泉 鏡花「売色鴨南蛮」現代語勝手訳 四
四
お千は世を忍び、人目を憚る女であった。それは、宗吉が世話になっている彼ら仲間の中で、首領格の熊沢と言う、いずれ大実業家になるのだと聞いている、画に描かれた化地蔵のような大男が囲っているのだが、その辺にいる女を身請けした、と言うのは表向きで、実際は、本人を納得させて連れ出し、人目に付かぬよう内緒で囲っていたのである。
言うまでもなく、商売人だけれど、芸妓なのか遊女なのか――それは今でも分からない――何しろ、宗吉には三つも、四つ、あるいはもっとかも知れないが年紀上の綺麗な姉さん、婀娜なお千さんだったのである。
前夜まで――まさに今のような、じとじと降る雨だったのが、花が開くように霽った彼岸前の日曜の朝、宗吉は朝飯前――実際の朝飯前なのだ――と言うが、やがて十時。……ここはひもじい経験のない読者にもご推読を願っておく。が、いつになってもその朝のご飯はなかった。
妾宅では前の晩、宵に一度天丼を注文。夜中一時頃には蕎麦の出前が、プンと枕頭を匂わせて露地を入ったことを知っているので、行けば何かあるだろう……天気が可いとなお食べたい。空っ腹を抱えて、げっそりと落ち込むように、溝の減った裏長屋の格子戸を開けたところ、突き当たりの妾宅の柳の下から、ぞろぞろと長閑そうに出て来た三人連れに出会った。
肩幅が広く、薄汚れた黄八丈の書生羽織をぞろりと着たのは、この長屋の主人で、一度戸口へ引っ込んだ宗吉を横目で見ると、小指を出して、
「どうしてる?」
と小声で言った。
「まだ、お寝ってです」
起きるのに張り合いがなく、細君がまだ裸体で柏餅のように布団に包まっているのをそう言うと、主人は一寸舌を出して黙って行く。
次に出て来たのは、剃りたての頭の青々とした綺麗な出家。細面の色の白いのが、鼠色の法衣下の上へ黒縮緬の五紋、――これは! お千さんが着ていたものだ、振りの紅い、――羽織を着ていた。昨夜、露地に入って来た時、この出家は、紫の輪袈裟を雲のように尊く絡って、水晶の珠数を提げていたのに。――
と、後ろから、拳固で前の円い頭をコツンと敲く真似をして、宗吉を流眄でニヤリと見て続いたのは、頭毛の真ん中に皿に似た禿のある、色の黒い、目の窪んだ口の大な男で、最近まで政治家だったが、職を移して、実業家を志し、そのために紋着を脱いで、綿銘仙の羽織を裄短に、メリヤスの股引を穿いている。……小皿の平四郎。
いずれも、花骨牌で徹夜しての今、明神坂の常磐湯へ行くのである。
行違いに茫乎と宗吉が妾宅へ入ると、食うものどころか、いきなり後始末の掃除をさせられた。
「済まないねぇ、学生さんに働かせちゃあ」
と、お千さんは、伊達巻き一つの艶な蹴出で、お召しの重衣の褄をぞろりと引いて、黒天鵞絨の座布団を持って、火鉢の前を遁げながらそう言った。
「なぁに、今は私たちの小僧です」
と、甘谷と言う横太りの、でぶでぶとした背の低い、ばらりと髪を長くした、太鼓腹に角帯を巻いて、前掛け紐をちょんと真田結びに結んでいる、これも医学の落第生で、追って大実業家になろうと準備中の男が笑いながら言ったのである。
二人がこの妾宅の貸し主のお妾――もういい加減、中婆さんなのだが――と共用している次の間へ立った間に、宗吉がひょろひょろして、時々浅ましく下腹をぐっと泣かせながら、とにかく綺麗に掃き出してしまうと、
「ご苦労、ご苦労」
と調子づいて、
「さあ、貴女」
と、甘谷がお千さんから座布団を引攫って、もとの処へ。……身体に似ず、腰の軽い男。……もっともこの甘谷もつい十日前までは宗吉と同じ長屋に貸し布団に夜着一つで、芋虫のようにゴロゴロしていたところ、――事業のために外出がちな熊沢の旦那が、お千さんの見張兼番人かたがた妾宅の方へ引き取って置いてあるので、日陰者でもお千はご主人。これくらいのことは当然である。
対の座布団をとんとんと小型の長火鉢の内側に直して、
「さ、さ、貴女」
と言いながら、自分は退いて、
「いざ先ず……これへ」と口も気もともに軽い、が、起居振る舞いが石臼を引摺るように、どしどしする。――ああ、無理はない、脚気がある。夜明かしはしても朝湯には行けないのである。
「可厭ですことねえ」
と婀娜な目で襖際から覗くように、お千さんは友染の裾を曳いた櫛巻きの立姿である。
つづく




