表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/10

泉 鏡花「売色鴨南蛮」現代語勝手訳 二

     二


 (おど)かしては不可(いけ)ない。何、黒山の中にいた赤帽あかぼうである。腕組みをしながら、後ろ向きで柱に(もた)れ掛かっていたが、宗吉が顔を出したのを、茶色のちょんぼり髭を生やした小白い横顔で、じろりと見ると、

「上りは停電で……下りは故障です」

と、人の顔さえ見れば、返事はこう言うものと()めたようにほとんど機械的に言った。そして、その頸窪(ぼんのくぼ)を凭れ掛かった柱で小突いて平然としている。

「ヘッ! 上りは停電」

「下りは故障だ」

思いが通じ合うように、四五人が口々に喋った。

「ああ、ああ」

「堪らねえなあ」

「よく出来てら」

「困ったわねぇ」と、つい釣り込まれたかして、連れもいないのに女学生が猪首(いくび)を縮めて呟いた。

 だが、(みんな)、今はじめて知ったのではなさそうだ。赤帽が機械的にそう言うのでも分かる。

 こんな群集の動揺(どよ)む下に、線路は冷然と日脚(ひあし)に薄暗く沈んで、いまに(はぜ)が釣れるから待てとでも言っているような大都市の泥海に、入江のように湾曲しつつ、伸び伸びと静まりかえって、そのくせ底光りする歯の土手を見せて、冷笑(あざわら)っている。

 赤帽の言葉を善意に解釈するにしても、(いやしく)中山高帽(ちゅうやまたか)(かぶ)って、外套も服も誂えたような洋行帰りの大学教授が、出入口に近いところに押し出て、この際じたばたすべきではあるまい。


 宗吉は――煙草は()まないが――その火鉢の傍へ引き籠もろうとして、靴を返しながら爪尖(つまさき)を見れば、ぐしょ濡れの土間にちらちらと又、(くれない)(つま)が流れる。

 緋鯉(ひごい)(おど)ったようだった。

 思わずそこに視線が向かったが、その時、肩を合わせるように並んでいたもう一人の女が腰掛から立ち上がった。丁度緋縮緬の女と並んでいたので、その連れかとも思われる。大島紬の羽織を着た、丸髷の背の高い、面長な、目鼻立ちのきっぱりした顔。その顔を見て宗吉は、あっと思った。

 そして、再び、おやっ、と思った。

 と言うのは、この頃の忙しさに、不沙汰(ぶざた)はしているが、知人の婚礼の席に参列していた従弟(いとこ)の細君にそっくりだったからである。世馴れた人だとすぐに「おお」と声を掛けるほどよく似ている。が、その似ているのに驚いたのでもなければ、思いがけず出会ったのを驚いた訳でもない。まさしく、その人だと思うのに、近々と顔を合わせながら、すっと目を()らして窓から雨の空を見るという、わざとらしくないくらい自然な赤の他人らしい振る舞いに驚きを隠せなかったのである。

 いや、確かに全くの他人に違いない。

 けれども、背恰好せいかっこうから、形容(なりかたち)、生え際の少し乱れた処、色白な容色(きりょう)よしで、髪を結う浅黄色の手柄(・・)がいかにも似合う細君なのだが、この女も又不思議に浅黄の手柄(・・)で、(びん)の色っぽい処から……それそれ、そう、この少し仰向いている顔つき。その細君はちょっと眉を(ひそ)める時、小鼻から口許(くちもと)に皺を寄せる癖があり、……それまでが、その他人には、そのままで、電車を待ちくたびれて、雨に侘しげな様子が、小鼻に寄せた皺にはっきり出ていた。

 もちろん、別人とは納得しながら、うっかり口に出そうな挨拶(こんにちは)を唇で(かみ)()めたのだが、気がつくといつの間にか足はだいぶ近づいて、帽子に手を掛けていた。そのきまりの悪さに、背を向けて立ち直ると、雲低く、下谷しもや、神田の屋根一面、雨も霞も(みなぎ)って濁った(なか)に、神田明神の森が見える。

 と、緋縮緬の女が、同じ方を(じっ)と視ていた。


つづく

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ