泉 鏡花「売色鴨南蛮」現代語勝手訳 八
八
「何をするんですよ、何をするんですよ、お前さん、串戯ではありません」
社殿の裏の空茶店の葦簀の中で、柱の一つとして使った片隅の大木の銀杏の幹に凭れ掛かって、アワヤ剃刀を咽喉に当てた時、すッと音がして、滝縞の袖で剃刀を抱いたお千さんの姿は……宗吉の目には、高い樹の梢から颯と下りた、美しい女の顔をした不思議な鳥のように映った……
剃刀をもぎ取られた後は、茫然として、殆ど夢心地である。
「まぁ! 可かった」
と、身を捻って、肩を抱きながら、社の方を片手拝みして、
「虫が知らせたんだわね。今、お前さんが台所で、剃刀を持っていくって声が聞こえたでしょう。ドキリとしたのよ。……泰さん泰さんと言ったけれど、もういないでしょう。何だかこんな間違いがありそうな気がしてならないって、私、私、でね、すぐに後から駈出したのさ。でも、何処って当てはないんだもの。鳥居前の彼処の床屋で訊いてみたの。まぁね。……まるでお見えなさらないと言うじゃあないの。しまった、と思ったわ。半分夢中でそれでも、私がここへ来たのは神仏のお助けです。泰さん、私が助けるんだと思っちゃあ不可い。可うござんすか、可いですか、貴方。……親御さんが影身に添っていなさるんですよ。可うござんすか、分かりましたか」
少児のように、宗吉を柔らかい胸へ、帯も扱帯きも丸ごとひったりと抱緊めて、
「御覧なさい、お月様が、ほら、あれ、仏様が」
忘れはしない、半輪の五日の月が黒雲を下りるように、荘厳な銀杏の枝に、梢さがりに掛かったのが、可懐しい亡き母の乳房の輪線の面影と重なった。
「まあ、これからと言う、……女にしたら蕾の今、どうして死のうなんてしたんですよ。――私に……私……ええ? それが私に恥ずかしくって?――」
その乳の震が胸に響く。
「何の塩煎餅の二枚くらい、貴方が掏摸でも構やしない――私はね、あの。……まあ、とにかく、内へ行きましょう。可い塩梅に誰もいないから」
そう促して、急いで脱ぎっ放しの駒下駄を捜す時、白脛に緋が散った。お千も慌ただしかったとみえて、宗吉の穿物までには気が回らず、可恐しい処を遁げるように、息急いて手を引いたのである。
魔を除け、死神を払う禁厭であろう、明神の御手洗の水を掬って、雫で宗吉の頭髪を濡らしたが、
「……息災、延命、息災延命、学問、学校、心願成就」
と、手よりも濡れた瞳を閉じて、頸白く、御堂を伏拝んで、
「一口召し上がれ、……気を静めて――私も」
と、柄杓を重たげに口にした。
「動悸を御覧なさいよ、私のをさ」
だが、その胸の轟きは、今より先に知っていたのである。
「泰さん、私は貴方を連れて、もうあそこへは戻らない。……身にも命にもかえてね、お手伝いをしますがね、……実はね、今、明神さまにおわびをして、貴方のお頭を濡らしたのは――実は、あの、一度内へ帰ってね。……この剃刀で貴方をそりたての今道心(*仏門に入ったばかりの者)にして、一所に寝ようと思ったのよ。――あのね、実はね、今夜あたり紀州のあの坊さんに、私が抱かれて、其処へ熊沢だの甘谷だのが踏み込んで、不義いたずらの罪に落とそうという相談に……どうしても、と言って乗せられたんです。
……あの坊さんは、高野山の、お金になるお宝ものを売りに出て来ているでしょう。熊沢は何処かの大金持ちだの、何省の大臣だのに売ってやると言って騙して、それを皆質に入れて使って了ったので、催促される苦し紛れに、不断から何だか私にね、坊さんが厭らしい目つきをするのを知っていて、まぁ大それた美人局だわね。
私が弱いもんだから、身体も度胸もずば抜けて強そうなあの人を頼りにしてこんな身の上になったけれど、……そんな相談をされてからはね……その上にこの眉毛を見てからは、……」
と、お千は密と宗吉の肩を撫でた。
「つくづく、あんな人が可厭になった、――計画では、私たちが寝ているところに、熊沢達がそら、どかどかと踏込むでしょう、その時、私は貴方を抱いてちゃんと起きて、居直って愛想づかしをきっぱり言って、夜中に直ぐに飛び出して、溜飲を下げてやろうと思ったけれど、どんな発機で、自棄腹のあの人達が乱暴して、貴方に怪我でもさせた日にゃ、取返しがつかないからと、いま胸に手を置いて、分別をしたんですよ。
さ、このまま何処かへ行きましょう。私に任して安心しなさいよ。……貴方も絶体にあの人達と二度と付き合っては不可ません」
裏崕の石段を降りる時、宗吉は狼の峠を越して、花やかな都を見る思いがした。
「此処……そう……」
お千さんが莞爾して、塩煎餅を買うのに昼夜帯から抽いたのが、安ものらしい、が、萌黃の金入。
「食べながら歩行きましょう」
「弱虫だね」
大通りへ抜ける暗がりで、甘く、かつ香しく、皓歯でこなしたのを、口移しで。……
つづく




