕縄を覗かせた。
膝を萎えたように支きながら、お千は宗吉を背後に囲って、
「……この人は、……」
「いや、小僧には用はない、すぐおいで」
「宗ちゃん、……朝のご飯はね、煮豆が買って蓋物に、……紅生薑と、……紙の蔽がしてありますよ」
風俗係は草履を片手に、もう入口の襖を開けていた。
お千が穿物を捜すうちに、風俗係は内から、戸の錠を開けたが、軒を出るとひたりと腰縄を打った。
細い腰はふっと消えて、すぼめた肩が暗がりの柳に浮く。
……そのお千には、もう疾に羽織もなく、下着もなく、白い膚に着けているものと言えば、着古してよれよれになった縞の小袖のみであった。
宗吉は跣足で、めそめそ泣きながら後を追った。
目も心も真暗で、今いる町の名も、場所も分からない。颯と一条の冷たい風が、電燈の細い光に桜を誘った時である。
「旦那」
と、お千が立停まって、
「宗ちゃん――宗ちゃん」
振り向きもしないで、うなだれていたのが、気を感じて、眉を優しく振り向いた。
「……」
「姉さんが、魂をあげます」――ずっと歩行きながら折ったのである。……懐紙の白い折鶴が掌にあった。
「この飛ぶ処へ、すぐおいで」
ほっと吹く息、薄紅に折り鶴は劫って蒼白く、花片にふっと乗って、ひらひらと空を舞って行く。……これが落ちた大きな門で、お千の思いは裏切られず、宗吉は拾われたのであった。
電車が上り下りとも殆ど同時に来た。
宗吉は身動きもしなかった。
と、見ると、丸髷の女が、その緋縮緬の傍へ衝と寄って、いつの間にか肩からずり落ちて、裏を見せている効性のない羽織を上に引き上げてやりながら、
「さあ、来ましたよ」
「自動車ですか?」
と、目を睜ったまま、緋縮緬の女はきょろんとしていた。
つづく




