泉 鏡花「売色鴨南蛮」現代語勝手訳 五
五
桜には少し早い。木瓜か何かが枝のまま障子に映る花の影に、ほんのりと日南の薫りが添えられたよう……。お千がもとの座に着いた。
その向こうには、旦那の熊沢が、上下大島を着て、金鎖をし、あの大きな体躯でドカリと胡座を組むのだろう。
「お留守ですか?」
宗吉が何となく甘谷に言った。ここにもおらず、湯に行った中にもいなかった。その熊沢のことを訊いたのである。
すると、縁側の片隅で、
「えへん!」と屋鳴りのするような咳払いを響かせ、便所の裡から、
「熊沢は此処にいるぞう」
「まあ」
「随分ですこと、ほほほ」
と、家主のお妾が次の室を台所へ通りがかりに笑って行くと、お千さんが俯向いたまま莞爾して、
「余り色気がなさ過ぎるわ」
「其処が御婦人の毒でげす」と、甘谷は前掛けをポンポン敲いて、
「お千さんは大将の彼処ンとこへ落ッこちたんだ」
「あら、随分……酷いじゃありませんか、甘谷さん、余りだよ」
なにも知らない宗吉にも、この間違いは直ぐ分かった。汚いに違いない。
「いやあ、これは、失敗、失敬、失礼」
と、甘谷は立て続けに叩頭をして、
「それでは、ここでお詫びに一つ貴女の顔を剃らしていただきやしょう。いえ、自慢じゃありませんがね、昨夜ッから申す通り、あっしは図体は不器用でも、歌舞伎の『梅雨小袖昔八丈』に出てくる勝奴ぐらいにはちゃんと使えます。剃刀を持たせちゃ確かです。――泰君、一寸奥へ行って、剃刀を借りて来給え」
宗吉は、お千さんが湯だけには密と行けても、床屋には行くことが出来ず、また、呼ぶこともままならない境遇であるのが分かっているので、お妾に剃刀を借りて戻る。……
「おっと!……ついでに金盥……気を利かして、気を利かして」
この間に、いま何か話があったようで、
「さあ、君、ここへ顔を出したまえ。一つ手際をご覧に入れなくては奥さんが信用くださらない」
「いいえ、そうじゃありませんけれどもね、私まだ、そんなでもないんですから」
「なぁに、ご遠慮には及びません。間違ったところで、たかが小僧の顔でさ。……丁度ほら、むく毛が生えて、餡子の撮食をしたようだ」
宗吉は、憐れ、ゴクリと唾を呑んだ。
「仰向いて、ぐっと。そら、どうです。つるつるのつるつると、鮮やかなもんでげしょう」
「何だか危なっかしいわね」
と、少し膝を浮かしながら、憂慮しそうに甘谷の手許を覗く。動かすお千の顔が鉄瓶の湯気の陽炎で薄絹が掛かったように、宗吉の目にちらちら、ちらちら。
「大丈夫、それこの通り、一寸一寸の一寸一寸と」
「あれ、止して頂戴、止してよ」
と、浮かした膝を揺ら揺らと、袖が薫って伸び上がる。
「何故ですてば」
「危ないわ、危ないわ。おとなしい、その優しい眉毛を落としたらどうしましょう」
「その事ですかい」と、一寸止めた剃刀を又当てた。
「構やしません」
「目の縁はまだいいとしてもよ、上は止して、後生だから」
「貴女の襟脚を剃ろうってんだ。何、こんなものくらい」
「ああ、ああああ、あああーッ」と便所の裡から屋根へ突き抜けるくらいの大欠伸。
「笑っちゃぁ……不可い不可い」
「ははははは、笑ったって、泣いたって、何、こんな小僧ッ子の眉毛なんか」
「厭、厭、厭」と、膝をついたまま、するすると寄ってくる衣摺が、遠くから羽衣の音が近くように宗吉の胸に響いた……。
畳の波に人魚の半身。
「どんな母さんでしょう、このお方」
雪のように白い腕を上げて、甘谷の剃刀の手を支え、そして突いて離して、胸に抱くようにして宗吉を熟と視た。
「羨ましい事。まぁ、何ていい眉毛だろう。親御はさぞお可愛いだろうねぇ」
乳も白々と、優しさと可懐しさが透き通るように視えながら、衣の綾も衣紋の色も、黒髪も、肩に袖を掛けられて、宗吉の目が真暗になった時、面を襟に伏せながら、忍び兼ねた胸を絞って、思わずほろほろと熱い涙。
お妾が次の室から、
「切れますか、剃刀は? ……研ぎに出そう出そうと思ッちゃいたんだけど、ついね……」
自殺をするのに、宗吉は『床屋に持って行きましょう』と言って、この剃刀を取って出るのであるが。それは同じ日の夜に入ってからである。
詳細は、……。




