泉 鏡花「売色鴨南蛮」現代語勝手訳 三
三
鼻の隆いその顔を見て、胸に白粉が着くのではないかと思うくらい、心にひたひたと忍び寄って来るものを感じた。
宗吉は、愕然として、再び似た人の面影をその女に発見したのである。
緋縮緬の女は髪を櫛巻に結い、黒縮緬の紋着の羽織を撫肩にぞろりと着て、痩せた片手を力のない襟に挿し、そうしながら、引き上げた褄を圧えるように、膝においた手で萌黄色のオペラバックを大事そうに持っている。もう三十をいくつも越した年恰好なのに、子どもの土産にする玩具品みたいな粗末な手提げを大事そうに持っていると、着物も、襦袢も、素足も、櫛巻きも、紋着も、すべて何となくちぐはぐな感じがする。そんなところへ、色白そうなのに化粧が濃く、口が大きく見えるまでに濡々と紅をさし、細い頸の真っ白な喉を長くして、明神の森を遠見に、伸び上がるような姿勢で、ぐっと仰向いて、大きな目を凝と見はった顔は、首だけ活人形を継いだようで、綺麗と言うよりはもの凄く、ただ美しく、ただ優しく、しかもきりりとした比類のないその美しい眉。
眉は宗吉の記憶にある忘れられない女と寸分違わない。が、この似た女はもう一人の丸髷を結った従弟の細君に似た方ほどには適格したものでは決してない。あるいは、そっちの方があまりによく似ていたので、それに引き込まれて、心に刻んだ面影が緋縮緬の方に宿ったのかも知れない。
そう、眉の形、ただそれだけで、泰宗吉の胸は、夢に三日月を呑んだように、晃乎と尊く輝いて、時めいて心躍ったのである。
――お千と言ったその女は、実に宗吉が十七歳の時の生命の親である。――
しかも場所は、目の前に見える神田明神の春の夜の境内であった。
「ああ……もう一呼吸で、剃刀で」
と、今視めても身の毛が悚立つ。……森を渡る雨雲は、陰惨な鼠色の隈を取った可恐しい面のようで、家々の棟は瓦の牙を噛み、歯を重ねたその上に、二所、三所、赤煉瓦の軒と亜鉛屋根が引っぺがされたのが、高い空に赫と赤い歯茎を剥く。その有り様は、人を啖う鬼の口を髣髴とさせた。……その森、その樹立は、……春雨に煙っているとしか見えない目には、三つ、五つ縦に並べた薄紫の眉刷毛に見えるだろう。しかし、死のうとした身の、その時を思えば、それも逆さに生えた蓬々(おどろおどろ)した髭なのである。
その空へ、すらすらと雁のように浮く、緋縮緬の女の眉よ! 瞳も据って、瞬きもしないで、恍惚と同じ処を凝視めているのを、宗吉は又ちらりと見た。
『ああ、あの女なのか?』
と波を打って轟く胸に、この停車場は、今、大きな船の甲板がグルリと廻るように、回想の舳を明神の森に向けた。
ああ、手に取るようにもっと近くなる。
「斜めに低くなっている、あそこが明神坂だな」
その右側の露地の突き当たりの家で。……
――死のうとした日の朝――宗吉は、年紀上の渠の友達に顔を剃ってもらった。
……その夜、明神の境内であわや咽喉にあてがったのはその剃刀であるが。
(一寸順序だてて話そう)
宗吉は学資もないのに無鉄砲に故郷を出て、行処のなさに、その頃ある一団の、取り止めのない自堕落なその日暮らしの人たちの世話になって、辛うじて雨露をしのぐ生活をしていた。
その人たちと言うのは、主に怠惰、放蕩のため、世の中から見捨てられた医学生の落第仲間で、年相応に、女房持ちなどもいた。中には政治家もどきもいるし、実業家の下積、あるいは山師もいたし、また、真面目に巡査になろうかと言うのもいた。
そこで宗吉が当時寝泊まりをしていたのは、同じ明神坂下の片側長屋の一軒で、ここには食うや食わずの医学生上がりの松田というのが夫婦でいた。
その突き当たりに、柳の樹に軒燈が掛かった見晴らしのいい誰かの妾宅があり、その貸間にいた露が垂れるくらいに綺麗だったのが……今ここの緋縮緬の女が似ていると思われる、そのお千さんである。
つづく




